vol.6〜 斉藤亮さん×山田琢也さん(NPO法人インサイドアウトスキークラブ)/ 前編

インサイドトップ画像

NPO法人インサイドアウトスキークラブを運営する山田琢也さん(左)と斉藤亮さん(右)。トレイルランニングとMTBの世界で知らない人はいないトップ選手のお二人の共通点は、クロスカントリースキー。壁にずらりと並んでいるのは、歴代のクロスカントリー用スキー板。山田さんのご実家である木島平『スポーツハイムアルプ』にて。                 Photo by Sho Fujimaki

 

クロスカントリースキーが育てたトップアスリートたち

『山物語を紡ぐ人びと』第6回目は、MTB選手の斉藤亮さんとトレイルランナーの山田琢也さん。「なぜ、分野の違う二人のアスリートが並んでいるの?」と不思議に思う方も多いことだろう。

実はお二人は、クロスカントリースキー競技で名高い長野県の飯山南高校の出身で、ともに長年、スキー選手として活躍してきた。実業団への入団やアーチェリースキーに転向してのドイツ留学など、それぞれの道を歩んだ後、2008年に再び飯山で再会する。

そして、斉藤亮さんが代表となり、奥信濃のアスリートたちとともに立ち上げたのが『NPO法人インサイドアウトスキークラブ(以下、インサイドアウト)』だ。故郷をアウトドアスポーツの発信地にすべく、さまざまな活動を行っている。

今回、写真を撮影してくださったカメラマンの藤巻翔さんのほか、山室忠さんや小出徹さん、黒岩玲生さん、浦野裕之さんといったトレイルランナーもインサイドアウトのメンバーだ。

活動の本拠地である飯山市は長野県北部、新潟との県境に位置している。千曲川沖積地に広がる飯山盆地を中心に、関田山脈や三国山脈、斑尾高原、鍋倉山、北竜湖などに囲まれた自然豊かな土地だ。春〜秋は朝晩の気温差が大きく、冬になると日本でも有数の豪雪地帯になる。そのため、子どもの頃からみなクロスカントリースキーに親しんでいるという。

街におけるスキーの歴史も古い。日本でスキーが本格的に広まったのは明治末期のこと。オーストリア=ハンガリー帝国陸軍のテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐が新潟県中頸城郡高田(現在の上越市)でスキー指導を行ったことが始まりとされている。明治45年、飯山中学の体育教師だった市川達譲氏がこのレルヒ少佐の指導を受け、スキーの技術を体得。すぐに授業に取り入れたと伝えられている。

NPO法人の設立から7年。地元への想いに溢れたその活動には、次世代のアスリートたちに向けたメッセージが込められている。

前編・後編にわたるお二人へのインタビューをどうぞ。

 

スキーの強豪校で培った精神力

(以下、敬称略)
——山田さんは、何歳からクロスカントリースキーを始めたのですか。
山田:3歳でアルペンスキーを履いて、小学校入学と同時に授業でクロスカントリースキー(以下、XCスキー)を始めました。飯山では子どもの頃から自然にレースに出たりするんです。

—–メンバーのみなさんは中学や高校など学生時代からのおつき合いだそうですが、学年も近いのでしょうか。
山田:インサイドアウトでは僕が一番上で、一学年下が服部正秋(ノルディックウォーキングINWA&JNFAマスターインストラクター)、次が斉藤亮、その下が山室忠と順々に続いていきます。

——どんな高校生活を?
山田:僕や亮の母校はXCスキーの強豪校で、スキー部員が100名ほどいました。その中でインターハイに出場できるのは学校枠で3人。例えば県大会で4位になっても、1位から3位までが同じ校内にいたらインターハイには出られない。僕らの頃はちょうど黄金期で、オリンピック選手もたくさん輩出していました。僕自身の成績はリレーで国体2位、インターハイで3位、個人戦はインターハイの11位が最高でした。

——高校生にして、ずいぶん厳しい環境だったのですね。
山田:そうですね。同期も先輩後輩もみんなライバルという状況でした。校内で出場権利が獲得できたらインターハイでも入賞できる、校内で1位が獲れたら全国優勝できるという環境でした。当時からトレーニングの一貫で、ポールを持って山の中を5〜6時間走ったりもしていました。
藤巻:琢也さんや亮さんの時代は、とくに最強メンバーが揃っていましたよね。

琢也さんトーク

Photo by Sho Fujimaki

 

