スタート二日目で中止となったTJAR。初出場した土井陵の想い

写真: 藤巻翔

8月8日(日)午前0時にスタートした『トランスジャパンアルプスレース2020』(=TJAR/日本海から静岡まで日本アルプスとロードを踏破する総距離415km、累積標高 約27,000mの山岳レース)は、9日(月)午前7時2分に中止が発表された。

今回の『TJAR2020』は、本来なら昨年開催されるはずだった大会がコロナの影響により延期されたもの。第10回目の記念大会でもあった。

台風9号の影響が危惧されていたが、スタート地点である富山県魚津市の天候は雨がぱらつく程度で、当初は中止とする状況ではなかったという。その後、8日(日)16時発表の「ヤマテン」によって、「大会中止基準」にあたる予報が発せられたことから、協議の末、中止の判断が下された。

この時点でトップを独走していたのが土井陵さんだ。スタートから、かつてないハイスピードで進み、多くのファンが期待を込めてトラッキングを見守っていた。中止が決まったとき、土井さんは北アルプスを下りて上高地からロードを走り、いくつめかのトンネルを抜けたところだったという。

TJAR選手に対するイメージ
既成概念を取り払いたいという気持ちも

ーーーどのようにして中止を知りましたか。

土井:トンネルとトンネルの間、荷物を置いてライトを取りだそうとしていたときに、番組制作のために撮影に入っていたテレビクルーから「中止です」と教えてもらいました。実行委員会からもスマホに連絡が入っていたようなのですが、気づかなかったので。

ーーー聞いたときはどんなお気持ちでしたか。

土井:天候がずっと悪かったんですね。台風が2つ近づいていて、今後も回復の見込みがなかったので、何か変更があってもおかしくはないなと思いながら進んでいました。上高地を下りると土砂降りになってきたので、ついに台風の影響が大きくなってきたなと感じていました。

後続選手が気になっていたんです。自分が北アルプスの西鎌尾根を通過したのが9日深夜1時〜2時だったのですが、そのときも風が強くて、これ以上雨風が強くなったら後続の選手は相当ハードやなと思っていました。だから中止ではなくて中断はあり得るかなとも思っていたんです。風速30mくらいになると予想されていましたから。

そんなわけで、テレビクルーの人に声をかけられたときも、思わず「台風ですか?事故ですか?」と尋ねました。事故でなくて本当によかったのですが、それくらい事故が生じる可能性も頭の中にはありました。

ーーー前回の2018年大会では選考会に参加された後、自ら辞退を申し出られました。今回は新たな気持ちで臨んだという感じでしょうか。

土井:そうですね。いろいろ考えた末、あらためてTJARは魅力的なレースだと感じて出場を決めました。

ーーー土井さんがTJARを目指すようになったのは、2012年のNHK番組を見たのがきっかけと伺っています。その頃といまとでは、ご自身の意識で違う部分はありますか?

土井:当時、自分はどちらかいえば登山をメインに活動していました。だから登山スタイルのイメージでTJAR出場を考えていたのですが、その後、自分自身がトレイルランをメインにするようになり、いまは双方をリミックスしたような感覚です。

TJARではよく「山力が重要」といわれますが、それだけではないんじゃないかと思うんですね。人間て、既成概念で決めてしまう部分がありますよね。その考えをとっぱらってみたいなとも思っていました。

自分はトレイルランナーでもあるし登山者でもあると思っているので、融合した気持ちをもってチャレンジしたいと思いました。そこが、TJARに憧れ始めた2012年頃とは大きく異なるところです。

写真:田上雅之

ーーーコロナの影響がある中でのTJAR出場に対して、ご自身のSNSで葛藤を吐露されていました。どのような思いでスタート地点に立ちましたか。

土井:職業的な部分が大きいですね。いま大阪市内の消防署で救助隊長として、自分が率先してものごとを進めていく立場なので、個人の挑戦をどこまで行っていいのか迷うところがありました。コロナに罹患した方と接することもある仕事なので、他の職業の人よりもコロナに対して敏感に受け止めているところはあると思います。

