山物語を紡ぐ人びとvol.20〜永易量行さん(フォトグラファー)

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プロの “写真屋” というスタンス

フォトグラファーの目を介在する“写真”という表現物を通して、私たちは自分の目で見る世界以外の何かにも触れることができる。

UTMFのオフィシャルフォトグラファーであり、アウトドア系雑誌の撮影も手がける永易量行さんは、自らの立ち位置についてこう話す。「アウトドア以外にもライフスタイル系カタログや医療関連のウェブサイト、住宅などさまざまな撮影を行っています。自分としてはひとつのカテゴリーに絞るのではなく、あくまで“プロの写真屋”というスタンスでいたいと思っているのです」。

日常生活ではランナーでもある。自己ベストを目指して、スピード練習や坂練習などのストイックなトレーニングも重ね、定期的にロードのマラソンに出場するほか、『信越トレイルランニングレース』や『スパトレイル』といったロングトレイルランレースも年に数回、完走している。山岳系雑誌では、走りながらの撮影もこなしてしまう。

そんな永易さんは20代前半まで、海外遠征隊に参加するバリバリの山屋だった。

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2015年 信越五岳トレイルランニングレースでのゴールシーン(信越五岳トレイルランニングレース実行委員会)




誰かが敷いたレールには乗りたくなかった

横浜市立大学山岳部に所属していた永易さんが写真と出会ったのは、大学4年生のときのこと。写真スタジオの助手のアルバイトに応募する。「もともと記者になりたかったのです。しかし、写真なら言語に縛られない世界共通の表現手段だと考えたのが、この世界に入ったきっかけです」。

アルバイト時代には、百貨店の折り込みチラシや港湾局の客船カレンダー、環境保全事業のポスター撮影などを経験した。大学卒業後も、そのままスタジオでアシスタントを続けた。「就職する気は全くありませんでした。当時は尖っていたんですね。卒業したら就職するものだと誰が決めたのだ、とか思っていましたから。レールに乗ることが嫌だったのです」。

もうひとつ大きな理由があった。

出身大学の山岳部が1年後に、中国の新疆ウイグル自治区とキルギスタンの国境にある天山山脈の最高峰トムール山(7435m)への海外遠征を予定していた。その遠征隊に参加するため、遠征が終わるまでは就職せずにアルバイトのままでいようと考えていたのだ。「当時その山域は中国とソ連の国境で、僕らは中国側から登る予定でした」。

海外遠征隊として、トムール山へ挑戦

遠征には、登攀隊員兼フォトグラファーとして参加した。ベースキャンプまでは馬などで物資を運び、そこから7人で頂上へ登り始める。遠征前にはバイトのかたわら、地道にトレーニングも積んだ。「基本はランニングで体力を養いました。週末は富士山でのトレーニングと、筑波大学の低圧訓練室でのトレーニングを毎週、交互に行っていました。かなり本格的なチャレンジでしたので、OBからの寄付金も集まっていましたが、自分たちでも相当費用を負担しました」。

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天山遠征のため天山遠征のためのトレーニング。剣・八ツ峰


将来、登山家になろうという気持ちはなかったのだろうか。

「なかったですね。大学OBにはJCC(ジャパンクライマーズクラブ)のメンバーもいましたが、自分はそこまでの才能はないと思っていましたから。それに岩登りは好きでしたが、重い荷物を背負って歩くのは、正直あまり好きではなかったのです。遠征はクライミングというより、ひたすら重い荷物を背負って高度を上げていくイメージですから」

夜中に起こった突然の雪崩

ところがこの遠征で、仲間の3名が雪崩に巻き込まれて行方不明になってしまう。いまだに遺品も見つかっていない。永易さんは、その時のことをこう振り返る。

「まず広大な雪原にC1(第1キャンプ)を設けました。その後、隊長と二人で次のキャンプ地の場所決めと、雪崩が起きやすいルンゼ(岩壁にできた険しい溝)の雪質を確認するため登っていきました。5500mくらいまでは体調もよかったのですが、その帰りに僕が捻挫してしまって。同時に急激に体調も悪くなって動けなくなってしまったのです」

