
子育てをしながら、自分なりのペースで競技に取り組んでいるトレイルランナーの福田恵里佳さん。自衛隊に所属していた20代の頃にトレイルランと出合い、結婚と出産を経て、再びレースに出場するようになった。2025年春に開催されたKAI70k(Mt.FUJI100の1カテゴリー)では8位に入賞、2024年10月には日本代表として第1回アジア太平洋トレイルランニング選手権に出走し、15位の成績を収めている。
とりわけ印象に残っているのは、2022年信越五岳トレイルランニングレース110キロでの優勝だ。信越五岳では決められたエイドで私的サポートを受けたり、レース後半からのペーサーをつけたりできるが、恵里佳さんはノンサポートで見事1位を勝ち取った。きびきびとしたエイドワークに自己完結型を好む恵里佳さんのスタンスが垣間見えた。
長らく取材させていただきたいと思い続けてきて、ようやく今年の春にご自宅のある河口湖にお邪魔する機会を得た。トレイルランナーではご存知の方も多いと思うが、夫はMt.FUJI100のオーガナイザーであり、医師でランナー、ミュージシャンの福田六花さん。多忙な夫のサポート、3人のお子さんの子育て、父が営むキッチンカーの手伝いをしながら、恵里佳さんは暮らしのなかでどうトレイルランと向き合っているのか。
毎朝10キロ走り、月1度の山練は夜中に
2013年の結婚を機に、恵里佳さんは河口湖に移り住んだ。双子のお子さんが生まれると、それまで故郷・広島で喫茶店を営んでいたご両親も河口湖に移住し、近くで暮らすようになった。
福田家が暮らすスウェーデンハウスは、河口湖が望める高台に建っている。現在、介護老人保健施設はまなすの施設長を務める夫の六花先生が、独身時代に選んだ場所だという。六花先生はMt.FUJI100のオーガナイザー以外にも、山梨や新潟、京都などでいくつかのレースをプロデュースしていて、大会の準備が始まると、敷地内に建つゲストハウスにたくさんのボランティア仲間が集い、泊まり込みで作業を行う。とにかく来客が多い家なのだ。
慌ただしい毎日を送る恵里佳さんの日々のトレーニングメニューは完全なルーティン。毎朝、夜が明ける前の3時か4時に起床して10キロ走る。走り終えて帰宅すると双子のお子さんを起こし、朝ご飯を食べさせてからスクールバスの停留所まで送っていく。家に戻ると、今度は4歳になる次男を起こして朝ご飯を食べさせ、幼稚園へ連れていく。それからキッチンカーの開店準備をし、午後になると車を1時間ほど走らせて小学校まで双子の子どもたちを迎えに行き、その後、幼稚園に次男を迎えに行く。

これだけスケジュールが決まっていると、自ずと走る時間は限られてくる。それでも、本当に10キロランだけで入賞できるのかと誰もが疑問に思うらしく、よくラン仲間からも練習メニューを尋ねられるという。
「本当にそれだけなんです。ひとりで山に行くタイプではないので、山に行くのは誰かに誘われたときだけ、月に1回か2回くらいです」
山での練習はかなりハードだ。家族が寝ている夜中に出発して仲間と集合し、朝方までに下りてきて解散するスケジュール。ハセツネ優勝者でTJAR完走者の山岳アスリート星野緑さんやLAKEBIWAで4位入賞の渡邊ゆかりさんなど、子育てをしながら競技に向き合う強靱な女性ランナーたちと集まるのだという。ほかにも、山梨在住で自衛隊に所属するTJAR完走者の武末伸也さんと自宅裏の山を走ることもある。これも夜中からスタートして、明け方までに下山してくる。
「女性陣で山に行くときはみなさんが練習場所を決めてくれるので、私はとにかく指定された場所に向かうという感じです。それぞれ居住地は離れているんですけど、南アルプスに行くことが多いですね」