緊急事態宣言が発令され、仕事の面でも総合的な訓練が中止になったり業務が停止したりするなか、自分の趣味=人生をかけてやっていますけれどあくまで趣味なわけですから、こうしたチャレンジは受け入れてもらえるのだろうかと、参加することが果たして許されるのだろうかと悩みました。それで上司にしっかり相談して決めました。

職場のみんなが、僕の挑戦に対して理解を示してくれたのが本当に大きかったですね。「人生をかけて取り組んでいるし、ただの趣味の枠を越えている。君の行っていることはオリンピック選手と相違ないんじゃないか」と言ってもらえて。「数年にわたり目指してきたその挑戦は、不要不急ではないよ」とも言ってくれたのが嬉しかった。それで出場しようと強く思いました。理解ある職場に恵まれていることに感謝しています。

ガスは使わない食料計画
とにかく効率化を重視

ーーーコロナの影響でトレーニングもままならなかったと思いますが、工夫したことはありますか?

土井:新型コロナウイルスが感染拡大してから、まず大阪から出ていないんです。大阪に緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が発出されている最中は「不要不急の外出はしないように」「県を跨いだ行動はしないように」と市民の皆さんにお願いしているわけですから、当然、消防士として公務員として守らないといけないというのは職場でも強くいわれています。

なので、この一年はほぼ大阪の生駒山とダイヤモンドトレール(奈良と大阪の県境にある45kmの自然歩道)と、ロードを走ってトレーニングしていました。工夫したことといえば、訓練の中で重い荷物を背負ったり、トレーニングしたりしたことでしょうか。あとは人のいない時間を選んでトレーニングをしたり、低山を繋いで、できるだけ長く行動できるようにしたりしました。

ーーースタートラインに立った瞬間はどんなお気持ちでしたか。

土井:「やっとここまで辿り着いた」というような特別感はそんなになくて、「自分のチャレンジがはじまるな」という感じでしたね。

ーーー目標はありましたか。

土井:明確には立てていなかったんです。もちろん、望月将悟さんの5日切り(2016年望月将悟がコースレコード4日23時間52分を樹立)は頭の隅にありましたけれど、「5日を切ってやるぞ」という気持ちよりも、「自分がどんなパフォーマンスができるのかを知りたい」という想いの方が勝っていました。今回はルール変更もありましたので、「いまの自分の最大限の力を出すにはどうしたらいいか」がいちばんの目標でした。自分のパフォーマンスを最大限発揮するために、装備をどれだけ軽くできるかを考えました。

※本年度はルールの一部が変更となり「山小屋での食事・食料等の購入は不可で、水のみ購入可。山小屋以外での商店、コンビ二等での食料その他の購入は制限なし」となっていた。

スタート直前、魚津市のミラージュランドにて  写真:西岡修平 / milestone 

ーーー土井さんのザックの中身を拝見し、とてもシンプルだと感じました。とくに驚いたのは食料計画です。かなりストイックではないですか。

土井:ガスを使って調理しない想定で計画しています。ガスを使うのは時間も労力も無駄ですよね。その行為をなくすのが第一段階と考えていたので、これは自分のなかではとても合理的な答えなんです。もちろん必携品としてガスも持っていましたけれど、それは緊急事態があって、ビバークしなければならないときに暖を取るものとして捉えていました。

ーーー柿の種とカロリーメイトが目立ちますが。

土井:そうですね、柿の種とカロリーメイトとあとはサプリメント。ジェルはカロリーの比率を考えると重いんですよ。でも長いレースなのでタンパク質を摂らなければならない。そこで、カツオペプチドが含有された『カツサプ』とタンパク質を配合した粉末状の『QC速効スタミナ』というサプリメントを用意しました。

プロテインとBCAA、マルトデキストリンと中鎖脂肪酸が入っていて、脂質エネルギーと糖質エネルギーとタンパク質が摂れるのでパフォーマンスを維持するのに最良です。パッケージを入れても80グラムくらいで260キロカロリー摂れるので効率もいい。これを北アルプスから中央アルプスまでに4袋、南アルプスは6袋持つ予定でした。タンパク質をちゃんと摂らないと、後々のパフォーマンスが落ちてくると思っていましたから。

