『山物語を紡ぐ人びと』vol.24〜 久保信人さん(フィールズ・オン・アース/株式会社ユーレックス)

山物語を紡ぐ人びと〜vol.24久保信人さん(フィールズ・オン・アース/株式会社ユーレックス)

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2017年の春夏シーズンもたくさんのアスリートが世界の舞台で活躍した。ヨーロッパの真夏の祭典『UTMB(ウルトラトレイル・デュ・モンブラン)』では、トップアスリートだけなく市民ランナーも数多く参加し、自らの力を試すべく大舞台に挑んだ。

トレイルランニングやスカイランニングの世界では、年々、海外レースにチャレンジするランナーが増えている。若手アスリートの活躍も目覚ましい。そんなランナーたちを陰ながら支えているのが、今回ご紹介する久保信人さんだ。

これまで大会などで久保さんにお会いする度に、何か熱いものを持った方だなという印象を抱いていた。今回のインタビューでこれまでの人生について伺い、驚かされた。と同時に、秘められた情熱のわけを深く理解した。

お話の中で、「日本のトレイルランニングシーンはいま、新しいステージに向かおうとしているのかもしれない」とふと感じた。久保さんのような方が現れたことで、これから思いがけない変化が生まれるかもしれない。 

ぜひたくさんの方に、久保さんの物語を知っていただきたいと思う。

 

 

自転車競技に人生を賭けてきた

 

久保信人さんは吉住友里さんや丹羽薫さん、松本大さんや大瀬和文さんなど多くのトップアスリートや市民ランナーの海外遠征を手助けしている。

久保さんが勤める株式会社ユーレックスは、トレイルランニングやスカイランニングの海外ツアーを企画し、選手たちをサポートする旅行会社だ。久保さんが入社した3年前から「フィールズ・オン・アース」という新部署を立ち上げ、こうしたツアーを実施するようになった。

 

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そもそも、なぜいまの仕事に携わるようになったのだろう?

「実は僕自身、ずっと実業団で自転車競技に取り組んでいたのです」。 

聞けば、高校時代から30代半ばまで、自転車のロードレースひと筋で生きてきたという。きっかけは16歳のときだった。家の近くの粗大ゴミ置き場に、競技用の自転車が長い間うち捨てられていた。そこに記されていた電話番号に連絡してみると、盗まれた自転車であることがわかった。「もう新しい自転車を買ってしまったから、よかったら使ってください」と持ち主に言われる。 

「軽かったので、いい自転車なのだろうなと思いました。錆びたチェーンを取り替えようと調べているうちにプロショップというものがあることを知り、通うようになりました」。 

そのプロショップで自転車レースについて教えてもらい、拾った自転車で出場してみた。2回目に出場した大会で6位に入り、自転車競技の面白さに目覚める。両親に頼んで本格的なロードレーサーを買ってもらい、ますますのめり込んでいった。そしてクラブチームに所属する。

高校卒業後、久保さんは自転車競技の本場スイスへと旅をした。アルプスの雄大な景色を眺めるうち「自分もこんな景色の中を走りたい」と強く思うようになる。帰国後、フランスでの競技経験がある指導者が率いる若手育成チームの試験に合格、4年ほど所属した。100万円近くかかる機材は、実業団が貸与してくれた。

「自転車レースの世界は特殊なんです。給料が発生しない実業団チームがたくさんあって、活動費だけサポートしてくれます。ガソリンスタンドなどでアルバイトをしながら生活していました」。 

 

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その後、フランスのクラブチームに約3年所属する。レースシーズンの半年間だけフランスに滞在し、競技をするという生活だ。現在の仕事で活用しているフランス語は、その頃に身につけた。「日本人選手が海外に挑戦し始めた90年代のことです。僕も“ツール・ド・フランス”に憧れていました」。

しかし、現実は甘くなかった。フランスではプロの下にアマチュアのエリートのカテゴリーがあり、さらにその下にナショナルというカテゴリーが続く。プロになるにはユースに属する23歳までにアマチュアのエリートで優勝しなければならない。「自分はエリートまで上がれませんでした。現実にぶち当たり、力が及ばないことを知りました」。

そして23歳のとき、競技を退いた。

 

 

チームを世界の舞台で戦わせたい

 

高校時代から自転車ひと筋だった久保さんは、フランス時代のつながりを活かし、日本人選手の海外遠征をサポートするコーディネーターの仕事を自ら始めた。

 