高校時代はサッカーで広島県代表に
広島に住んでいた中学時代はバスケ部に所属していた。部活の種類が少ない学校だったことから、よくマラソン大会や水泳大会にも選手として出場したという。
「本当はソフトボールがやりたかったんですけど地元の中学には部活がなかったので、地域の大人たちの草野球チームに混ぜてもらっていました」
九州のソフトボール強豪校への進学も夢見ていたが、県外に出るのは現実的ではなかったことから、「それなら高校ではマイナースポーツに取り組もう」と考えていたとき、学校の先生からハンドボールの強い山陽女子高等学校(現・山陽女学園高校)を勧められて入学する。ところが、恵里佳さんが入学した途端にハンドボール部が廃部に。結果、女子サッカー部で活動することになった。
「時代としては、なでしこジャパンが誕生するかしないかという頃でした。県内には女子サッカー部を持つ高校が5つくらいしかなかったこともあり、高校2年のとき県代表に選ばれ、全国大会に出場しました。ポジションはディフェンスです。後方センターバックでした」
中学、高校と多様なスポーツに取り組んできた恵里佳さんがだが、子どもの頃から運動能力に長けていたのだろうか。
「そうでもないんです。2歳上に兄がいて、兄の友だちたちと一緒に遊んでいた影響でスポーツ好きになったのかもしれません。私と違って兄は運動神経がよくて、なんでもすぐにできるタイプ。一方で私はなかなか上手くならなくて、しつこく練習していくタイプでした。器用ではなかったから、逆に続いたのかもしれません」
高校卒業後は東京女子体育大学へ進学する。実は受験前、まだ野球への想いが断ち切れずにいた恵里佳さんは、全日本女子公式野球チーム「エネルゲン」の選手選抜に挑戦していた。広島から一人で夜行バスに乗り、東京の千歳烏山で選抜試験を受けたが、本格的に野球に取り組んでいる他の生徒たちと比べて、自分の力が足りないことを痛感したという。そんな経験もあって、大学でもサッカーを続けることにした。
膝の怪我を機に、ひとり走り始めた
体育大学の授業はどんなものなのだろうか。
「教員志望者が多いので、全員で受ける必修科目がメインです。もともと音楽や体操に力を入れてきた学校だったこともあって、苦手なダンスもあったし、レオタードを着る新体操もあったりしましたね」
全国各地からスポーツエリートが集まってくるため、とにかく実技レベルが高かった。得意なジャンルで結果を出してきた個性の強い学生が多く、恵里佳さんは圧倒されてしまう。
そんななか、部活のサッカーで膝の前十字靱帯の怪我をしてしまった。怪我をきっかけに、1年の終わりでサッカー部を退部し、それからはバイトに励みつつ、ひとりで多摩川を走るようになる。

自衛隊という選択
大学卒業後の進路として、自衛隊が視野に入ってきたのは3年生の頃だ。就職活動の一環として予備自衛官補の試験を受けて合格し、50日間の訓練を受けた。この訓練は自衛官になって受ける3ヶ月の訓練と同じ内容で、日当も出た。
「基本教練と呼ばれるもので、通常の敬礼や銃を持ったときの敬礼にはじまり、徐々に戦闘訓練に入って、匍匐前進や射撃の訓練などを行いました。銃は弾倉なしで4.3キロあり、ヘルメットも1キロくらいあるんです。水筒も水を満タンに入れるので、フル装備だとかなりの重さになります」
大学受験時にも同時に自衛隊を受験していたが、不合格だった。いまは志望者が減少傾向にあり、だいぶ入隊しやすくなったというが、当時、女性は狭き門だったという。なぜ自衛隊に興味を持ったのだろうか。
「単純な理由ですよ。子どものときに『G.I.ジェーン』(1997年米国)の映画を観て、格好いいなと憧れたからです。それと喫茶店を営んでいた両親から、仕事の安定という意味では公務員がいいとも言われていたので。大学では体育の教員免許も取得したんですけど、体育の先生になると指導する側で自分はあまり身体を動かさないですよね。身体が動かせる仕事がいいなと思って、自衛隊を選びました」

