『山物語を紡ぐ人びと』vol.15〜 宮原徹さん(スカイランナー/トレイルランナー)
〜 DogsorCaravam.com × GRANNOTE interview 〜
揺るぎない存在感を放つ、スカイランニングの帝王
スカイランニングの王者、宮原徹さん。研ぎ澄まされた肉体と強い精神力、国内では負けなしの圧倒的な存在感で、多くの選手が憧れるトップアスリートだ。8月2日(日)に開催された第40回『富士登山駅伝競走大会』(自衛隊の部)では、5区(43分42秒/区間記録)と7区を走り、所属する御殿場滝ヶ原自衛隊を2年ぶりの優勝へと導いた。
そんな宮原さんの素顔、日常を私たちはあまり知らない。知る機会も少ない。ずっと、そう感じていた。
今回、『山物語を紡ぐ人びと』のスペシャルコラボレーションとして、国内外のレース事情に詳しく、アスリートからの信頼も篤いDogsorCaravam.comの岩佐幸一さんをメインインタビューアーに迎え、フォトグラファーの小関信平さん、GRANNOTE千葉の3つの視点で、宮原さんの魅力に迫ろうと考えた。
7月中旬、滝ヶ原駐屯地。
そして8月2日、『富士登山駅伝競走』にて。
はじめから、登りが強かった
—–山を走り始めた頃のことについてうかがえますか。
宮原:本格的に山を走り始めたのは、滝ヶ原自衛隊に赴任した2005年からです。それまで、とくに登りが得意という意識はありませんでしたが、『富士登山駅伝競走』の練習で監督に登りの強さを見出されました。なぜ得意なのか、決定的なことは自分でもよくわかりません。ただ最初からそのキツさが楽しく、嫌ではありませんでした。斜度が厳しくなるほどワクワクし、その傾斜、山に挑みたい気持ちになります。
岩佐:もともと陸上の長距離選手として活躍されていましたよね。
宮原:陸上は中学から始めました。小学校ではバスケット部に所属していて、走ることは好きではなかったんです。中学では体操部に入部しようと決めていたのですが、ちょうど廃部になってしまい、仕方なく陸上部に入りました。ですから最初は練習が嫌いでしたね。中学2年になって新しい指導者と出会い、徐々に成績が上がって、自己記録を更新していくことが喜びに変わり始めました。
ちょうどその頃、地元の長崎県大村市にある郡岳(826m)に登る練習をして、とてもワクワクしたんです。頂上から自分が住んでいる町を見下ろした時の感動と清々しさは、いまでもハッキリと覚えています。これが山を走る原点といえます。
中学3年になると、3000mの県ランクで10位以内に入るまでになりました。そして強豪高である隣町の諫早高校に進学することになりました。3年間、実家から離れて下宿して、練習に明け暮れる日々を過ごしました。高校3年の時に県駅伝で優勝し、全国高校駅伝ではエース区間一区を走りました。
—–高校時代にも山を走られることはあったのですか。
宮原:1学年上にマラソンランナーの藤原新さんがいて下宿先が同じだったので、一緒に近場の山へ出かけたりしていました。まだトレイルランニングという言葉がなかった時代ですが、山を走ることが練習の一環になっていたようです。木々に囲まれた山にリラックスを求めて、自然に足が向いていた気がします。
岩佐:卒業後の選択肢もいろいろあったのではないですか。
宮原:拓殖大学と山梨学院大学から誘っていただいたのですが、箱根駅伝に対してとくに魅力を感じなかったのです。競技中心の生活の中で、「まだ本当に走りたいのか」という自問もありましたし。そして、叔父が自衛官だったこともあり自衛隊に入りました。半年間の新隊員教育を受け、次に目標としたのが自衛隊体育学校でした。入隊する時には体育学校に行こうとは決めていませんでしたが、次第に「まだ走りたい」という思いが強くなっていきました。
岩佐:大先輩には東京オリンピックの銅メダリストの円谷幸吉さんもいらっしゃいますし、環境としては恵まれていますね。
宮原:そうですね。2002年4月に自衛隊体育学校所属になり、約3年間、朝昼晩と陸上競技に専念する生活を送りました。ここではオーバーワークによる故障が絶えず、高校時代の自己記録は更新できたものの、目立った成績を残すことはできませんでした。ただ、故障との向き合い方や身体の仕組み、栄養学などを学ぶことができ、たくさんの方々との繋がりもできたことに感謝しています。
一方で、結果が求められるため、常にプレッシャーと闘っていました。そろそろ自衛隊体育学校を辞めて、地元長崎の部隊に戻ろうかなと思っていた時、当時、滝ヶ原で指導していた上村正宏監督から声をかけていただき、2005年3月に滝ヶ原自衛隊に赴任しました。
