vol.21〜 新名健太郎さん(ウルトラマウンテンアスリート)

『山物語を紡ぐ人びと』vol.21〜 新名健太郎さん(ウルトラマウンテンアスリート)

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マウンテンランナーであり、山岳ガイドであり

 

関西トレイル界で “兄貴” のように慕われている新名健太郎さん。国内外のトレイルランレースで上位の成績を収めながらも、どこかトレイルランを俯瞰しているように見える不思議なアスリートだ。飄々としていて、それでいて実に楽しそうに山と向き合っている。

いつかゆっくり話してみたい。そう思いながら月日が経ち、ようやく願いが叶った。

静かに伝わってきたのは「強くて優しい人」だということ。
きっとそれは、これまで新名さんが辿ってきた道と深く関係しているのだろう。

 

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“危ないクライミング” をしていた頃

 

矢田丘陵の麓、奈良市で暮らす新名さんは、大阪市で生まれ育った。お互いの町は生駒山を挟んで向かい合っている。「大阪のトレイルランナーはたいていこの山で遊んでいる」という。

中学から大学までサッカー部に所属。京都外国語大学に通っていた頃、山遊びを始めた。クラブの冬休みを利用してネパールへトレッキング旅行に出かけ、本格的な登山に目覚める。

学生時代から社会人山岳会に所属し、先輩からクライミング技術を学ぶうち、いつしかアルパインクライミングの世界へ。「20代の頃はちょっと危ないクライミングをしていましたね。いつかヒマラヤに行きたいと思っていたんです」。

アルパインクライミングとは標高の高い山を目指し、そのルート上にある壁を登るクライミングのこと。冬は氷の壁を登る。

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当時の山の先輩たちの間では、ハードな山行が当たり前だった。

「僕の場合、いきなり過激なところから始まったんです。マイナス10℃の山へ連れて行かれて、軽量化とトレーニングを兼ねて、シュラフなしで(シュラフカバーだけで)寝ました。先輩に言われるがまま。ヒマラヤを目指していたので、自分もそんなものかと思っていましたね」。

滋賀県の比良山系にあるリトル比良へ行き、30kgほどの石をザックに入れて15時間歩くトレーニングをすることもあった。

「その間に水を300ccくらいしか飲まないんですよ。夏の暑い時期なのに。そのときに比べたら、トレイルランニングなんて、飲み放題、食べ放題ですから(笑)」。

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20代は毎週のように山へ通い詰めていた新名さんだが、ある時期から、ぴたりと “危ないクライミング” をやめてしまう。

 

一線を越えるということ

 

大学を卒業し、アウトドアメーカーに就職。クライミングジムを併設するショップの店長を務める。

この頃、仕事に役立てようと、山岳ガイドの資格も取得した。

職場で知り合った奥さまと、27歳のときに結婚。その頃から、クライミングに対して「怖い」という感覚が芽生えていく。

「刹那的な生き方を欲しなくなったんでしょうかね。それまでアドレナリン全開の世界がむちゃくちゃおもろかったのに、危ないクライミングが苦痛になってきた。冬山もピタリと行かなくなりました」。

クライミングに明け暮れていた新名さんの意識は、少しずつ変わり始めていた。

「リスペクトするクライマーの中には死んだ人もいました。才能あるクライマーたちを近くで見続けていたら、俺はこんな危ないこと出来ないなって、自分の才能に限界を感じたんです」。

同じことをしたら自分は死ぬ、そう思った。

「本当に強いクライマーたちを見ていると、ふと、自分も出来るんじゃないかと錯覚してしまう。でも天才と凡人の間には、絶対的な境界線がある。その境界線を知らずに一線を越えてしまったとき、人は山で死ぬんじゃないかと思うんですよ」。

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自分の限界にぶちあたる。それから、闇のような時代が訪れた。

 

敗北感の中で出会ったトレイルラン

 

しばらくして、偶然にトレイルランと出会う。いわばトレイルランは、新名さんにとって諦めの状態からスタートしたといってもいい。

結婚後に移り住んだ奈良の家の近所で、体力維持のためにジョギングをしていたときのこと。マウンテンバイクを担いだ人が山に向かっていくのを見かける。気になってついて行くと、そこにはトレイルへと続く道があった。いまのホームコースである矢田丘陵だ。

トレイルを走ってみたら、なんとも面白かった。まだトレイルランという呼び名すら知らない頃のことだ。

「あっ、いま思い出しましたよ。もう一つ、トレイルランを始めた決定的な瞬間がありました」と新名さん。

その決定的な瞬間は、北海道を旅しているときに訪れた。

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舞台は利尻岳。海抜0mから1,721mまで登山道が続き、山頂からは360度、海が見渡せる独立峰だ。