ーーーなるほど、効率的です。

土井:あとはGU ENERGYの『ロクテインエナジードリンクミックス』というドリンクに溶かす粉末のエネルギーも持ちました。ミネラルとアミノ酸が含まれていて、行動しながらエネルギーが摂れるので理にかなっていると思います。フラスコのひとつにこれを入れて、もう一つのフラスコには水を入れました。水は怪我したときなどに絶対に必要ですから。ほかにGU ENERGYのワッフルにもアミノ酸が含有され、味はお菓子のようにすごく美味しいので、ご褒美的に食べようと思っていました。

装備の軽量化は追求しましたが、補給のエネルギーはギリギリだったわけではなく、必要分にプラスして1割多く持っていました。目安は1時間150キロカロリーで、それに休憩時間を除いた行動時間をかけ算して、ペースが落ちてビバークしたときのためにプラス1割、という計算です。スタートしてから次に補給できるのは上高地だったので、そこまでの補給食をまず持ち、上高地に下りたらコンビ二で購入しようと考えていました。

TJAR2020での土井さんの装備  写真:茂田羽生

ーーーコース上では市ノ瀬チェックポイントのみデポが可能です。それ以外は町での購入を想定して、細かく計算していたわけですね。

土井:そうです。どこで何をどれだけ買うか想定していました。長野県木祖村の「スーパーまると」はほとんどの選手が立ち寄る場所ですが、僕はスルーしようと考えていました。いろいろ品物があると迷ってしまうし、ここで休憩しなくても木曽福島まで行けばコンビ二がありますから。

自分のパフォーマンスを最大限に発揮しようと思ったらカットできるところかなと思っていました。そういうことは最初に決めておかないと、人間どうしても甘い方、甘い方にいってしまいます。

セブンイレブンの場合、どの店舗も置いてある商品が同じという利点があります。事前にカロリーを計算して商品を決めておけば迷わないし、最短時間で購入できる。そういうことに頭を使うのがもったいないと考えていました。アルプス総図にコンビ二や自動販売機の場所と買う物をすべてメモして、精神的にしんどくなるロードでの区切りにしようと思いました。

ただ一つネックだったのは、南アルプスを下りてから。夜に下りた場合、購入できる商店がしばらくないので、市ノ瀬のデポには南アルプスを抜ける分と、下りてからの補給食を多めに用意していました。

ーーー睡眠計画はどうでしょう。

土井:応援してくださった方たちは僕が寝ていないと思ったようなのですが、実は双六小屋の手前で2時間ほど仮眠しています。当初の目標としては、睡眠は1日3時間取りたいと思っていました。ただ、途中で目が覚めてしまったらそのまま行こうとも考えていたんです。あとは、その時の疲労度や天候と相談しながらかなと。

どんどん天候が悪くなることがわかっていて、当初のイメージでは中央アルプスで悪天候とバッティングするだろうと思えました。ただ、予想以上に自分のスピードが速かったこともあって、本来なら中央アルプスの麓で寝る予定だったところを変更して、寝ずに中央アルプスを越えてしまおうと考えました。火曜朝がもっとも天候が悪化すると予測されたので、その前の明け方に中央アルプスを下山してしまおうという計算です。それで、上高地から木曽福島までのロードも頑張ろうと走っていたところ、中止を告げられたわけです。

写真:西岡修平 / milestone 

2度目の方が修正できる
だから次の出走権がほしかった

ーーー振り返ってみて、今回のTJARは土井さんにとってどんな大会でしたか。

土井:ちょっと出場したかわからないくらいというか、夢だったんじゃないかなと思うくらいの感覚です。こんなこといったら失礼なのかもしれないんですけれど、しんどい場面がなく終わってしまったので。自分と対峙する時間とか、壁を乗り越えるところがTJARの魅力だと思うんですけれど、そういう魅力を感じぬまま終わってしまった。だから全然走った感覚はないですね。

ーーーもう一回出場したいという思いはありますか?