岩佐:山の才能を見いだされたわけですか。
宮原:いえ、そういうわけでもないんです。地元に帰るのだったらうちで富士登山駅伝に出ないかという感じで。1〜3区がロード区間なので、僕はそこを走るのだと思っていたのですが、新人養成のトレーニングで山の適正を見いだされた感じです。
岩佐:その翌年、初出場した『富士登山競走』で2時間32分という当時のコースレコードをたたき出しましたね。
宮原:当時の滝ヶ原駐屯地はとても駅伝が強かったので、僕が出なくても勝てるくらいのチーム力でした。それで『富士登山競走』に出させてもらいました。
岩佐:いきなり大会記録を出してしまうというのは、よほど適正があったのですね。
宮原:登りに関しては、練習して強くなったわけではないんです。
異次元の走り、キリアンの背中を見て
岩佐:最近は海外での挑戦に力を入れていらっしゃるようにお見受けします。国内レースはやりつくした感があるのでしょうか。 実際、宮原さんに勝てる選手がいないのは事実だと思うのですが。
宮原:実は国際大会を除いては優勝しかしたことがないんです。でも一番の理由は、富士登山駅伝に焦点を当てていることにあります。富士登山駅伝で優勝することはチームの絶対的な目標であり、部隊の目指すところでもあります。そして、地域の期待に応えたいという想いもあります。
実をいうと、この大会以上にプレッシャーを感じるレースは経験したことがありません。それくらい大事な伝統ある大会です。万が一、自分が怪我をしてしまったら、チームメイトに迷惑がかかってしまいます。僕は怪我をしやすく、長い距離になるほどリスクも高くなるので、最近はバーティカルレースを選んで体の負担を減らすようにしています。出走したいレースはいくつかありますが、絞っています。チームと一緒に闘うことは自分自身の刺激にもなり、モチベーションにもなっていますね。
岩佐:2012年の第一回STYで優勝されたとき、「90kmのレースは初めてだし、今後もあまり走ることはないだろう」とおっしゃっていました。その頃からバーティカルを極めたいというような思いがあったのでしょうか。
宮原:そうですね、極めたいという思いはあります。自分が一番、勝負できる距離なので。ただ、当時はまだ国内にバーティカルレースはなかったので、一度は長い距離に挑戦してみたいという思いもあり、STYに出場しました。
岩佐:やはりキリアン(トレイルランニング、スカイランニング界で不動の地位を誇るスペインの選手、キリアン・ジョルネ)を意識していますか。初めて一緒に戦ったのは2007年『OSJおんたけスカイレース』で、2012年には『キナバル山 国際クライマソン』でキリアンが1位、宮原さんが3位に入賞されていますが。
宮原:2009年と2011年にも一緒に走っています。自分の中では、2009年のレースが最もキリアンの背中が見えるポジションで走れたレースでした。山頂の折り返しが49秒差だったので、勝てるんじゃないかと思ったのです。
岩佐:手応えを感じたわけですね。
宮原:登りなら勝てるかもしれないという感触を得ました。それ以外にも2013年の『ゼガマ スカイレース』、2014年の『スカイランニング世界選手権 バーティカル』『ローンピーク・バーティカルキロメーター』を含めて全部で7回、一緒に走っています。これら全てのレースでキリアンは優勝しています。
このうち5つのレースは彼の走りを真後ろで見ながら走りましたが、異次元でした。以前はキリアンに勝ちたいと言っていましたが、彼の実力を間近で見るほど、容易に勝ちたいなどと口にしてはいけないと気づきました。もちろん、心の底では勝ちたいという想いはあります。
岩佐:彼は長いレースも短いレースも得意ですからね。
宮原:そういうところがすごいわけです。バーティカルで優勝した直後に、ウルトラトレイルでも優勝してしまう。その逆もあります。特に下りがすごい。日本人であんなに出来る人はいませんね。
激戦を制した『パイクス・ピーク・マラソン』
岩佐:2012年、アメリカ・コロラド州の伝統ある山岳レース『第58回 パイクス・ピーク・マラソン』(42km)で優勝されました。とてもドラマチックなレース展開でしたね。
宮原:足底筋膜炎だったので、勝ちに行ったレースではなかったんです。登りだけトップに立ちたいと考えていたのですが、1位と1分ちょっとの差で折り返して。足が痛いので抜かれることを覚悟していたところ、下りで監督から「前と詰まっているぞ」と声がかかりました。そこで1位の選手を抜いたら、今度は違う選手が追ってきて、ラスト2kmで並ばれたんです。足は痛かったのですが、体力的には余裕があったのでついて行き、最後のロード800mくらいでスパートして勝ちました。運が良かったですね。ここまでの接戦は記憶にないです。