クライミングをやめて心が彷徨っていた頃、旅の途中でこの山に登った。しかし天気が悪く、山頂からは全く景色が見えなかった。

その夜、麓のバーで飲んでいたら、マスターがこんな話をする。「この時季の利尻は午前9時を過ぎるとガスがかかってしまうのさ。そういえば以前、有名なスキーヤーが2時間半くらいの最速登頂記録を残したこともあるんだよ」。

翌朝、目覚めて外を見ると晴れていた。「どうしても利尻の山頂からの景色がみたい!」そう強く思った。しかしフェリーの搭乗時間から逆算すると、3時間ちょっとしかない。

「とにかくすごいベースで駆け上がりました。あんなペースではレースでも走らない……。その時の景色はいまも忘れられませんね。カメラも持っていなかったから写真はないんですけど」。

結局、1時間半で登り、45分ほどで駆け下りた。フェリーにも無事に間に合った。

そのとき、自分はもしかしたら速いのかもしれないと自覚したという。「登山はスピードを競うものじゃないでしょ。だからそれまで、速さなんて意識したことはなかったんです。歩いていてちょっと人より速いと、荷物を持ったろか、と思うくらいで」。

利尻からフェリーに乗り、旅を続けながらニセコのアウトドアショップに立ち寄った。その店の片隅で雑誌『アドベンチャースポーツマガジン』のバックナンバーを見つける。表紙はトレイルランナーの石川弘樹だった。

「夜、テントで読んでいたらおもろくて。石川さんがアメリカでグランドスラムを達成したことが紹介されていました。大学までサッカーをしていて、同い年で身長も同じくらい。自分もサッカーをしていたし、シンパシーを感じたんですね」。

翌日、洞爺湖の周囲約43kmを走ってみたところ、3時間を切れた。「これは結構行ける」と確信したという。

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クライミングに対する挫折感を抱え、家庭や仕事という現実的な問題の分岐点でもあった北海道旅行で、新しく掴んだ手応え。ヒマラヤを諦め、もうこれからの人生で面白いことはないかもしれないと考えていた時だ。

「それまで、アルパインクライミングが人生のすべてでした。挫折した後、敗北感だけで俺は残りの人生を生きていかねばならないのかと思って、心がフラフラしていたんです」。

いまの日本のトップクライマーのレベルはすごいという。普通の人なら、10回挑戦して9回死ぬようなことをやっている、と新名さんは話す。

「一線を見極められたことは、残りの人生にとってはよかったんでしょうね。気づかずに死んでいった人はたくさんいますから。一般の人があの領域に入ったら、一瞬で死ぬと思います。そんな世界ですよ、クライミングって。越えられない境界線が見えたこと。いまもし自分に何かを語る意味があるとしたら、そこなのかもしれませんね」。

もう何もないと失意の状態からスタートしたトレイルランの道。クライミングに比べれば、たいしたことない。

「寝ずに走るといったって、眠たいのを我慢しているだけだし。カラオケや麻雀をやっているサラリーマンと同じですよ(笑)。それでも夜を徹して山を走るという行為の中には、面白い要素がたくさんある。とても感謝しているんです」。

トレイルランに出会って8年。やればやるほど、面白くなっていく。

 

 

山脈を一気に走り抜く

 

トレイルランの魅力のひとつが、どこでもフィールドになることだ。クライミングでは、冬の壁など限定されたシーンでの挑戦しか考えられなかったが、トレイルランなら近所でも挑戦的な遊び方ができる。そのことが衝撃だった。

レースに出場するようになったのは、2008年頃。かつての同僚であり、山岳ライターをしていた親友の若月武治さん(愛称:ワカ)の言葉がきっかけだった。「お前は体力が無駄にあるからレースに出てみたら行けるんじゃないか?」と言われた。

「暗黒時代の自分にとって、ワカは唯一の友だちだったんです」。

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親友の若月武治さんと、よく二人で山に登った。

 

決められたコースを走るレースというものに面白さを見いだせるだろうかと疑心暗鬼だったが、『新城トレイル(愛知県)』に出場してみたところ、これが思いのほか楽しかった。

「登山ではここまで力を出し切ることはないですから。登山でここまで出し切ったら命にかかわります。でもトレイルランのレースでは、最後に倒れ込んでもおかまいなし。そこまでやりきったことはなかったですからね」。

会社を辞めた後、個人で内装の仕事を始め、夏には先輩を手伝って北アルプスで山岳ガイドをしていた。

編集プロダクション『ハタケスタジオ』を経営する若月さんの紹介で、山岳雑誌にも寄稿していた。そこで、レースに出場する時には冗談混じりに「ハタケスタジオランニングチーム」と所属覧に記した。「友だちの会社を応援するために走るのも面白いなと思っていました」。