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_14O2131(上)ユーレックスのオフィスではさまざまな国のスタッフが働く。(下)同僚のコリューブル・ロマンさんと。

 

しばらくして名門ブリヂストンから声がかかる。コーチという立場でチームの海外挑戦を手助けしてほしいというオファーだ。ブリヂストンに所属した久保さんは、自分たちのチームをレースに招待してもらえるよう、フランスの大会主催者を中心に交渉を重ねていった。

「いろいろな場所へ行きました。アフリカ、モロッコ、カメルーン、ニューカレドニア、そしてフランス領のカリブ海マルティニーク島。この島はレユニオン島(※アフリカ・マダガスカル島沖に浮かぶフランス領の島。島内で開催される100マイルのトレイルランレースが人気)のようなイメージで、自転車レースが熱狂的に盛り上がっている島です。自分の所属チームも一度、ここで総合優勝したことがあるんですよ」。

レース期間中は『ツール・ド・フランス』のように、お客さんで溢れかえるのだという。 

自転車の国際レースは、基本的に6人〜9人のチームで戦う。どのチームにもエースがいて、その選手を総合優勝させるために戦略を練る。エースができるだけ風の抵抗を受けないように他の選手が交代で引っ張り、登りになるとエースが前に出て勝負をかける。

身体の大きな欧米人は風に強いが、日本人は弱かった。日本のチームはまだまだ発展途上で、欧米のプロチームにはほとんど勝てなかった。

 

 

絶望の淵から、掬い上げてくれたもの

 

2011年、久保さんは所属チームから解雇される。それまでには、自ら監督も務めてチームを牽引したこともあった。

辞める数年前には「自分よりも世界をよく知る監督を迎えたい」との想いから、フランス人監督を招聘。それでも思い描くチームづくりはできなかった。次第にチーム内で意見が分かれるようになり、結果として自らがチームを去ることになる。 

「いろいろなことが重なりました。自分はどうしても日本チームをツール・ド・フランスで戦えるレベルにしたかったんです。ツールに出場するには、プロチームとして一定規模の予算が必要です。辞める前、同じようにツールを目指す海外チームから合併話が舞い込んでいました。最終的に合併はしなかったのですが、相手チームは別のパートナーを見つけてツールへの出場を果たしたのです。ツール・ド・フランスは自転車競技の最高峰。そこで戦うチャンスを逃してしまったことは、自分にとって大きなショックでした」。

選手として実現できなかった夢を、今度はスタッフとして叶えたい。そのために努力し続けてきた久保さんは、競技から離れたことで自分を見失ってしまう。失意のどん底に陥り、鬱病のような状態になった。

「全くなにをする気も起きませんでした。自転車への情熱ももうありません。でも家族もいますし、生活していかなければならない。人生で初めて就職活動をしました」。

35歳のことだ。

 

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思考力を必要とする仕事には無理があったので、テキパキと身体を動かす運送業の仕事に就いた。なんとか毎日を乗り切っていたある日、偶然にネットで鏑木毅さんがUTMBを走る姿を目にする。2009年、3位に入賞した時の映像だ。

山を走るレースがあることを、そのとき初めて知った。

「それまでエンデュランス系の競技は自転車が最高だと思っていたんです。ツール・ド・フランスは20数日間走りますが、1日の走行時間は7〜8時間。ところがUTMBは20数時間も寝ないで走り続ける。これは一体なんなのだ、なんてすごいスポーツなんだと興奮しました」。 

トレイルランでは世界レベルのレースで入賞できるということにも、興味をひかれた。

現役選手を退いてから13年の月日が経っていた。その間、ほぼスポーツはしていない。体重も当時に比べて20kgほど増えている。

だが、久保さんはこう思った。

「ここでアクションを起こさないと、自分の人生は何もなくなってしまう」。 

そしてすぐに行動を起こした。ランニングのエントリーサイトで情報を集め、42kmのトレイルランレースにエントリーする。

 

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練習を始めてみたものの、最初は近所を数キロ走るだけで筋肉痛が生じた。徐々に丹沢などへ走りに出かけるようになり、通勤ランも行うようになった。

 

 

そして再び、フランスの地へ

 