岩佐:現地でもかなり話題になっていました。2位のアレックス・ニコルスは2015年『モンブラン・マラソン80k』で優勝しています。力のある選手と競り合って勝ったわけですね。今年は、同大会のアセント(登りのみ)のカテゴリーにチャレンジするとうかがっています。
宮原:2月末に座骨神経痛を発症してから、いまも痛みがある状況で練習していますので、無理はしないようにと思っています。
岩佐:登りを意識した練習をされているのですか。
宮原:富士登山駅伝までは山が中心で、10月くらいからロードのシーズンが始まります。
岩佐:日頃、自衛隊の若手アスリートから相談などを受けることはありますか。
宮原:あります。自分が持っている知識は全部教えますし、隠すことはないですね。今年、第一回目が開催された『多良の森トレイルランニング』(長崎県)で優勝した川崎雄哉選手は大村市の自衛官なのですが、才能があるなと思います。3333段の階段を駆け上がる大会『白龍走』をすすめたところ、優勝しました。彼のような強い後輩がどんどん出てきてくれたら嬉しいですね。登りで競り合える選手が出てきてくれたらと思います。
岩佐:バーティカルでは、国内で宮原さんに続く人はなかなか出てきません。そのあたりはどのように感じておられますか。
宮原:個人的には、上田瑠偉君にぜひ短い距離でチャレンジしてもらいたいと思っています。『富士登山競走』にも出て欲しいですし、今年の『ウルトラトレイル・デュ・モンブラン』のCCCへのチャレンジや来年の世界選手権での活躍も楽しみです。また、松本翔選手がトレイルのジャンルに参入してきたのも気になります。今後、市民ランナーのトップ選手がトレイルに入ってくれれば、国内の状況も変わってくると思います。
アスリートとして気を配っている食事
—–自衛官として走ることについて、宮原さんご自身はどのようにお考えなのでしょうか。
宮原:自衛隊には「三戦技(さんせんぎ)」という言葉があります。走ること、格闘、銃剣道の3つを指していて、どの部隊でも重要視しています。自衛官は常に体力があることが期待されていますから、鍛えるべきところは鍛えなければなりません。その中で自分は陸上競技に力を入れているという考え方です。また、地域の方々に走りを通して自衛隊をアピールしていくことも仕事のひとつだと思っています。やはり体力があれば皆さん安心されますから。
—–なるほど、ありがとうございます。今日は富士山での練習を拝見しましたが、日常はほかにどんなトレーニングをされていますか。
宮原:出勤前と勤務後の自宅周辺でのランニングが主で、あとは週末のトレーニングです。箱根の金時山や富士山周辺で2時間くらい、登りで追い込んで下りはのんびりというパターンが多いですね。この時期になると、自宅近辺の林道などキノコが生えやすいコースを走るのも楽しみのひとつです。
月間走行距離は300km〜500kmで、そのうち2割くらいが山の練習です。富士登山駅伝などの主要大会については部隊で約1ヶ月の練成期間をいただき、富士山御殿場口、富士登山駅伝のコースを中心に走り込みます。
岩佐:宮原さんはキノコ博士として有名ですね。キノコ好きになるきっかけは何かあったのですか。
宮原:滝ヶ原に赴任してすぐの頃、たまたま天然のキノコを食べたら美味しくて興味を持ちました。図鑑を揃え、ネットで調べたりしているうちに知識も増えていったのです。キノコだけでなくて、自分は食べたことがない食べ物に興味があるんです。マレーシアでは果物をいろいろ試しました。
岩佐:僕が以前、北丹沢で開催された練習会に参加した時にも、走りながらキノコを見つけて袋に入れていらっしゃいました。
宮原:シーズンになると、自然と視界に入ってくるんですよ(笑)。
——アスリートとして、食事で気をつけていることがあれば教えてください。宮原さんが普段どんなものを召し上がっているのか、想像しにくい方が多いのではと思います。
宮原:バランスよく食べることと、食べる順番に気を配っています。野菜、メインのおかず、最後にお米を食べるという流れです。その方が体にエネルギーが吸収されにくいといわれているからです。ある程度、絞った体をつくりたいのですが食べる量が多いので、順番を工夫しています。魚や肉は生がいいと聞いたので、お刺身をよく食べますし、そのほか馬刺しも食べたりします。
—–ずっと、こうした食事を?