アーチェリースキーから、トレイルランニングの世界へ

——卒業後は、進学先として京都の同志社大学を選ばれていますね。同志社大を選んだのは、何か理由があったのですか。
山田:飯山南高校は非常に管理された環境でしたから、違った空気に触れてみたかったんですね。高校2年でインターハイに出場して強化選手に選んでもらい、3年次には1ヶ月ノルウェーにも遠征させてもらって期待もされていましが、学内予選で4位になり補欠になってしまった。それで燃え尽きたというか、大学で寮生活をしながらスキーを続けるのは何か違うなと感じていました。

同志社には寮がないんですよ。それに、他の大学だと体育会系の学生だけで授業をするのですが、同志社は一般学生と一緒。すごく自由な校風で、頑張るも頑張らないも自分次第です。逆に自分で行動していかないと、どんどんダメになってしまう。僕も1年目はまんまと雰囲気に飲まれて遊んでしまって(笑)。それでも2年目以降は一般の学生から刺激をもらい、頑張ろうという意欲が湧いてきました。高校よりも大学の方が成績はよかったですね。個人戦の最高はインカレ6位、1チーム2名で構成するスプリントリレーでは、同じ高校から同志社に進学した服部正秋と組んで全国優勝も果たしました。

—–学生時代は、どんな練習をしていたのですか。
山田:冬はスキー場のある場所まで出向いて練習し、夏場は京都の大文字山周辺を走っていました。この時代に時間をやりくりすることや工夫しながらトレーニングすることなど主体性を学んだ気がします。いま平日は会社員をしながらトレイルランニングとの両立を図っていますが、この頃の経験が役立っていると感じます。

2009年『長野かがやき国体(第63回国民体育大会冬季大会)』の山田琢也さん。Photo by Sho Fujimaki

2009年『長野かがやき国体(第63回国民体育大会冬季大会)』の山田琢也さん。                         Photo by Sho Fujimaki

——スキーアーチェリーとの出会いはいつ頃だったのでしょうか。
山田:大学3年の時です。ちょうどポーランドで世界選手権が予定されていて、同級生が「簡単に海外旅行に行けるレースがあるから出ようよ!」と岩手の全日本選手権への参加を誘ってきたんです。アーチェリーは未経験で、一度練習をしただけで乗り込んだところ2位に入りました。結果、ポーランド選手権にも出場しました。その後、大学を卒業して地元の信濃毎日新聞社へ入社し、広告局で3年間勤務しました。

XCスキーは選手の層が厚いけれど、スキーアーチェリーならチャンスがあるかもしれない。そう思っていたところ、ドイツの世界選手権にもう一度出場させてもらえることになったんです。これが転機になりましたね。化学メーカーのクラレから支援を受けて、南ドイツのワルガウに3年間アーチェリースキーの留学をしました。

ヨーロッパは地域のクラブチームが主流なので、僕も『シーガウ・ヴァルデンフェルズ』というクラブチームに所属して練習をしました。3年目の2007年、ロシアの世界選手権で金メダルを獲得して、やりきった感いっぱいで帰国。アーチェリーは本当に苦手だったので、これでもういいなと思ったわけです。

——トレイルランニングを本格的に始めたのは、帰国してからですね。
山田:そうですね、2007年からです。いま考えると、ちょうどトレイルランニングの黎明期で、選手生活を始めるにはよいタイミングだった気がします。いまは裾野が広がって層も厚くなり、若手がなかなかチェンスを掴めない時代に突入していますから。

 

2006年、トリノ五輪で大きな転機が訪れた

——斉藤さんがXCスキーを始めたのも、小学校入学からですか。
斉藤:そうですね、琢也さんと同じく小学校の授業が最初です。4年生から学内のスキークラブに所属して本格的に指導を受けるようになり、週末には大会にも出場していました。

——高校をご卒業されてから、自衛隊に入られていたそうですね。
斉藤:北海道にある冬季戦技教育隊(※2=以下、冬戦教)という冬の競技専門の体育学校に、実業団として6年間所属していました。バイアスロンとXCスキーがあり、僕はXCスキーの選手でした。バイアスロンは人数が少ないこともあって、チームからオリンピック選手が選ばれたりするのですが、XCスキーは全国に実業団が多くてオリンピックは少しハードルが高い。僕はオリンピック出場のギリギリのラインのところにいましたから幸いにもチャンスに恵まれて、オーストラリアやフィンランドなど一年の半分は海外遠征をしていました。

