vol.16〜 芥田晃志さん(株式会社アクタ代表取締役社長 )

『山物語を紡ぐ人びと』vol.16〜 芥田晃志さん(株式会社アクタ代表取締役社長)

 

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「紡ぐ」を生業にしてきた芥田家

「僕に山の話が上手くできるだろうか……」。

インタビューに臨むにあたって、そう想いを巡らせたという芥田晃志さん。そしてふと、連載タイトルを見て気づいたという。「そうだ、我が家はずっと“糸を紡いで”きた。きっと大丈夫だな—-」。

大会に出場経験のあるトレイルランナーの多くが、その姿を見たことがあるだろう。全国各地で熱心にテーピングサポートを続けている芥田さんは、粘着性伸縮包帯のパイオニアである株式会社アクタの社長だ。

レース会場では一人ひとりの不安を聞きながら、的確なアドバイスとともにテーピングを施していく。圧倒的な情熱と進化し続ける技術で、トップアスリートのみならず、市民トレイルランナーからも支持されている。

アクタは2014年に創業100年を迎え、老舗企業の仲間入りを果たした。

歴史を受け継ぎ、経営者として次の時代を担う芥田さんに、ぜひご自身について語っていただきたいと考えた。「紡ぐ」を生業にしてきた芥田家について、山岳スポーツのサポートについて、そして山の思い出について……。

現場で貼る、それが僕の原点

『ニューハレ』のテープは、誰でも簡単に貼ることができる。関節にフィットするようV字やX字にカットされた形状、皮膚の弱い人でもかぶれにくい糊、カラーセラピーを取り入れた色彩など、使う人の立場に立った工夫が随所に盛り込まれている。実は私自身も、かなり前からの愛用者だ。

近年はトレイルランニングやロードマラソンだけでなく、バイク、自転車競技、クライミング、ゴルフの世界でも活用する人が増えている。

いつも忙しく国内外を飛び回る芥田さんは、この秋もハードなスケジュールをこなしてきた。

9月は、『トランスアルプスジャパンレース』で三連覇中の望月将悟さんに帯同し、イタリアの330kmのウルトラトレイルレース『Tor des Geants (トルデジアン)』へ。選手を先回りしながらエイドを巡り、ほとんど寝ずに、わずかな仮眠をとりながら三日三晩サポートを行った。

帰国後は、空港から直行して長野の斑尾高原へ。110kmのトレイルランレース『信越五岳トレイルランレース』のスタート会場でブース展開を行い、大会中は夜中までエイドでトレーナー活動をこなした。表彰式の後はそのまま河口湖に向かい、日本を代表する100マイルレース『UTMF(ウルトラトレイルマウントフジ)』のエキスポ会場へ。レース中はエイドを回り、オフィシャルトレーナーとして、A8エイドにあたる山中湖きららにて、トップアスリートから市民ランナーまでを長時間に渡りサポートし続けた。

「こんな過密スケジュールは、今年で止めようかなと思っているんですよ」と冗談まじりに笑う。「選手はトレイルでエンデュランスレースを行っているけれど、僕はサポートでエンデュランスをしているんだよね」。

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体力的にも精神的にもきつい仕事だが、ランナーの完走や走る喜びを分かち合えるのが嬉しい。だからこそ、達成感があるという。

サポートする大会を減らすこともできるが、そうはしたくない。「僕はこれまで、いろいろな場所に出かけて行ってはテープを貼りまくってきました。そこでさまざまな出会いがあり、ランナーの仲間も増え、情報収集を行いながらテーピングの技術も磨いてきた。それで、いまがある。これが僕にとっての原点だから」。

兄弟のような存在のニューハレテープ

株式会社アクタの前身は、静岡県・天竜川の河口にある竜洋町で生まれた。現在の所在地である磐田市を含め、静岡県西部にあたる遠州地方では古くから機織り産業が盛んだったという。

「この辺りの地域では、織り屋と呼びます。実は弊社が旧磐田市(※1)の最後の“オリヤ”なんです」。昔は近隣に何軒も織り屋の工場があったが、時代とともにみな閉めてしまった。