宮原:順番を気にするようになったのは、ここ2年くらいです。酵素を効率的に使ったり、血糖値を上げにくくしたりするために、野菜やフルーツを先に食べます。おかずの品目が多くなってしまうので、妻はちょっと食事の準備が大変だと思いますよ(笑)。
お昼ご飯には、豆腐と納豆とサラダ、お米をお弁当として持って来ています。夜は好きなものを食べますね。チョコやアイスも食べたりします。チョコはハイカカオのものを選んで、アイスは300kcal以内のものに抑えています。カロリー表示を見て、それを越えていると「これはちょっと止めておこう」と(笑)。お酒はあまり飲めないので、乾杯くらいですね。
—–ご自宅での休日は、どのように過ごされていますか。
宮原:家族で買い物に出かけたり、庭の手入れをしたりすることが多いですね。とにかく植物が好きで、家の中は観葉植物だらけです。
とくに春から夏にかけて、成長が目に見える時期を毎年楽しみにしています。今年はミニトマトのプランター栽培にも挑戦して、予想以上に実がなったので、来年は他の野菜にも挑戦しようと思っています。
—–以前、海外レースにお嬢さまが同行されている写真を拝見しました。競技を続けるにあたって、ご家族のサポートは大きいのではないでしょうか。
宮原:娘を連れて行ったのは2013年の『キナバル クライマソン』です。一度は世界の舞台で戦う姿を見せたかったのと、小さなうち(当時、小学2年生)に他国の文化に触れることが大人になってきっと役に立つと思ったからです。3位に入り、娘と一緒に表彰台に上がったことは最高の想い出になりました。
家族にはいつも応援してもらっています。練習や大会で週末、家にいないことも多いですし、ランニング用品やサプリメント、身体のメンテナンスなどの費用もかかります。また毎日の栄養バランスを考えた食事も必要になります。いろいろなことで苦労をかけてしまっていますが、僕が競技を続けるにあたって常に背中を押してくれる存在です。家族の支えなしに今の自分はありません。本当に感謝しています。だからこそ、結果で恩返ししたいと思っています。
思い描くスカイランニングの未来
—–日本のスカイランニングシーンをどのように見ていらっしゃいますか。また、スカイランニング界の後輩でもある松本大さんの印象についてもお聞かせください。
宮原:大くんがJSAを立ち上げ、スカイランニングも少しずつ全国に知られるようになり、興味を持つ人も増えてきました。彼の影響力は大きく、彼なしではここまでスカイランニングは注目されなかったと思います。体一つで欧州に乗り込みスカイレースを転戦し、そこで見て得たものを日本に持ち帰り、彼流にアレンジして再現する。相当な情熱がないと出来ることではありません。彼の行動力にはいつも驚かされ、尊敬の念を抱いています。
スカイランニングは競技性の高いスポーツです。距離が短くなればなるほど、その傾向は強くなります。陸上競技から入った僕の考えでは、ウルトラトレイルをフルマラソンとするならば、スカイランニングはトラック種目の5000m、10000mを連想させます。
海外では、マラソンランナー、クロスカントリースキーヤー、山岳スキーヤー、マウンテンバイカーなど異種目の選手がスカイランニングに挑戦していて、『上田バーティカルレース』でも同じような現象が見られました。女子ではクロカンスキーの選手が優勝し、男子でも有名なクロカンスキーヤー、マラソンランナーやロードレーサーがエントリーしていました。このように、他種目のスポーツ選手が競いあえるのもスカイランニングの魅力の一つだと思います。
—–確かに、山岳系スポーツを中心に、他のスポーツとの親和性が高いように感じます。
宮原:スカイランニングは可能性を秘めたスポーツです。これからさらに発展するためには、子どもの頃から体験することが重要になるでしょう。ジュニア世代を育てることが、未来のスカイランニングシーンを明るくすると思っています。ジュニアが気軽に参加できる大会が全国的に増えることが大切ですね。
