vol.14〜 小松祐嗣さん(七面山 敬慎院 執事 )/ 前編

『山物語を紡ぐ人びと』vol.14〜 小松祐嗣さん(七面山 敬慎院 執事)/ 前編

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信仰の山としての七面山

2013年から山梨県身延町で開催されているトレイルランニングのレース『修行走』。レースの舞台となる七面山 敬慎院で筆頭執事を務める小松祐嗣さんは、このレースを立案した人物だ。1ヶ月の半分以上を、日蓮宗総本山の身延山久遠寺に属する修行の山、七面山で過ごす。

大会で見る七面山の姿は、ある意味、ひとつの側面に過ぎない。身延山は古くから信仰の山として親しまれてきた場所だ。『修行走』のコースとなっている身延山から赤沢宿を通って七面山へと続く道は、かつて『身延往還』と呼ばれ、たくさんの参詣者で賑わったという。

本来の姿、信仰の山としての七面山の日常は、どんな世界なのだろう。なぜ、トレイルランニングの大会を開催するに至ったのか。

その答えを知りたくて、小松祐嗣さんに会いに敬慎院へと出かけた。

 

修行の道、祈りの時

七面山は、日蓮聖人が身延に移り住む前から『甲斐修験道(かいしゅげんどう)』と呼ばれる修行の山だった。1297年(永仁5年)に六老僧の一人である日朗上人が敬慎院を開いたと言われている。

麓の羽衣から敬慎院までの登山道を「表参道」という。七面山はもともと女人禁制の山だったが、徳川家康の側室である養珠院お萬の方様が法華経の熱心な信徒で、この山への登詣を強く願い、登拝口の近くにある白糸の滝で7日間身を清めた後に、女性として初めて山に登った。それ以降、女人禁制が解かれたという。

登拝口の山門をくぐるとすぐに、道は静かで穏やかな空気に包まれる。かつてもいまも、想像もつかない数の人々が、それぞれの想いを胸に、上へ上へと目指した道だ。

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進むごとに「一丁目」「二丁目」「三丁目」と山頂までの距離の目安が表示されていく。敬慎院は「五十丁目」にあたる。

途中には4つの坊があり、休憩をとることができる。そのうちのひとつ、二丁目にある『神力坊』は、これから始まる登詣の無事を祈念する場所。

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登り始めてから数時間、つづら折りの参道を曲がると、四十六丁目の『和光門』が見えてくる。

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しばらく行くと、四十九丁目の『随身門』に辿り着く。門をくぐり、木段を下りると敬慎院だ。標高は約1,700m。

表参道は、トレイルランナーにとってはよく踏みならされた登りやすい道と感じるだろう。しかし、登山に親しまない人にとっては、体力的に厳しい道のりであることが想像できる。

参道がこれほどまで整備されていなかった時代は、いま以上に大変な苦行だったのだろう。

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山仕事が多い僧侶の仕事

この日、小松さんは11月に開催される『修行走』のコースを再計測するため、麓の早川町から『身延往還』の道を走って登ってきたところだった。

日蓮宗の総本山久遠寺の周辺には、支院と呼ばれるいくつもの宿坊が存在する。小松さんはそのうちの一つ『武井坊』の次男として生まれた。お父さまは小松家としては3代目、武井坊のご住職としては35代目に当たる。「正直、お坊さんになりたくないと思った時期もありました。明治以降、お坊さんは世襲制が多くなっていて、簡単になれるものだと舐めていたんですね」。

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立正高校から立正大学に進み、35日間の修行を終えて、正式なお坊さんとなった。卒業後は武井坊で働き、25歳から3年間、七面山に勤務する。

「身延山は信仰の山ですけれど、子どもの頃は半分遊び場という感覚でした。僕が初めてこの山に登ったのは、小学校2年生のときです。親父に急に登ってこいと言われて、2歳上の兄と学校が終わった後、夕方から登り始めました。そうしたら途中で日が暮れてしまって。三十六丁目の『晴雲坊』で晩ご飯を食べさせてもらっていたら、七面山から木挽き(こびき)のおじさんが迎えに来てくれたんです。“おっちゃんが来たから、もう大丈夫だよ”と言ってね。そのとき、すごく格好いいなと思ったんですよね」。

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その木挽きのおじさんは、小松さんの人生に大きな影響を与えたという。

「七面山での僧侶の仕事は、山師みたいなもの。お坊さんといっても、お経を唱えるだけじゃないんです。参道の整備も全部自分たちで行いますし、木段もつくります。冬に大雪で小屋がつぶれてしまった時には、解体も行いました。25歳で初めて七面山に勤務したとき、木挽きのおじさんが一人で大木を切って輪切りにしてくれました。それを自分たちで埋めて、ガレて危なかった坂道の土をならし、現在の随身門の木段を整備したのです」。

木段は一段ごとの幅や高さが程よく、どんな年齢の人でも上り下りしやすいように丁寧につくられている。15年の歳月を経て、一部が朽ちてきたことから、いままた少しずつ入れ替えている。「もう大きな木を切り出せる人がいません。倒れた木などを使って修復しています」。