芥田さんは四代目に当たる。曾お祖父さまである創業者の亀太郎さんは商売熱心な人で、電気がない時代に昼は明るいところで機織りをし、夜になると提灯を持って田植えをしていた。バス会社も保有していたという。

お祖父さまの實(みのる)さんの時代になって、芥田織布株式会社が設立された。その後、戦争に突入して實さんはシベリアに抑留されるが、帰国後に磐田市で織り屋を再開。当初はワイシャツの生地を織っていた。

「僕の父・修治は祖父が満州に居るとき、昭和20年に生まれました。日本へ引き揚げてくる際、祖母は兵児帯ひとつで息子を背負い、必死に戻ってきたらしい。だから実にしっかり者でした。祖父がシベリアから戻るまでは、父も子どもながらに苦労したので、ハングリー精神が旺盛な人でしたね。それが商売にも活かされていたと思います」。

いまから60年ほど前、大手繊維メーカーの日東紡から伸縮性の糸を使った包帯の製造を提案される。「ポリウレタンの弾性繊維 “LYCRA(ライクラ ※2)” を使った伸縮包帯は、おそらくうちが日本で最初に織りました。そして、この伸縮包帯に粘着剤をつけたら病院でもっと便利になるのではと、47年ほど前に現在のニューハレのアイデアを出したのが父なんです」。

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通常、消耗品であるテーピングテープに高機能なライクラを用いることはないが、アクタでは開発当時から使い続けている。「皮膚に直接触れるものだから、フィット感が大事。だからライクラを使い続ける」と、先代がよく話していたという。中心部にライクラを用いて、綿糸でカバーリングすることで、高い伸縮機能とコットンの風合いを生み出している。

技術面で後押しをしたのは、大手粘着剤メーカーが開発したアクリル系の透明糊だ。ゴムアレルギーを誘発するラテックスを使っていないため、かぶれにくい。その糊を伸縮性包帯につけ、1974年に原型が完成。日東紡との共同開発は、実に7年に及んだ。

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「ちょうど僕が生まれたばかりで、僕のお腹を使ってテストを重ねたのです。最初のテストではお腹が真四角にかぶれてしまって、それを見た皮膚科の先生が『ひどい親だ』と言ったらしい(笑)。糊の配合を変えた次のテストではかぶれなかったので、発売に踏み切りました。だから僕にとってニューハレは、兄弟みたいな存在なんですよ」。

1975年(昭和50年)、ついに糊のついた伸縮性包帯『ニューハレ』を発売する。同時に社名も「株式会社アクタ」へと変更した。

父から学んだ経営哲学

3年前にこの世を去った修治さんは、芥田さんにとって大きな存在だ。生涯にわたり、自身の経営哲学や美学を貫いていたという。「父は勉強もできて、商才もあった。僕も父に負けないようにと磐田市で一番難しい高校を単願受験したのですが、落ちたんですね。勉強が苦手だったから(笑)。結局、高校へは進学せずに、家業に入ることにしました」。

進学を断念することを中学の先生たちは心配したが、修治さんは「学校には迷惑はかけない。私がきちんと面倒を見ますから」と説得してくれたという。「大学まで進学した場合の教育費を計算して、親孝行な子どもだなんて笑う親父でした」。

卒業後、まずは工場で仕事を覚えた。15歳から大人に囲まれ、社会での礼儀を学ぶ日々。一方でお父さまは、早くから芥田さんに経営者としての帝王学を教えた。

そのひとつがゴルフだ。家の庭に3ホール分のカップを埋めて練習ができるようにした。初めてコースに出たとき、お父さまはこう言ったという。「これからお前がやるゴルフは仕事のためのゴルフ。だからスコアのことは考えるな。ボールが見えないところまで飛んで行ったら、みなさんを待たせないように走って行く。人が打った時には『ナイスパー』とか必ず声をかけろ。ゴルフとはそういうものだ」。