            Photo by Sho Fujimaki

Photo by Sho Fujimaki

——全日本優勝やFIS(国際スキー連盟)ランキング国内4位など、非常に輝かしい成績を収めておられます。
斉藤:いえいえ、そんなことはないですよ。2006年のトリノ五輪に出場できなかったことが、唯一、競技生活で悔やまれることです。日本代表枠6名に選ばれると信じていましたから。でもその時の経験があったからこそ、違う競技にチャレンジしたいという気持ちになったわけで、結果としてはよかったのかなと思っています。

——大きな転機でしたか。
斉藤:そうですね。正直、また4年頑張ってみるかという気持ちにはならなかったです。スキー競技はアマチュアスポーツなので、やはり頂点はオリンピック。オリンピックがすべてという競技人生でしたね。自分中でもソルトレイク五輪とトリノ五輪は強く意識していました。

2009年『長野かがやき国体(第63回国民体育大会冬季大会)』での斉藤亮さん。Photo by Sho Fujimaki

2009年『長野かがやき国体(第63回国民体育大会冬季大会)』での斉藤亮さん。
                                                                                   Photo by Sho Fujimaki

——トリノ五輪の選考後に、飯山に戻られたわけですか。
斉藤:なかば追い出されるような形で実業団を離れました。当時は少なからずスキーに対する未練もあったので、地元に戻ってからは飯山市の体育協会に2年ほど勤務しながらスキー競技を続けていました。2007年に札幌で世界選手権が開催され、2009年には長野で国体が予定されていたので、その二つを自分の競技生活の区切りにしようと決めました。

地元に戻ってからは、実業団時代とは全く異なる生活が始まりました。職場では施設管理を担当していたので、外回りも多い。朝から夜まで働いた後に練習をするわけですから、当然、体はつらいわけです。そういう意味では実業団も経験できたし、フルタイムで働きながら競技を続けるハングリーさも経験できたし、競技に対していろんなアプローチがあると知ることができたのは、自分にとって大きかったと思います。

恥ずかしながらそれまで、社会人として普通に働いたことがなかったわけですから。実業団の時には自分でプログラムを組むことができましたけれど、働きながらだと時間的な制約がありますよね。毎日、時間に追われることが、ちょっと厳しかったですね。

 

共通点の多いMTBとクロスカントリースキーの世界

——MTBを始めたのは、いつ頃ですか。
斉藤:XCスキー選手の頃から、オフシーズンに自転車も少しかじっていて面白いなと思っていました。公式レースには出ていませんでしたが、ヒルクライムのローカルレースで優勝したりしていたのです。「行けるかな」と思っていたところ、2009年の『長野かがやき国体』が終わった後にダイワ精工(現・グローブライド)に声をかけていただき、その年からサポートライダーとして契約しました。

『長野かがやき国体』では見事に優勝を飾り、心にしっかりと区切りをつけた。

『長野かがやき国体』では見事に優勝を飾り、心にしっかりと区切りをつけた。

—–自転車とXCスキーの共通点はどんなところにありますか。
斉藤:持久系スポーツであることと、機材を使うスポーツであるところが共通しています。スキーなら雪質によってワックスや滑走面のストラクチャーを選びますが、自転車の場合は土の状態によってタイヤをチョイスします。その感覚がすごく似ているんですね。どんな選択をするかが、競技の面白さのひとつだと思います。

例えばトレイルランニングならシューズや装備、補給の仕方といった戦略もテクニックのひとつに入ると思うのですけれど、子どもの頃からスキーを通して感覚的に掴んできたことが、MXBでもアドバンテージになっている気がします。機材をどう操るかが勝敗のカギを握りますし、競輪のような瞬発力ではなくて、競技時間が長いところもXCスキーと似ています。

今年6月1日に開催された『2014ジャパンシリーズ第3戦富士見パノラマ大会』にて。

今年6月1日に開催された『2014ジャパンシリーズ第3戦富士見パノラマ大会』にて。

—–機材はレース直前に決めるのですか。
斉藤: そうですね。ある程度はチョイスしていきますが、スタート15分前に差し替えることもあります。機材調整は誰もが失敗したくないところ。泥なら泥用タイヤを選ぶのが普通なのですが、そこをあえてドライタイヤを選んだりもします。もちろん冒険して失敗するときもありますよ(笑)。補給についても、時間短縮のためにフィールドでの補給を少なくするための戦略を練ったりします。勝つか負けるかの試合をする時には、機材や補給も勝負に出るか否かの決断が大事になってきます。

 