身延山の周辺はかつて林業が盛んで、静岡まで抜けるルートを使って木を切り出していた。

山を生業とする人たちに、山菜の採り方や舞茸の在処まで、さまざまなことを教えてもらったと話す小松さん。「木挽きのおっちゃんは面白い人で、本当に怖い物知らずでした。具合が悪そうなイノシシが寝ていたので食べてしまおうと叩いたら、反撃されて背中を何十針も縫ったとか、作業中に足の指を三本つぶしたのに平気でご飯を食べていたとか、武勇伝がすごいのです。昔の山師にはそういう人が多かった。山で何かあっても自分でなんとかしなければいけないから、身体のことをよく理解していたのでしょうね」。

 

強力の町だった赤沢宿

過去の記録を見ると、敬慎院には一度に1,400人が宿泊したこともあるという。最も多い時代には、年間8万人もが登詣していた。「この建物は増築に増築を重ねていますが、本堂だけは古いのです。230年くらい経っています」。

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いまも年間2万5千人が訪れる。表参道のルートは5,2kmほど、一方、より古くからある裏参道は7kmほどの距離。女性で初めて登詣したお萬の方様は、表参道を駕籠で登ったといわれている。この道を駕籠で登るということに、驚かされた。

「いまでも駕籠はあるんですよ。身延山と七面山の間に位置する赤沢集落は、かつて強力で生活をしている人が多く、敬慎院の仕事も手伝ってくれていました。いまも山頂まで人を乗せる駕籠があり、専任で仕事をしている強力さんも何人かいます。4人で担いでいますが、昔は2人で担いで、一日に二往復もしていたらしいです」。

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参篭は誰でも体験できる

七面山に登詣し、敬慎院に宿泊して祈願することを『参篭(さんろう)』という。玄関を入ると、半纏を着た座敷番さんや僧侶の方々が、山行を労い、温かく迎えてくれる。

夕食は17時から。その後、七面大明神の像を拝む「御開帳」が執り行われ、続いて参詣者たちは本堂での夕勤へ参列する。小松さんの役職である執事とは、敬慎院の別当(ご住職)が山を下りている時に代わりの仕事をする役目だという。

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肉や魚を使わない滋味溢れる食事をいただいて、他の信者さんとともに夕勤に参列した。

 

昭和の頃、強力のレースが開催されていた

敬慎院での勤務は基本3年任期。小松さんは25歳から28歳まで勤務した後、一度山を下りて身延山 思親閣に6年間勤めた。

そして平成22年(2010年)、再びここに戻ってくる。現在、勤めているのは二期目だ。
『修行走』の準備は、一期目の時に始めた。任期を終え、山を下りてから大会を開催しようと考えていたところ、二期目の勤務が決まったのだという。

そもそも、なぜトレイルランニングの大会を開催しようと思ったのか。

実は身延では、昭和10年代〜20年代頃、ほぼ同じコースでレースが開催されていたのだ。当時は、強力の脚力自慢のような大会だった。さらに昭和30年代初頭には、七面山だけを登り下りするレースも5回ほど実施されていたという。

当初、小松さんは登山を愛好していた。人よりも歩くのが速かったことから、次第に走るようになっていく。忙しい合間をぬって、年に1〜2回、大会にも参加している。そして『身延往還』のルートで何かできないかと思い至った。

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「信仰の町として身延を知ってもらいたいという想いがあります。もちろん、レースを開催する以上は、町にも経済的な効果をもたらせるよう運営しています。でも一番知ってもらいたいのは、身延という仏教の聖地なんです。身延の人たちは、小さな頃から日蓮宗のお題目を唱えながら、この地に暮らしています。全国からいらっしゃる信仰者の方々のお世話をする特別な場所であることを、ぜひ多くの方に知ってもらいたいと思ったのです」。

昨年、レース開催日に身延の町を訪れた。町や参道を歩いている途中、たくさんの地元の方に声をかけていただき、町全体に流れる温かな雰囲気を実感した。一朝一夕では生み出すことができない空気。やはりここは特別な場所なのだ。

 

この山の文化を伝えていくために

現役の強力が活躍している間に、小松さんにはぜひ実現させたいことがあるという。

「歩荷レースをやりたんですよ。本物の背負い子を背負って。背負子はいろいろな木材を使っていて、荷物の重さによって使いわけているようなんです。角背負子というのがありますけれど、プロが使う背負子は角が出ていません。たとえば大会の前の日に赤沢の人たちの昔話を聞いてもらって、翌日に皆さんに本物の背負子を背負ってもらうようなレースが出来たらなと考えています」。

昨年、小松さんご自身も背負子に25kgの荷物を積んで、わらじで山を下った。「最初は素足にわらじ、天台笠に着物のような出で立ちで歩いていたんですが、雨だったこともあり、とんでもなく足が痛くなってしまって。途中から地下足袋にわらじで歩きました」。

背負子を背負って山を登る時には、太い棒をつきながら登るのだという。途中で休憩をする際、斜面に向かって下を向き、つっかえ棒のように背中にその棒を当てて休む。一度、背負子を下ろしたら、立ち上がれなくなってしまうからだ。今年は30kgの米袋を背負って、4時間以内で登ることを目標にしている。

身延山で受け継がれてきた、山の文化。歩荷レースも、ぜひこの目で見てみたいと思った。

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21時、そろそろ敬慎院が眠りにつく時間だ。明日はご来光を仰ぐ。

後編へ続く)

 

Place:SHICHIMENZAN KEISHININ, YAMANASHI
Photo:Shimpei KOSEKI
Text:Yumiko CHIBA

2015年『身延山 七面山 修行走』レポートはこちら