初レースは無心で走った。

結果、700人中70位くらいでゴール。意外に走れる自分に驚いたが、トップ選手の速さを知り、悔しい気持ちも残った。 

「もっと頑張れば上にいけるのではと思って、それからは毎月レースに出場しました。走れば走るほど成長していくのがわかる。頑張るモチベーションを取り戻したのです」。

心肺機能には自信があった。自転車レースでは7〜8時間もの間、心拍数180で走り続けることもあったからだ。心の奥には、かつての夢がくすぶっていた。「フランスのレースにもう一度帰りたい」。

そして2015年。
フランス・シャモニーで開催される『モンブラン・マラソン(総距離82km/累積標高差約6,000m)』にエントリーする。その年のモンブラン・マラソンはスカイランナーズワールドシリーズも兼ねており、世界の強豪たちも集まっていた。

レース前の調整として出場した国内レース『OSJ奥久慈トレイルレース』では総合10位、年代別3位に入り、初めて表彰台にも上った。自信をつけ、フランスに向かった。

モンブラン・マラソン当日のことは、いまでも忘れられない。

「スタートラインに並ぶことが、僕にとっては本当に嬉しいことだったのです。10数年ぶりにゼッケンをつけ、思わず泣いてしまいました。自分はまたここに帰ってこられたのだと、想いがこみ上げてきてしまって」。

 

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ふと見ると、高校時代から自分を知る奥様の亜矢子さんも泣いていた。 

「自分はずっとレースの世界で生きてきました。選手だけでなくスタッフとしても、戦う世界にずっと身を置いてきました。それが、初めて遠いものになっていた。もう一生、自分は戦いの世界には戻れないと思って諦めていました。市民ランナーとはいえ、まさか再び自分がスタートラインに立つとは…。感無量でした」。

レース中はシャモニーに住む友人が、久保さんの家族を車に乗せてエイドを回ってくれた。家族にとっても、久保さんがレースに挑む姿を見る初めての経験だった。 

「現役時代を子どもたちに見せられなかったので、頑張り過ぎてしまって。なんとか100位以内でゴールしたいと追い込みました。とても暑い日だったんですね。さらに追い込んだら熱中症になってしまい、エイドで長い時間休んで、やっとの思いでゴールしました」。

完走タイムは14時間ほど。これほど長い時間動き続けたことはなかっただけに、達成感もひとしおだった。家族も一緒にゴールをくぐった。トレイルランを始めてから、家族とゴールすることは憧れだった。

 

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長い時を経て、ようやくたどり着いた場所

 

その頃、仕事でも新たな展開が待っていた。現在勤める会社がスポーツ関連部門を新設したいと求人募集をしていたのだ。履歴書を送ったところ、フランス出張中の社長がモンブラン・マラソンを見てくれて「こういうレースのツアーを企画したい」と採用が決まった。

トレイルランに出会ったことで、かつて培った海外交渉のノウハウやフランス語を活かせるようになった。4年前には想像もできなかった姿だ。

「一時期はこの世の終わりかと思うほど落ち込みました。トレイルランに出会っていなかったら、死んでいたかもしれない。それくらい精神的に追い込まれていたのです。でも新しい世界が待っていた。トレイルランに出会えて、本当によかったと思っています」。

フランスの地でスタートラインに立ち、「ようやくここに辿りついた」と久保さんは思った。長い道のりを経て、自分の足で辿りついた場所だ。

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「山が好き」という純粋さに惹かれる

 

自転車ではMTB、シクロクロス、ロードレースで世界選手権のナショナルチームスタッフとして何度も帯同し、世界の壁の厚さを目の当たりにした。自転車競技は歴史も古く、それだけに独特の世界が構築されていた。

それに比べて、トレイルランニングは競技としてまだ新しい。久保さんにはある意味、真っ白な状態に見えるという。「だからこそ、若い選手たちにはもっと世界を見てほしい。世界に挑戦して、まっすぐに成長してほしいという想いがあります」。

自由度が高い一方で、世界に挑戦するには資金の問題もある。その解決策のひとつとして、スカイランニング世界選手権では日本代表チームと協力して出場応援ツアーを組み、ツアーの収益の一部を選手の遠征費に充当している。 

トップ選手をゲストランナーに迎える海外ツアーでは、集客状況に応じて、選手の遠征費を支援する。選手にとっては活動費の負担が減るメリットがあり、参加するランナーにとっては、トップ選手からアドバイスをもらったり交流したりする機会が得られる。