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社会でのマナーやルールを、さまざまな場面を通して教えようとしていた修治さん。大酒飲みでヘビースモーカー、剛胆なキャラクターだったが、一本筋が通っていた。「破天荒だけれど、いま思えば純粋な人でしたね。僕は煙草もお酒もやらないし、もちろんギャンブルもやらない。父を見ていたから、真逆になったんです(笑)」。

芥田さんが20歳になった時、修治さんは取引先への対応をすべて任せた。大手衛生メーカーの社長ばかりが集まるパーティにも一人で出席し、挨拶回り。そんな跡継ぎはほかの企業にはおらず、大人たちから感心されたという。

後になって、芥田さんはその時のお父さまの気持ちを理解した。「あえて自分を突き放してくれたんですね。父も若い時から一人で営業して、販路を開拓してきた。だからお前も自分の友だちをつくっていけ、そういう意味だったんです」。

磐田の地で織ることの誇り

アクタの強みは、糸の買いつけから製品づくり、箱詰めに至るまで一貫して行っているところにある。『ニューハレテープ』の製造プロセスはざっとこんな感じだ。

1.国内糸商社より綿糸を買いつけ、ライクラとともに100%下請けの工場で織る。糸を切れにくくするために糸自体に糊がついているので、その糊を取って、アパレル製品専門の工場でテープの各色に染色。

2)染める際に104 ℃の高温になり、ライクラが縮む。その伸縮を止める技術が重要で、製品の伸縮率に影響する。規定の長さにして、布のロールが完成。

3)布のロールを大手粘着材メーカーに出荷し、アクリル系の透明粘着材と剥離紙をつける。

4)ロールが再びアクタの社内に戻ってくる。先代が開発したロール巻き取り機とスリット入れ機械を使って、製品サイズにカットする。

5)最後に検品を行い、シュリンク包装(フィルム包装)をして箱詰めし、出荷。
途中段階では専門の工場へと出ていくが、最終的にアクタ本社に戻ってくる仕組み。こうした製造プロセスによって、品質管理が行いやすくなっているという。

「綿糸はパキスタンなど海外から輸入していますが、それ以外はすべて ”Made in Japan” 。磐田でつくれなくなったら、もう家業はたたもうと決めています」。それほどまでに、繊維産業で栄えてきたこの地で織り屋を続けていることを誇りに思っている。

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医療からトレイルランの世界へ

なぜ、スポーツ分野に入っていこうと考えたのか。

きっかけは2003年に開催された『わかふじ国体』でのリサーチだった。大会を通して、多くの人が腰や膝、外反母趾の痛みに悩んでいることを知る。「ロールのテープでは、難しくて自分では貼れない。それなら、貼りやすいようにカットした製品をつくればいいと思い、“ひざ軽やかテープ” や “ガイハン健やかテープ” というプレカット商品をつくりました」。

これが後に発売する『Vテープ』や『Xテープ』の原型になる。

もともとアクタの製品は、約8割が医療ルートの取り扱いだった。「2000年頃、病院ですら倒産する時代になり、病院としては薬の値段が下げられない分、こうしたテープなど医療雑品のコストをどんどん下げていったのです。うちは品質の良さで売ってきたのに、値段で判断されるようになってしまった。どうしたら品質を理解して買ってもらえるだろうと考えて、スポーツルートを開拓しました」。

その頃、最愛のお母さまを癌で亡くす。そのことが、芥田さんを大きく揺り動かしたという。「急なことでした。こんなに近くにいながら、母の健康状態に気づいてあげることができなかった。それが、とてもショックで」。

芥田さん、29歳。

自分なりにリサーチしてみた結果、起業したり大きな仕事を成し遂げたりした人は、30歳から33歳の間にひとつの決断をしていることが多いと感じていた。お父さまが『ニューハレテープ』を世に送り出したのが30歳、大手衛生メーカーの創業者が会社勤めを辞めて起業したのが29歳。「男がこれと決めて勝負に出て仕事に打ち込める旬の時期は、30歳代しかない。ここでふんばらなければ。悲しんでばかりはいられないと思いました」。