土井:必ず出場できるレースなら「出たいです」とはっきり言えるんですけれど、TJARは出場するのがすごく大変なので。絶対に出られるなら「出たいです」と言いたいですね。今回は自分のなかでは「次の出走権をとりにいく」というのが目的だったんです。

ーーー優勝者だけ次回の選考会をパスできるルールですよね。

土井:そうですね。これも語弊があるかもしれないんですけれど、優勝したいとか1位になりたいとかじゃなくて、ただ純粋に「来年の出走権をもらいたい」という気持ちでした。その理由は、やはり一回目よりも二回目の方がいろいろ修正できるはずだと思っていたからです。

今回はコロナの影響で充分な準備ができなかったというのも、ひとつの理由です。これが一年間かけてしっかり準備できるのだったら、よりよいパフォーマンスが発揮できるんじゃないかという想いがありました。これが二年先となると、それはそれでしんどいんですけれど、2022年も開催されることがわかっていましたので。

よく「負けず嫌いだね」と言われるんですが、自分がどこまでのパフォーマンスができるのか証明したいというか、そこが一番ウエイトが高いところなんです。

31歳トレイルランと出合う
「まだ自分にも成長できることがあるんだ」

ーーートレイルランを始める前は登山をメインにしていらしたと伺いました。いつ頃から山に登るようになったのですか?

土井:小学2〜3年の頃から両親と兄と北アルプスに行っていました。とはいっても、西穂高とか常念岳とかメジャーなところばかりですけれど。当時はしんどいだけで全然楽しくなかったので、カップラーメンを食べるつもりで行っていた感じです。だから、自分から「また行きたい」と言った記憶はないですね。

写真:茂田羽生

ーーーいつ頃から変化が?

土井:小学6年生からバスケットを始めて、中高大学、社会人までずっとバスケを続けていたんです。それで消防局に入ってから23歳くらいのとき、職場の先輩と登ったのが久しぶりの登山でした。それからちょこちょこと一人で登るようになって、また少し行かない期間があって、30歳くらいから再開しました。

ーーートレイルランを始めたきっかけは?

土井:30歳のときにロードランを始めたのですが、ロードレースは冬しかないので夏はどうしようかと考えていたとき、先輩から「トレイルランレースがあるよ」と教えてもらったんです。それで初めて出場した『世界ジオパークトレイルラン(神鍋高原)』でたまたま優勝してしまって、トレイルランは面白いなと。

当時31歳だったのですが「もう自分には成長できることなんてないだろう」と漠然と思っていたところに、人生で初めて表彰台に立つという経験をして、「自分でもまだ成長できることがあるんだ」と嬉しくなりました。レースをいろいろ調べるうちに100マイルレースのことを知り、2014年のUTMFに出場しました。トレイルランを始めて9ヶ月目のことです。

ーーーわずか9ヶ月で100マイル走れてしまったわけですか。

土井:100マイルの世界がどんなものかよく知らなかったので、登山のウエアで出場していたくらいなんです。でもレース中、終始楽しくて。最後尾くらいからスタートしたんですが、大瀬和文君とか望月将悟さんとか山本健一さんとか、蒼々たるメンバーを抜いてしまって、総合15位、日本人3位でした。それで「もしかしたら自分は意外に走れるのかもしれない」と感じました。

世の中に還元できることは
何なのだろうと

ーーー土井さんにとってトレイルランはどういう位置づけなのでしょう。

土井:いまはもうライフワークになっていますね。山に走りに行かないと気持ち悪いというか、生活の一部になっているといっても過言ではないと思います。僕はトレイルランのカルチャーが好きなんです。とくにロングレースはライバル同士でもバチバチしていないというか、みんな仲良しですよね。選手も大会主催者もメーカーさんも、みんないい人が多いなと思っています。

ーーーアスリートとして、次に目指すものはありますか。

土井:コロナはまだ終息する見通しが立っていませんけれど、ワクチンが普及すればある程度は抑えられてくるのではないかと思っています。それと並行して、ヨーロッパのように感染防止対策をしながら、国内でもスポーツ大会が開催されていくんじゃないかと予想しています。ですから、僕自身も何か目標を定めてトレーニングしていければと思います。近いところでいえば、2022年のUTMFですね。二年連続でエントリーしていましたけれど、中止になってしまったので、三度目の正直で開催されたらいいなと願っています。

ほかにもし年内に100キロか100マイルレースが開催されるなら、何か出たいなという気持ちはありますけれど、開催自体がなかなか難しいかもしれないですね。

ーーー少し先の未来はどうでしょう。アスリートとして何かトライしてみたいことはありますか?