結局、永易さんは動くことがままならなくなり、ベースキャンプへ下りることになった。その後、C3まで登った隊員たちが夜中にテントごと雪崩に遭ったのだという。通常、夜は冷え込み、雪も固まるため雪崩は起きにくい。想定外の出来事だった。

永易さんは怪我と病気で捜索隊に加われなかったため、馬方と一緒に馬に乗り、ほぼ徹夜で電話のある場所まで下山。日本との連絡係を担った。

「前夜まで仲間と交信していたのに、いきなり翌朝、交信できなくなってしまった。いまだに装備ひとつ見つかっていなくて、仲間がいなくなった実感が持てない。ヘリも出て捜索もして、僕もそのヘリに同乗したのですけれどね。実感がないまま、20年以上の歳月が経ってしまいました」

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大きなプロジェクトであったため、事故後は報道陣も集まり、記者会見への対応など慌ただしい日々が続いた。純粋に高みを目指す登山の別の側面に、このとき永易さんは触れた。

それ以来、長い間、山から遠ざかっていたという。山に関連する撮影依頼も度々あったが、しばらくは断っていた。「OBが組んだ捜索隊に自分の装備をすべてあげてしまったことも理由のひとつです。気持ちの部分でも、山はもういいかなと思っていました」。

 

フォトグラファーとしての意識改革

遠征後、広告撮影を主軸とする東京の制作プロダクションにアシスタントとして入社した。カメラマン8名、アシスタント10名、営業職10名、経理5名という大きなプロダクションで、航空会社やカメラメーカー、電機メーカーなど大手クライアントの仕事に従事する。スタジオ撮影からロケまで幅広い経験を積んだ。

そして7年ほど経った頃、自分の原点に戻ろうと決意する。「そろそろジャーナリスティックな方向へ行きたいと思いました」。会社を辞め、イギリスに渡って大学院でフォトジャーナリズムを学ぶ。

大学院の講義は実に実践的だった。フリーランスのフォトグラファーとしてどのように生計を立てていけばよいか、ストーリー展開や企画書の書き方、出版社への営業まで学んだ。

入学して初めての課題は、イエローページを渡されて自分で取材先を探し、ストーリーを撮ってくるというものだった。「テーマは“Men at Work”で、一週間の取材期間が与えられました。何をどう撮ってもいいと言われ、自分は消防署を取材しました」

大学院のため、写真の技術がすでに身についていることは大前提。その上で何をどう撮るか、どう見せていくかを考えていく。「実際に媒体に掲載されることを想定したセッションが続きます。とにかく取材へ出かけて行き、撮りまくる。持ち帰って現像、プリントして、全員でそれぞれのストーリーが記事として成立するかどうかについて徹底的に討論します。これは、いまの仕事でも非常に役に立っています」。

英国留学・消防士
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上:英国滞在中のポートレイト。消防士  下:山と溪谷社との最初の仕事 「Generation-X」

帰国後はジャーナリスティックな媒体ばかりを選んで、営業に出かけた。

その頃、留学時代のフランス人クラスメートから山と溪谷社を紹介され、『ジェネックス』というスキー雑誌での仕事がスタートする。「スキーのXゲームを扱う雑誌でした。でも僕はスキーを滑れないので、スノーモービルで撮影していました」。そこから少しずつ、アウトドアの仕事が広がっていった。

自然光に委ねるアウトドア撮影
光をゼロからつくるスタジオ撮影

永易さんの持ち味は、ギアやウェア写真といった精密なイメージのスタジオ撮影も得意とし、一方ではトレイルランのレースや山でのロケなどアウトドア撮影も行うことだろう。時にはアスリートと走りながら撮ることもある。

「山ばかり行っているとスタジオで撮りたくなるし、スタジオばかりだと外に行きたくなる。この仕事の面白いところは、毎回違うことができることにあります」

雑誌『山と溪谷』ではギア&ウェアを紹介する連載を長年担当し、今年で10年目に突入した。テキストはホーボージュンさんや村石太郎さんが手がけてきた。

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ほかに雑誌の通販ページやタイアップ、様々なカタログや広告などの撮影も行っている。「写真は好き嫌いで評価されることが多いのですが、売上向上や注文数の増加を求められるものもあります。このような、具体的な数字に直結する仕事には独特の醍醐味があります」。