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スポーツシーンを明確に想定した製品『Vテープ』と『Xテープ』を投入したのは、2004年のことだ。芥田さんのすごさは、その行動力にある。製品の企画開発からパッケージのディレクション、マーケティング、販売まですべて一人でこなしてしまう。

「ランニング雑誌などを見ているうちに、テーピングを普及させるならチームスポーツではなくて個人スポーツだなと感じていました。それで、最初はロードランニングに力を入れたのです」。

ブログやツイッターなどを駆使し、ユーモアを交えながら、製品情報を発信していった。現在も変わらず、SNSを活用している。

「ランニング市場に入っていった頃、家に帰っても一人きり。どうせ家に帰っても一人なのだからと、会社に夜中までこもっていました。いま頑張らなければ、一生、頑張ることはできないだろうと思って、どんどん仕事にのめり込んでいきましたね」。

すると、次第に出会いが重なり、いつしかトレイルランの世界に足を踏み入れることに。パワースポーツ(OSJ)が主催する『おんたけウルトラトレイル100k』や『志賀野反トレイルレース』に関わっていく。

相馬剛選手との出会い

振り返ると、2008年は芥田さんにとって、とても印象深い一年だった。

プロトレイルランナーの石川弘樹さんと知り合ったのもこの年だ。石川さんとはその後、ニューハレ初のコラボレーション商品をつくったり、プロデュース大会を協賛したり、レースサポートを行ったりと、長いつき合いが続いている。

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そして、相馬剛さんと出会ったのもこの年。6月に開催された『志賀野反トレイルレース』でのことだった。

「冷たい雨が降る悪天候の中でゴールした相馬選手は、自らの不甲斐ない順位に、こんなはずじゃなかったと号泣していたんです。それがとても心に残って」。この時、まだ芥田さんは相馬さんが2007年のハセツネ優勝者だということを知らなかった。

数週間後に開催された『OSJおんたけウルトラトレイル100k』の大会前日、受付会場で再び相馬さんと出会うが、「彼はとてもシャイな人。だから僕もまだ声をかけるタイミングじゃないなと感じて、その時はそのままでした」。

その一週間後の『富士登山競走』で再会した芥田さんは、ついに声をかけた。ランニング雑誌に寄せていた相馬さんのコラムで、2007年のハセツネ優勝後、練習のしすぎで足裏の足底筋膜を傷めていることを知ったからだ。志賀野反での相馬さんの涙の理由は、そこにあった。

「ニューハレテープは売り出したばかりなので、とにかくいろんな人に貼っていますが、今日は一個人として相馬さんの足にテープを貼らせてもらえませんか、そう伝えたんです」。それを聞いて、相馬さんは「いいよ」と喜んでくれたという。

大会終了後、相馬さんから丁寧なメッセージが届いた。「貴社のテープは汗でもはがれず、泥まみれの中でもはがれなかった。痛みも緩和されてよかったので、ぜひこれからも使わせていただきたい」。

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芥田さんは語る。「彼はこういう温かい手紙をくれるんだよね。そこから、やりとりが始まったんです」。メーカーとしてのサポートというよりも、芥田さん自身が相馬さんの復活を心から願っていた。「一途な奴だなと、すごく応援したかった」。

その想いが通じたのか、翌年9月に開催された『第一回 信越五岳トレイルランニングレース』で、相馬さんは見事に優勝を果たす。すると年末、相馬さんはまたこんなメッセージを送ってくれた。「芥田さんはすごくエネルギーを持っている人に見える。そんな芥田さんにサポートしてもらえたことが嬉しかった」と。

それから2年経った2011年秋、相馬さんはついにハセツネの覇者に返り咲いた。実に4年のスランプを乗り越えての勝利だ。

「優勝するとさぁ、メーカーとかいろんな人が声をかけてくるけれど、それは優勝したときだけなんだよね」と相馬さんは言った。この言葉の真意を、芥田さんは読み取っていた。「彼はブラックジョークを言ったりしてシニカルなところがあるんだけれど、この言葉の裏には『スランプに陥って負けている時に僕を支えてくれてありがとう』という意味があった。それが僕にはちゃんとわかったのです」。