土井:いまも少しずつ取り組んでいるんですが、トレイルランのカルチャーを広めていきたいという気持ちがありますね。アスリートとして引っ張っていくのもひとつですけれど、普及活動というか。僕は自分自身のできることで人に還元できることって、そんなに多くないと思っているんですよ。

ーーーそんなことはないと思いますよ。

土井:いえ、僕にできることは限られているんです。でも経験したことを後輩たちに伝えたり、トレイルランの楽しさを多くの人に知ってもらったりといったことならできるんじゃないかと思って。イベントの開催やSNSでの発信も含めてです。

写真:西岡修平 / milestone 

ようやく機が熟した
大峯奥駆道FKTチャレンジ

ーーーTJARから話が逸れるのですが、少し前に大峯奥駈道(金峯山寺〜熊野本宮大社)のFKTチャレンジをされていましたね。総距離約100km、累積標高差約8000m、関西屈指の難易度で知られる修験道を19時間43分で走破されました。20時間切りを目指して達成されたわけですが、このタイムはかなりすごいものではないですか。

土井:よく大峯のことをご存じですね。関西の人ならイメージがつくと思うんですけれど、関東の人にはなかなかイメージ湧かないと思っていました。

ーーー以前、山岳ガイドでマウンテンランナーの新名健太郎さんから、一撃チャレンジのお話を聞いたことがあります(山物語を紡ぐ人びとvol.21)。新名さんも、大峯は別格の厳しさだと語っておられ、最初は一気走破するのは無理だと引き返したとおっしゃっていました。体のつくり込み、装備の軽量化がシビアだと。

土井:実は自分も何回かチャレンジしていて、途中で諦めたこともあるんです。雨が降り続いているなか走って体が冷えてしまい、にっちもさっちもいかなくなって。今回、ようやく機が熟したと感じてFKTに挑みました。補給エネルギーをきっちり計算した上で、できるだけ荷物を軽量化しています。

ーーーお仲間と走られたと聞いていますが。

土井:ひとりで挑戦するか迷ったのですが、できれば仲間と挑戦を共有したかったので、岐阜のアスリート・福井哲也さんに後半の南奥駆から走ってもらえないかと声をかけました。とても信頼しているアスリートです。

ほかに、ヘッドライトのアンバサダーをさせてもらっているマイルストーンの西岡修平さんがサポートを買ってでてくれたので、南奥駆の2箇所をお願いしました。ところが僕らが合流ポイントに早く到着してしまったため、一箇所目では会えず、ラスト15kmくらいの玉置神社だけサポートしてもらうことができました。

予備の補給食を持っていたのでエネルギーはなんとか足りました。当日の天気は良くも悪くもなく、途中でちょっと雨に降られたくらい。UTMFなどを想定して体もつくれていた時期だったので、いいタイミングだったのかなと思います。20時間を切ると決めていたので、最後はかなりプッシュしてボロボロになりながらゴールに辿り着きました。膝も足首も痛いし、100マイルレースで出し切ったような感じでしたね。

大峯奥駆道の最速記録はこれまで新名健太郎さんや新藤衛さんがチャレンジされていますけれど、記録が明確じゃなかったんです。それで、若いアスリートが「土井を抜くんや」と目指してくれたら嬉しいなと思って、挑戦しました。

ーーー大峯FKTを経験して、何か感じるものはありましたか。

土井:自分がやりたかったことは、関西屈指の厳しい修験道を走って、どれだけ後世に残る記録を出せるかということ。コース自体は何度も走っていて知っていたんですけれど、相変わらず登山者にもランナーにも優しくないコースだなと思いました。

ーーーどういった点がとくにきついのでしょうか。

土井:いろいろな要素がありますけれど、まず一つは補給場所がないこと。ほんまにないんですよ。北奥駆に弥山小屋(みせんごや)という小屋がある以外は小屋がない。避難小屋はあるんですけれどね。南奥駆になるとより厳しくなって、水場が枯れていることもあるし、水場に行くまでに往復で40〜50分かかったりするし。