「いろいろ考えながら企画を練っています。お客さまが喜んでくれて、選手の活動の幅が広がれば一番いいなと思っています」。

これからトレイルランやスカイランニングの市場が拡大することにも期待を寄せるが、バランスも重要だと久保さんは考えている。

「自転車のトッププロチームは年間予算が20億円くらいあるんですね。90年代は業界が隆盛し、稼ぐ選手がたくさん生まれました。大きなお金が動くがゆえに、ドーピング問題も起こってしまったのです。残念ながら、自転車競技=ドーピングというイメージがついてしまいました」。

一度ついてしまったマイナスのイメージは、なかなか払拭できない。スキャンダルが起こると競技自体も衰退してしまう様子を、久保さんは見てきた。

「トレイルランの世界は、みんな本当に山が好きですよね。世界最強といわれるフランソワ・デンヌ選手でもスポンサー契約料が主な収入源ではなく、ワイナリーの経営で生活しています。お金ではないところに価値を見いだしているというスタンスが魅力でもあるんです」。

 

 

サブ3とサブ10。自分もまだやれるんだ

 

これまでに『CCC(UTMBの一カテゴリー/101km)』や『ビブラム香港100』、『STY(UTMFの半周カテゴリー/約90km)』などロングレースを経験してきた。

自転車競技時代にユースで2回、全日本トップテンに入った経験を持つ久保さんは、「少しでも上の順位を目指す感覚が身体に染みついている」と笑う。

「自分のヒューマンエネルギーを増幅させる機材を使う競技、たとえば自転車やクロスカントリースキー、スケートなどは心拍が追い込めるんですね。ランニングで心肺200を超えるのは無理ですけれど、自転車ではよく超えていました。その領域を知っているので、ランでもついつい追い込んでしまう。頭ではまだ行けると感じているのに、足がついていかなくなる。その感覚が新鮮です」。 

 

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そして、二つの目標を掲げた。

ひとつめの目標は初フルマラソンでのサブ3(3時間以内の完走)。これは『第一回・横浜マラソン』を2時間54分で走り、クリアした。

もう一つの目標は『ハセツネCUP(日本山岳耐久レース)』初出場でのサブ10(10時間以内の完走)。これも9時間35分のゴールを成し遂げ、達成した。

「この二つを達成したとき、長い闇からようやく這い上がることができました。俺はやれば出来るんだと思うことができたのです。まだやれると思える何かをずっと掴みたかった。そのために無我夢中で突き進んできました」。

長距離のトレイルランレースでは、完走すること自体に価値がある。完走者はみな勝者と見なされる。そうした世界観が久保さんはとても好きだという。

「誰かと戦うのではなく、自分自身と戦うというスタンスはトレイルランならではのもの。たとえばUTMBで後ろの方でゴールする選手は、トップ選手の3倍くらい長時間動き続けるわけです。それは本当にすごいことだと思うんですよ」。

 

 

一生に一回かもしれない思い出のために

 

今年も多くの海外ツアーを企画し、選手をサポートしてきた。「この方がUTMBに出場するのは、もしかしたら一生で一回かもしれない。そう考えたら、出来るだけのことはして差し上げたい。ご家族にも、選手が頑張る姿を見せてあげたい。自分自身レースに出場すると、家族がエイドで待っていることがものすごく力になりますから」。

そのため、ツアーでは現地のスタッフと協力しながら、選手の家族と一緒にエイドを回りサポートしていく。

ツアーの企画を始めて2年半が経つ。「前回とてもよかったから」と再び参加してくれるランナーも増えてきた。

 いつかは自分も100マイルを目指したい。しかし、気やすく手は出したくないという思いもある。その理由は「ずっとトレイルランを楽しんでいきたいから」だ。

「お世辞にも100マイルレースは健康的とはいえません。挑戦するからには慎重に取り組まないと、リスクも高いと思っています。年間で3〜4本100マイルを走った選手は翌年にスランプに陥ることも多い。肉体だけでなくメンタルに与える影響も大きいのだろうと想像します」。 

 

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このインタビューを終えてしばらく経った頃、久保さんはひとつの決断をした。この10月、『グラン・レイド・レユニオン』に出場する。初めての100マイルレースだ。

「正直言って、いまはただただ怖いんです。でもやれるだけのことはやりたい。ベストを尽くします」。

たくさんのランナーの夢を受け止め、人生のハレの日がより輝くようにと心を砕く久保さん。次は自らが舞台に立つ番だ。

 

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Photo:Takuhiro Ogawa
Special thanks to Sho Fujimaki
Text:Yumiko Chiba