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永遠のライバルであり、互いに尊敬し合うランナー・奥宮俊祐さんとの一騎打ちは、後にハセツネの伝説となった。

「僕は夜通し応援していたので、疲れて寝てしまい、相馬さんが優勝者として表彰台に上がる場面に間に合わなくてね。そうしたら彼は『この人さぁ、肝心なところでいつもいないんだよね』と大きな声で笑いながら、皮肉っぽく言ったんです。その表情と言い回しには、お前に表彰式を観てもらいたかったのにという気持ちが溢れていた。一番大切な場面に立ち会えなかったこと。それは、いまでも本当に悔やまれるんです」。

この勝利の後、ニューハレを含むスポンサー企業3社に、相馬さんからレースレポートが寄せられた。この時のメッセージは、相馬さんが自らの人生哲学を語ったような言葉だった。(相馬剛さんのメッセージ

相馬剛さんは2014年夏、マッターホルンを登山中に消息を絶った。その姿はいまだに発見されていない。芥田さんは相馬さんを “サムライ” と呼ぶ。サムライのように自らに厳しく、レースでは気軽に声をかけられないほどストイックなオーラを放っていた相馬さん。しかし日常ではユーモアに溢れ、茶目っ気のある人柄だった。そんな相馬さんと芥田さんとの関係は、おそらくビジネスパートナーに留まらない。もっと深い部分での結びつきがあったように思えてならない。

オンリーワンになること

いまは亡きお父さまは、8年前に芥田さんがスポーツルートに販路を見いだしたことを、すごく心配していたという。「だからこそ、小さなカテゴリーでナンバーワンになって、いずれは大きな世界でオンリーワンになろうと決意したんです」。

過酷な状況で使用するトレイルランの世界でナンバーワンになれば、きっと他のスポーツでも、よさをわかってもらえるはずだと芥田さんは確信していた。ロードランニングのトップアスリートはほとんどが実業団に所属しているが、トレイルランナーは一匹オオカミばかり。実質的なサポート活動も行いやすかった。

海外レースに会社の経費ではなく自費でサポートに出向き、先行投資をするほど、トレイルランという競技に熱心に取り組んできた芥田さん。それでもスポーツの世界は厳しく、時に情熱を傾けた選手との思いがけない別れもある。

「スポーツの世界にはいろいろな要素が含まれていますからね。でも、僕は良いことも悪いことも、何か起きたときには必ず意味があるはずだと思っているんです。タイミングとか潮目とか、人との縁とか。親父からもよく『時代に逆らうな。時代を読んで、乗っかっていけ』といわれてきました。分岐点というのかな。そういうものって、向こうからやってくる場合がある。そのときによく考え、知恵と工夫でどうするかが大事なんじゃないかな」。

商売でオセロゲームはしたくない、そう芥田さんは話す。「たとえば競合相手の売場を取ろうとか、ニューハレカラーで相手の色を裏返していくようなやり方ね。そういうやり方ではなく、ニューハレのファンになってもらい、製品を好きになって買ってもらい、お客さまにとってのオンリーワンになりたいんですよ」。

トレイルランはラリーに似ている

芥田さんは子どもの頃から『パリ・ダカール・ラリー』や『ル・マン24時間レース』といったカーレースが大好きだった。小中学生の時にはテレビ録画をすり切れるほど見たり、ドキュメント本を読んだりしていた。

「トレイルランは、ラリーに似ていますよね。トレイルランのエイドは、ラリーのレグ(レースを構成する単位)だなと、よく思います。車がピットインして、故障を修理してガソリンを補給して送り出すところが似ている。子どもの頃からラリードライバーに憧れていたけれど、自分にはなれない。でもサポートという仕事を通してなら、ラリーの世界に近いトレイルランで、ピットクルーのようにチームに関われるなと思ったんですね」。