 

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その一方で、レースではなく、ウルトラトレイル(超長距離トレイル)を走ることへの関心も高まりつつあった。

「登山者には、一つの山を登って下りて完成という考え方がありますよね。でもトレイルランなら、山脈のすべてのピークを端から端まで走って完成するスタイルも可能になる。ひとつの山脈を一気に制覇する。僕は ”一撃“ って呼んでいるんですけど、それをしたいなと思って。地図を見てみると、いくらでも自分が向かうべき目標が見つかるわけですよ」。

普通に登るのであれば、無雪期に国内に登れない山はない。しかし山脈という単位で見ると、とても難しい課題がたくさんある。古くからある縦走とも違う。縦走は衣食住を担いで、途中で寝起きしながら踏破するが、新名さんの場合はノンストップで走り切って “一撃” することに、面白さを見いだしている。

たった一人、関西のロングトレイルといわれる山脈を落としていく。まずは、二上山から海沿いの岬公園まで、総距離が約110kmある『ウルトラダイトレ(新名さん命名)』だ。

「いまだったら、どうってことない距離ですけど、最初は徹夜で走っていると足がダメになっていました」。夜中に迷ったり、水が切れたり、唯一あるはずの自動販売機が使えなかったり。何度か諦めたが、2012年に成功させた。

次に挑戦したのは『大峰奥駈道』の100km 。累積標高は9,000m以上になる。当時、ここを一撃した人はいなかった。サバイバル登山家の服部文祥が、一泊二日、30数時間で踏破したという記録があり、それを破れるのではないかと挑戦した。結局、粘りに粘り、4回目の挑戦で2013年にようやく成功する。

「ここはエスケープルートもない。水場も少ないし、枯れていたら遭難やなと。一線を見極めることにはクライミングで慣れていましたから、途中まで行ってみて『これは無理だな』とか『もう少し強くなってから出直そう』とか判断していました」。

そんなことを繰り返しながら、走力や戦術を練り上げていった。

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装備も極限まで削る必要があった。「食わなければ動けないような身体では、ここは一撃できませんね。少しでも多く食料を背負ったら潰れてしまうんですよ、奥駈では」。成功時の補給食は、ジェル十本とアルファ米とグミ。普通のレースでいえば10時間分くらいのカロリーで、24時間以内の踏破を成し遂げたことになる。

「自分は一人でやるのが大事だと思っているんですね。夜10時くらいに電車に乗って、誰にも知られずに山に入ること自体がおもしろい」。

新名さんは、いまのトレイルランシーンに違和感があるという。それは、みんなが自分の行動をすぐにSNSにアップすることだ。

「何もかも見せるためにやっているような気がしてくる。自分にとっての根本は、利尻岳のチャレンジにあります。ただ登りたいから登る。誰に見せるためでもない。そういう気持ちを忘れたら終わりだなと思って」。

大峰奥駈道が成功して「もうやり切った」と感じていた。1300年の歴史を持つトレイルと9,000mに及ぶ累積標高、これ以上、挑戦しがいのあるトレイルは見つからないのではないか。

そう思っていたとき、大きな出来事が起こった。

 

 

親友との約束

 

2014年夏、新名さんはフランスのシャモニーを拠点とするトレイルランレース『ウルトラ・トレイル・デュ・モンブラン』に出場していた。ここで、思いもよらない出来事に直面する。

「僕がシャモニーにゴールして1時間後くらいに、ワカが交通事故で亡くなりました。フランスでは深夜で、日本時間では朝くらいだったのかな。日曜の朝に自転車でトレーニングに出かけ、交通事故に遭ったんです」。

レースに出る度に、必ず報告し合う仲だった。そもそもレースを走ることの意味は、若月さんとの関係性の上で成り立っているものだった。シャモニーから帰国し、その足で葬儀に参列した。

それからの2ヶ月、全くの放心状態になる。

「何かのケジメみたいなんが必要だったんですかね。自分にとっても、ワカのためにも……。それで、かつてワカとバカ話の中で話していた福井県の小浜の海辺から那智の海辺まで、トレイル360kmを走ろうと決めました。小浜から那智へ。OTNと名付けました」。

歴史ある道を繋げたトレイル。ルート上、最後のパートとなる熊野古道では古くから、「もう一度会いたいと願う故人に会える」という言い伝えがあると、何かで読んだことがあった。トレイルランナーの山本大賀さんや、新名さんの “弟子” のような存在の井上隆詞さんも部分的に並走してくれた。