あとはエスケープルートが極端に少ない。エスケープがなかなかできないので、この先行くかいかないかの判断を要所要所でしなければいけないんです。路面も土だったり根っこが多かったり、崖だったり。修験道なので、歩きやすい場所を選んだのではなく、無理矢理一本の道を通したようなルートで鎖場もたくさんあります。アップダウンも多くて、気持ちよく走れるところはほぼない。登りと下りの連続ばかりです。

ーーーこれまではお一人でそこを走られていたわけですか。

土井:はい、いままではひとりです。今回は福井さんに伴走をお願いしたわけですが、結論しては、一緒に走って本当によかったと思っています。西岡さんのサポートも補給の面以上にメンタル的な要素が大きかった。「ここまで行けば待っていてくれる」という安心感というか。まぁ、ひとつめはいなかったわけですけれど(笑)。

ーーーサポートがいないことを知ったとき、ショックはありましたか。

土井:走っている途中で予定より早いと気づいたので、うすうす「これは居ないかもしれないな」とは覚悟していました。なので、「あっ、いないな。残念やな」と思ったくらいですね。当初はここで炭酸飲料とか飲めるかなとも思っていたのですが、当日が意外に寒かったので水分を摂りたいという感覚もあまりなくて。「エネルギー補給できなかったけれど、なんとか行けそうやな」というのと、「あとで話のネタになるな」と思っていました(笑)。


TJAR出場はひとりじゃなかった
みんなが背中を押してくれたんです

ーーー福井さんとはよく一緒に山に行かれるのですか。

土井:アルプスはいつも一緒に登っていますね。福井さん以外とアルプスに行ったことはないかもしれません。福井さんも長い間、TJARを目指していたのですが、TJARへの挑戦はたくさんの犠牲を強いることもあって、今回はエントリーしなかったんです。ずっと一緒に目指してきたので、TJARには福井さんの気持ちもちゃんと背負って臨みたかった。

だから今回のTJARは僕ひとりで走っていたというよりも、いろんな人の想いを胸に秘めて走っていたところがあります。お世話になったり支援してもらったり、自分のためにいろいろ動いてくれたり、そういう人たちがたくさん周りにいたので。その人たちの気持ちを力に変えて走っていたというか、背中を押してもらっているような意識で出場しました。

レースではblooper backpacks(bbp)のザックを背負っていたのですが、オーナーの植田徹さんにも「こうして欲しい」といろいろ無理をお願いしていたんです。

ーーーどんなオーダーをされたのですか?

土井:まず生地をできるだけ薄くして軽量化してほしいということ。あとはベスト型であること。上部に重心を持ってくる目的と軽量化を図るために、腰ベルトをつけないタイプにしたいと伝えました。ほかにもいろいろ細かくオーダーしたんです。たとえば、ボトルを入れるところはメッシュで水はけよくして軽くしてほしいとか。

実は今回背負ったザックは、2018年のTJARで使うためにつくったものでした。その後、もうひとつつくってもらったんですけれど、2018年に日の目をみなかったザックを日の当たる場所に連れていきたいなと思って背負いました。

ーーーあえて前のザックを選んだわけですね。

土井:そうです。市ノ瀬のデポには新しいザックを用意しておいて、2018年版のザックに何かあったら替えるつもりでいました。僕はこだわりが強いから、植田君には無理難題をたくさんお願いしてしまったけれど、彼はそれを快く引き受けてくれたんです。

写真:藤巻翔

ーーースタート地点に立つまでにたくさんの支えがあったわけですね。

土井:そうですね。だからみんなに、なんとか恩返しがしたいという気持ちがありました。自分がこんなことをいうのはおこがましいんですけれど、「この人をサポートしていてよかった」とか「この人と一緒に山でトレーニングしてきてよかった」とか、そう想ってもらいたいという気持ちがとても大きかったんです。だから自分に妥協したくなかった。

堅いんですよ、僕は。真面目すぎて堅いから、面白くないんです(笑)。