アウトドア雑誌の写真と一括りにしても、スタジオとロケ撮影ではプロセスや技術が異なる。永易さんはその違いをどのように捉えているのだろうか。

「スタジオで行う“物撮り”では、照明機材を使ってゼロから光をつくります。ものの見え方を理詰めで構築するプロセスは理系のアプローチだと思います」。一方で、トレイルランレースなどアウトドアでの撮影では、光は自分でコントロールできないことから「文系のアプローチ」になると永易さんはいう。

「どのフレーミングで切り取っていくか、その中でランナーは止まって見える方がいいのかブレている方がいいのかといったことを瞬時に判断してシャッターを切ります。これは文系のアプローチだと感じますね」。自然光の撮影は、雲間や木漏れ日などちょっとした光の動き、偶発的な要素に大きく左右されるため、感覚的な要素が強くなる。

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上:福島和可菜&舞姉妹  下:小川壮太さん(ともに、山と溪谷社のムック「TRAIL RUN」より)





通常、人は写真を見る際、1.3秒ほどしか注目しないと言われている。その一瞬で、心を掴めるかどうかが決まる。

「パッと見た瞬間が勝負であることは、スタジオで撮った写真でも、外で撮った写真でも変わりません。でもその課程の意識は全く違います。ある意味、別の職業といってもいいほどです」

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上:モノクロ習作(スタジオ、屋外)中:The North Face広告(GOLDWIN.INC)下:2013年UTMFオフィシャル写真

永易さんが好きな表現とは、どのようなものなのだろう。

「音のない世界が好きですね。ガチャガチャとしたうるさい写真や説明しすぎている写真は苦手です」。そして人物を撮るときには、ある種の緊張状態を保ちながら撮影しているとも話してくれた。

「被写体は格好良く撮られたい、きれいに撮って欲しいという欲があるわけです。でも写真屋は違う面を撮りたい。もう少しその人の奥にあるものを引き出したいと思って撮っています。ですから、撮影中にお互いの気持ちが対立するわけです。緊張の糸を引っ張り合うというかね。この時にどちらかが勝ちすぎてしまってはダメなんです」

たとえは、THE NORTH FACEの広告でアスリートを撮影した時には、あえて笑顔ではない表情をまとめてシリーズにした。どの選手とも緊張の糸の引っ張り合いがあり、撮影中とても面白かったという。被写体と仲良くなりすぎないようにするのも永易さんのスタンスだ。

「そういう意味では、人物写真はすごく楽しい。やりとりが上手くいかない場合もあれば、ものすごく相手の押しが強くて、こちらが折れてしまうこともあります。いつもせめぎ合って撮っています。三浦雄一郎さんの場合は写真を撮られることに慣れていらしたので、僕が負けてしまいました(笑)」

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上:白石康次郎/海容冒険家 下:鏑木毅/トレイルランナー(いずれもGOLDWINカタログ)

どんな撮影でも、現場のテンションがとても大切だと話す。「みんなのテンションが少し高いくらいでないと、決していいものは撮れません。すべての人が気分をちゃんと乗せているということ。それはフィールドでもスタジオでも一緒です。現場の空気は、写真を見た人に伝わるものだと思いますから」。

永易さんが写真を撮る上で、最も意識していること。それは読者=エンドユーザーの目だという。

「広告写真を撮る場合でも、読者の目線を大事に考えたいと思っています。クライアントや媒体関係者など間に入った人たちの意向だけではなくて、その先にある目を常に意識していたい。一緒にものをつくる人たちと共有したいのは、エンドユーザーにどう届けていくかという意識。みなで同じ方向を向いて、ものをつくっていきたいのです」。

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Profile
永易 量行 Kaz NAGAYASU
1966年神奈川県生まれ。横浜市立大学で経営学を専攻。学生時代より写真プロダクションにてアシスタントを経験。1990年に同大学天山トムール峰遠征隊に登攀隊員兼フォトグラファーとして参加。帰国後、広告プロダクションで本格的にフォトグラファーとして仕事を始める。1997年に英国ウェールズ大学大学院フォトジャーナリズム学科へ進学。翌年帰国し、永易写真事務所を設立する。

撮影:小関信平
写真提供:GOLDWIN.INC、山と溪谷社、信越五岳トレイルランニングレース実行委員会
取材協力:小学館