大学を卒業した2008年、正式に自衛隊に入隊する。ちょうど第一期一般陸曹候補生という制度ができたばかりだった。朝霞駐屯地にある女性自衛官教育隊で3ヶ月、女性だけの訓練を受けた後、職種に分けられ配属が決まる。恵里佳さんは運転が好きだったことから、輸送課を第一希望にした。配属されたのは幹部などを育成する教育施設で、東富士演習場で行われる有事対応の演習の支援をする部署。さまざまな階級の隊員が集まる訓練を支援した。
「1週間から2週間のスパンで有事に備えた訓練を行います。輸送課は戦闘部隊ではなく後方支援なので、夜間に陣地をつくったり、弾薬を運ぶ最中に襲撃された際のシミュレーションを行ったりします」
経験したことのない筋肉痛でトレイルランにはまる
輸送課では、さまざまな免許取得が義務づけられていた。牽引免許を取りに行った際、たまたまトレイルランを趣味にしている隊員と一緒になり、「走っているならトレイルランをやってみたら?」と誘われる。さっそく装備を揃えるために、上野や神保町の登山用品店に案内された。グレゴリーのルーファス(トレイルラン用ザック)やスポルティバのトレイルランシューズを勧められて購入する。
初めて出場したレースは、2010年夏の北丹沢12時間山岳耐久レース(通称:キタタン/2019年まで開催されていた人気レース)だ。事前の練習は、大学1年のときから続けていた10キロのランニングと、自衛隊の訓練で行っていたランニングのみだった。
「マラソンも走ったことがなかったんですけど、なんだか面白そうだと思って出場しました。その当時は、いまほどトレイルランのレースも多くなかったんです」
何を携帯したらよいかわからず、自衛隊の訓練でよく食べていたチョコレートを選び、溶かしてしまう。途中で水も足りなくなり、一緒に走った隊員から分けてもらった。結局、予想よりも時間がかかって、8時間半ほどでゴールする。想定外にきつかった経験が、トレイルランにのめり込むきっかけになった。
「帰りの高速道路のパーキングエリアで、しゃがめないくらいの筋肉痛を味わったんです。あとにも先にもあれほどひどい筋肉痛を経験したことはありません。それですっかりはまってしまいました。多分うまくできなかったから、はまったのだと思います。もっと工夫すればなんとかなるんじゃないかと。勘違いですね(笑)」
その後、ネットでレースを探し、OSJシリーズ(パワースポーツが主催するシリーズ戦)に出場して年代別で入賞するようになる。この頃のレースでとくに思い出深いのは、2012年に出場した信越五岳トレイルランレース110キロでの準優勝だ。それからちょうど10年後の2022年に再び出場して、優勝することになり、どこか運命的なものを感じている。
「2012年の信越五岳は初めてのロングレースでした。それまで最長で16キロくらいしか走ったことがなかったので完走できるかわからなかったんですけど、当日はなぜか走れてしまいましたね。長い距離に慣れていなかったのでジェルも摂らず、エイドでもほとんど固形物を食べなかったせいか、途中でハンガーノックになり手が痺れてきたんですけど、気のせいだと思って走り続けました」


野生の勘で走るタイプ
自分はどういうタイプのランナーだと思うか、尋ねてみた。
「ペースがわからないんですよ、私。ぜんぶ根性だと思って走っているので(笑)。他のランナーみたいに科学的な分析とかできなくて、本当に適当なんです。レースで頼るのは根性だけ。自分が走らなければゴールできないから、一歩一歩前に行くだけです」
しかも、恵里佳さんは時計も見ないという。これまで私が取材してきたトレイルランのトップアスリートのなかで、意識的に時計を見ない選手は二人目だ。信越五岳で優勝したときも、ランニング用のGPSウォッチを着けていたものの、買い換えたばかりで操作がわからず、ナビしか表示できなくて時間がわからなかった。仕方なく、途中のエイドでスタッフに「いま何時ですか?」と尋ねた。
「だから事前にタイムスケジュールとかも組んだことはないんです。計画どおりにいかなかったとき、マイナスの気持ちになるかなと思って」
では、どのようにゴールの想定タイムを割り出しているのだろうか。
「感覚です。歴代のトップ選手のタイムを参考にして、これくらいなら行けるかなと適当に走っているだけです、野生の勘というか。そんな感じですから、デポバッグの中身も前日にぱーっと決めるくらい適当です」
ただ、自分のなかでひとつのルールを決めているという。それは「エイドでは水だけ補給する」ということ。スピードに自信がないからこそ、エイドでの滞留時間を短くしようと努力している。