ウルトラトレイルに移行することはない
—–世界のレベルが急速に上がっている中、宮原さんからご覧になられて、日本の選手に足りないこと、強化すべき要素はどんなことだと思われますか。
宮原:キリアンは別格として、海外のアスリートは自分が得意なコースで、なおかつ自分が一番、実力を発揮できる距離で勝負しています。日本人が海外で戦うためには、幅広い分野(距離)を万遍なくこなすのではなく、自分が最も力を発揮できる距離に絞って練習し、その分野を極めることが重要です。
例えば僕は登りが得意で、ショートからミドルレンジで最高のパフォーマンスを発揮できます。だから、無理してロングに移行しようとは考えていません。また、若い選手はショート、長くてもミドルの距離でスピードやテクニックを磨いて欲しいと思います。海外の強豪と戦う為にはスピードは不可欠なのです。
—–先ほども名前の上がった上田選手への期待も高まっていますね。
宮原:僕が彼くらいの年齢なら、バーティカル~40km以内のレースに絞り、スピードや下りのテクニックをさらに磨くでしょう。世界のスカイランニングは年々スピード化し、層も厚くなっています。世界に遅れをとらないためにはスピードと下りのテクニックは必須です。20代前半の若手選手にはとても期待しています。どんどん世界に出て、経験を積んで強くなってほしいですね。
岩佐:いま、世界に通じるアスリートは宮原さんしかいないのではないかと思います。ファンとしては、もっと世界での活躍を見てみたいという気持ちもあります。これから年齢を重ねてウルトラトレイルに移行したり、指導者として力を発揮したりといったお気持ちはありますか。
宮原:ウルトラに移行しようとは思っていません。短いカテゴリーで勝負して、走れなくなったら現役としては一区切りかなと考えています。いろいろな距離を経験してみて、バーティカルが一番楽しいし、やりがいもあるからです。スピードがなくなったからといって長距離に移行するということはないです。
—–最後に、宮原さんが思い描くご自身の3年後、10年後の姿をお聞かせください。
宮原:3年後の個人的な目標としては、まず現役であること、そして多くのスカイランナーから目標にされる選手であることです。職業柄、いつどの大会に出場できるか前もって決めることはできませんが、出場すると決まった大会は全力で挑みます。
10年後についてはまだ想像できないし、明確な目標は立っていません。現役は退いても走ることは続けていると思います。中学生からずっと走ってきているので、走らない自分は想像できないのです。その頃には日本のスカイランニングも、いまの欧州並みに盛り上がっていることを期待したいですね。そして、微力でもスカイランニングの発展の手助けができればと思っています。
【 profile 】
宮原徹さん
1982年、長崎県生まれ。中学時代から陸上の長距離選手として活躍。陸上競技の名門、長崎県立諫早高校では全国高校駅伝に出場。自衛隊体育学校を経て、現在は御殿場市にある陸上自衛隊 滝ヶ原駐屯地に勤務。日本を代表するスカイランナー、トレイルランナー。
主な戦績は、2011年『富士登山競走』優勝(2時間27分41秒/自ら持つ大会記録を更新)、2012年『STY』優勝、『東丹沢宮ヶ瀬トレイルレース』優勝、『ハセツネ30k』優勝、2013年『パイクス・ピーク・マラソン』(アメリカ・コロラド州)優勝、2014年『道志村トレイルレース(ハーフ)』優勝/コースレコード、『スカイランニング世界選手権バーティカルKM』(フランス・シャモニー)5位入賞、『スカイランナーワールドシリーズ バーティカルKM』(アメリカ・モンタナ州)3位入賞。2015『上田バーティカルレース』優勝、『経ヶ岳バーティカルリミット』優勝。
Place:GOTEMBA,SHIZUOKA
Main Interview:Koichi IWASA / DogsorCaravan.com
Photograph:Shimpei KOSEKI
Editorial&Text:Yumiko CHIBA