近年、山本健一選手や望月将悟選手とともに海外レースに赴いてきた。エイドでは選手から様子を聞きながらアイシングをしたり、食事の用意をしたり。「もうトップチームのメカニックのような気持ちですよ」。

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サポート活動は選手のメンタルにも影響するため、コミュニケーションは重要だ。「選手と僕との波長がピタッと合っている時には、レース前に貼るテーピングの色選びも選手のリクエストと僕のチョイスがピッタリ合うんです」。

スタートする選手の不安をゼロにするのが、自分の役割だという。「生きがいですね。製品を売ること以外に、僕にとって生きがいを与えてくれるもの。それがトレイルラン」。

国内外を飛び回る日々。時に疲れてしまうこともあるのではないかと、こちらが心配になる。「しんどいと思った時には、自分にしか出来ない仕事があるんだと言い聞かせます。これまで、自分が外へ出て行くことで、大切な出会いやご縁が生まれてきた。だから飛び回ること、それこそが僕のスタンスじゃないかと思うんですよ」。

ここまで頑張れるのも、やはり先代たちが築いてきた歴史があるからだという。

「僕は父の死に目にも、母の死に目にも、出張先にいて会えなかった。母との最後の会話は息を引き取る前夜の『わたしのことはいいから、お仕事、お仕事』だった。子どもの頃は家の中で、まず父の仕事が優先で、お正月休み以外に遠出は一切しないような、そういう家でした」。

アウトドアの世界は、ものすごく心地いい

子ども時代を振り返ると、家族での遠出はスキー旅行だったという。修治さんの仕事が忙しく、なかなか家族旅行はできない。しかし冬になると、毎年決まって冬休みを目一杯に使って長野県の戸隠に出かけた。「いまも昔も戸隠が大好きでね。土地のエネルギーを感じるというか。子どもの頃は夜、雪の上で、ヘッドフォンで音楽を聴きながら星を眺めていました」。

『信越五岳トレイルランレース』を通して、ここ数年、再び戸隠に通うようになり、不思議な繋がり感じているという。「信越五岳のレースでは、ギリギリでゴールできるか出来ないかという人たちをサポートしていきます。これこそ、僕にしかできないことだなと思って」。

お父さまが生きていたら、きっと自分のやり方に呆れているだろうと芥田さんは笑う。スポーツルートを開拓した頃、生産工場であり、町工場でもある社内には50〜60歳代の職人さんが多く、セールスや開発、パッケージの考案などについて相談できる人がいなかった。そのため、孤独を味わうことも多かったという。

しかし、いまは右腕となってくれる幼なじみも入社し、芥田さんを支えてくれている。お子さんも誕生し、家族の応援もある。そして何より、アウトドアの世界がとても好きだと芥田さんは話す。

「アウトドアの世界って、他の業界と違うでしょう。山に入る者同士、ブランドを超えて協力し合う。そういう空気が、すごくいいよね」。

芥田さんはテーピングを通して、山を愛する人たちの心と身体を支えてきた。人の心と身体は思いに反して、時にちぐはぐな動きをしてしまう。心が身体に、身体が心に引きずられて、望まない方向に向かってしまうこともある。そんな時でも、芥田さんは軽妙なトークとともに選手の心を解きほぐし、前へ向かう気持を後押ししてきた。

芥田さんが紡いできたものは、決して自分だけの物語ではない。それは誰かにとっての山物語であり、その人の人生にとってかけがいのない時間なのだ。
注釈
1)2005年4月1日、旧磐田市と磐田郡竜洋町、福田町、豊田町、豊岡村が新設合併し、現在の磐田市となった。
2)ライクラはクモの糸のように細く透明で、引っ張ると元の長さの4〜7倍にまで伸び、力を緩めれば、じんわりと元に戻る優れた伸縮性を持つ世界で最も知られたポリウレタン繊維。他の繊維と混用され、布地にストレッチ性と回復性を加える。
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Photo:Takuhiro OGAWA
Text:Yumiko CHIBA