終盤を迎えた頃、「未曾有のスーパー台風」と呼ばれる大きな台風が接近してきた。ゴールに近い和歌山県の新宮では、観測史上で最もひどい暴風雨。ロード区間ですら、足首まで水浸しになった。地元を見回っていたレンジャーたちにも「目的地まで車で送るから」と言われた。

そして、那智の海岸に辿りつく。3日と10時間という旅。

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「これでケジメがついたと思いました。もう、トレイルランをやめてもいいかなと……」。

それでもいま、新名さんは走り続けている。

 

 

自分が伝えられることとは

 

小浜から那智までの旅が終わると、まるで若月さんが引き合わせているかのように、トレイルラン関連の執筆仕事や撮影仕事の依頼が来るようになった。それで、トレイルランがやめられなくなった。

「2015年に仲間と“HUB”というイベントを計画しました。飛騨山脈100kmを自分のペースで走るチャレンジです。何かの枠組みの中で走るレースじゃない。自分で自分の責任を持てる奴だけが集まりました。何かあればお互いに助け合う。大人の大いなる遊びです」。

最近では、気の合う仲間たちと挑戦する『ウルトラジャパンシリーズ』の記録を、雑誌『マウンテンスポーツマガジン(山と溪谷社)』に連載している。

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「伊勢路」にて。トレイルランナー阪田啓一郎さん、井上隆詞さんとともに “一撃” の旅をした。

 

「塩の道」「伊勢路」といったストーリー性の強いルートを踏破したあと、奈良と三重を繋ぐ「台高山脈トレイル」にチャレンジした。日本中を舞台にしたウルトラトレイルの計画は、まだまだ尽きない。

こうした山遊びを記録に残そうと思った理由のひとつには、いまのトレイルランシーンに対する問題提起もある。

「レースが主体なのは、なんかモッタイナイ気がしますね。同じような気持ちの人もきっといるはずなので、そういう人たちに『こんな遊びもありますよ』と伝えたいなと」。

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2016年の夏は山仲間たちと、海辺の岩を登るディープウォーターソロクライミングも楽しんだ。

 

 

強くなるために、ひとりで山に入る

 

尊敬するクライマーが、ある雑誌で語っていた一言が心にある。「いまの登山界は人が主人公でしょう。本当に山が好きなら、主人公は山のはずだ」と。

その言葉に、新名さんはとても感銘を受けた。

「山が持つストーリーの中に自分たちが入っていくような山行。自己という存在が消えるような山行をしたいですね。そんな価値観をトレイルランにも持ち込みたいなと。自分は40歳を越えているし、そろそろ、遊びながら山の世界観を人に伝える役目を担うべきなんじゃないかと思っています」。

強くなりたいなら、山には一人で入るのがいい。二人だと安心感が生まれてしまう。気の合う仲間に囲まれるいまでも、新名さんは大事なときには必ず一人で山に入る。

山に入っていれば、自然に強くなれると新名さんはいう。
では「強さ」とは、何なのだろう。

「山でいかなる状況になっても、ちゃんと帰れること。目的をやり通せる力というよりも、自分の力量を冷静に受け止めて、その安全圏で帰ってこられることです」。

自分はとてもディフェンシブだ、と新名さんは言った。自分の中に余地を残しておくこと、守りの意識。

「挑戦」では、攻めることや諦めない姿勢ばかりがクローズアップされがちだが、それ以上に大切なのは「この場所に戻ってくること」。「見極める」ということ。

「最終的には、山に入ることで河原の石ころみたいに角が取れて、磨かれていけばそれでいいかなと。僕の場合、たまに割れたりするから、すごく小さくなってもうたんやけど(笑)」。

新名さんの奥に眠る何かに触れた気がした。

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新名健太郎 / Kentaro Shinmyo
ウルトラマウンテンアスリート

大阪市生まれ。京都外国語大学時代に山に目覚め、アルパインクライミングの世界へ。アウトドアメーカーに勤務した後、独立。現在は内装デザインの仕事を手がけながら、夏場は北アルプスで山岳ガイドを務める。国内外のトレイルレースで上位の戦績を収めるほか、山脈を一気に踏破するチャレンジを続ける。

 

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新名さんが通うボルダリング・クライミング専用ジム「CITY ROCK GYM 大和郡山店」。オーナーの林照茂さんとは古くからの付き合い。
http://www.cityrockgym.com

 

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取材でお世話になった奈良・斑鳩町にある「garden cafe 凪」は、新名さんが内装をプロデュースした店。トレイルヘッドにも近いことから、自家菜園で採れた季節の野菜やハーブを使ったランチはランナーにも人気だ。
http://cafe-nagi.com/?page_id=2

 

Place:Nara City
Photo:Shimpei Koseki
Interview & Text:Yumiko Chiba