ここ飯山で、自分たちにしかできないことを

——スキーの選手時代から、みなさん頻繁に連絡を取り合っていたのでしょうか。
斉藤:そうでもないんです。練習場ではよく会っていましたけれど、近況をメールし合うとか、そういう間柄ではなかったです(笑)。
山田:学生時代は鉄の掟じゃないですけれど、上下関係が激しかったので、後輩と仲良くする機会は少ないんです。練習場所ではいつも顔を合わせていましたけれど。
斉藤:たまたま、みんなが飯山に帰ってくる時期が同じだったのです。せっかくみんなが地元に戻ってきているなら、何か面白いことをしたいという気持ちが生まれました。当初は、全日本選手権の天皇杯リレーを同じチームで走ろうと話していたのですが、それは叶わなかった。
山田:それって、スキーの世界では画期的なアイデアなんですよ。日本では普通、大学や企業に所属して大会に出場することがほとんどです。ヨーロッパで主流の地域クラブチームに近い形で、何かできないかなと考えていました。

琢也さんトーク02

Photo by Sho Fujimaki

斉藤:地元に戻ったら、お互い限られた時間をやりくりしながら練習しているのがすごく刺激的で、より仲間意識が強くなっていった気がします。全日本選手権への出場は実現しませんでしたけれど、2009年の『長野かがやき国体』にはインサイドアウトのメンバーほとんどが出場しました。先にお話しした自分にとっての引退レースですね。
山田:この時の亮の優勝は、本当に神がかっていてすごかった。あの無敵感は半端なかったな。
藤巻:ほんと神がかっていました。惜しまれながらの引退でしたね。
斉藤:メンバーもみんな入賞して、すごく盛り上がりましたよ。

 

後編につづく)

【Profile】
斉藤亮さん
1980年、長野県飯山市生まれ。NPO法人インサイドアウトスキークラブ代表。マウンテンバイク選手、クロスカントリースキー選手。飯山南高校時代は2年でインターハイリレー優勝、3年で個人戦2位、リレーで2位入賞。卒業後は北海道札幌市の真駒内駐屯地にある陸上自衛隊冬期競技教育隊に所属し、ワールドカップを転戦する。全日本優勝、FISランキング国内4位、2009年長野かがやき国体で優勝。2007年よりMTBのクロスカントリーレースに参戦し、2009年にダイワ精工(現・グローブライド)と契約。2012年JCF MTBジャパンシリーズ(※3)総合優勝、2013年シリーズ2連覇を達成、2014年全日本選手権3位。本年度より、ブリヂストンアンカーサイクリングチーム所属。

山田琢也さん
1978年、長野県木島平村生まれ。トレイルランナー、クロスカントリースキー選手、スキーアーチェリー選手。飯山南高校、同志社大学でクロスカントリースキー選手として活躍。インカレで個人戦6位、スプリントリレーで全国優勝。その後、スキーアーチェリーの選手としてドイツへ留学。2007年ロシアで行われた世界選手権にて個人戦の金メダルを獲得する。帰国後、トレイルランニングレースに本格参戦。2010年日本山岳耐久レース3位、2011年斑尾フォレストトレイル50km優勝、2012年美ヶ原トレイルランinながわ70k優勝など。2014年冬季国体クロスカントリースキー3位、フランス・シャモニーで開催されたスカイランニング世界選手権80kに出場。

 

NPO法人インサイドアウトスキークラブ 公式サイト
http://www.jf-d.com/~insideout/
木島平の宿 スポーツハイムアルプ(撮影協力)
http://www.pal.kijimadaira.jp/~alp/

※ 注釈
1)スキーアーチェリー
例えば、男子12.5kmスプリントの場合、2.5kmを走った後にシューティングレンジに入って4射打ち、1射外すごとに250mのペナルティループを走る。これを5周回行う。
2)冬季戦技教育隊(通称:冬戦教/とうせんきょう)
冬季近代2種(バイアスロン)やクロスカントリースキーの教育訓練を行う特別体育課程教育室、積雪寒冷地における教育訓練を担当する戦闘戦技教育室、積雪寒冷地の部隊運用などの研究を行う調査研究室のほか、これらの管理・支援を行う隊本部からなる陸上自衛隊唯一の冬季教育専門部隊。所在は北海道札幌市の真駒内駐屯地。
3)JCF MTBジャパンシリーズ
日本自転車競技連盟(Japan Cycling Federation)が主催するマウンテンバイクレース。年間シリーズとしてクロスカントリー、ダウンヒル種目がある。