普段からあまり食事をたくさん食べないこともあり、レースでの補給量も極端に少ない。たとえば信越五岳で優勝したときには、14時間38分のレース中に摂ったジェルは5個か6個ほど。身体の声を聞きながらペースを調整し、走れそうなときにはプッシュし続ける。気をつけているのは水分。どれくらいの水分が必要かわかるように、エイドとエイドの間の距離だけ手に書いておく。
あっという間に決まった結婚
2012年の信越五岳で準優勝したあと、重い貧血になり、しばらくレースから離れた。その間、レースボランティアをしようと、キタタンの大会オーガナイザーに申し出たところ、救護リーダーだった福田六花さんの手伝いを任される。このときのキタタンは猛暑で、ドクターヘリが二度も飛んだ。
その後もキタタン関連の大会で救護ボランティアを続けていたところ、六花先生が関わるランニングイベントの手伝いを依頼される。ちょうどその頃、恵里佳さんは自衛隊を辞めようか迷っていた。入隊から7年ほどが経ち、三曹(三等陸曹)に昇級していたため、定年まで自衛隊に所属することができる。しかし心のなかに「何か突拍子もないことにチャレンジしてみたい」という思いがあり、退職してアドベンチャーレースに挑戦しようかとも考えていた。
イベントで、六花先生に自衛隊を辞めようか迷っていることを話すと、「それなら俺のところに来ないか」と言われる。それがプロポーズの言葉だった。
「最初、私もよくわからなかったんですけど、そういう意味だったらしくて。当時の六花先生の印象ですか? そうですね、真面目な感じの人だなと思っていました。でも年齢も知らなかったくらいで、あとから21歳も年上であることを知って驚きました」
プロポーズから半年後の2013年クリスマス、恵里佳さんが27歳のときに結婚する。六花先生が東京から移住するために建てた湖畔のスウェーデンハウスは、一人暮らしを想定したつくりだった。リビングは音楽スタジオも兼ねていて、楽器であふれかえっていたという。そこに少しずつ手を加え、結婚後の住まいとして暮らしやすいよう整えた。「これからは六花さんのサポートをしながらレースに出場することになるのかな」と恵里佳さんは漠然と思っていたという。走る場所として、河口湖は素晴らしい環境だった。
「引っ越してきた当時は友だちもいなかったですし、何もすることがなくて暇すぎて、毎日、河口湖を一周走っていましたね。それからいまに至るまで、六花さんに走ることについて何か言われたり、とがめられたりしたことは一度もありません」

2015年、双子が誕生する。切迫早産の危険があり、1ヶ月の入院を経ての出産だったことから、出産後は安堵感で嬉しくなり、すぐに長い距離を走り始めてしまった。すると筋力の衰えのためか膝に痛みが生じ、そこから1年ほど走れない日々が続いた。
膝の痛みが回復すると、再び競技に復活する。2018年にはNESチャンピオンシップ(北丹沢12時間山岳耐久レース、道志村トレイルレース、八重山トレイルレース、東丹沢トレイルレースのシリーズ戦)のタイトルを獲得した。翌年に次男を出産した後は、先の教訓を活かして、1キロずつ慣らしながら走る距離を伸ばした。
「子どもたちがよく寝てくれることもあって、家族が寝ている間に走ることができています。ちょっとひとりの時間も持ちたいので、走るのはちょうどいいんです」
限られた時間のなかで走り続け、競技に向き合う恵里佳さん。トップ選手だけでなく、市民ランナーであっても、仕事や故障などによって走る時間が確保できなくなると焦る気持ちが強くなったりするが、そういう心持ちになったことはないのだろうか。
「ないですね、基本的には主婦なので、競技でそんなに追い込まなくてもいいと思っているんです。私がレースで上位になったとしても、どうってことない話ですから。レースでも自分自身のペースで走れればそれでいいんです。自分が出し切ったと思えればいいというか。結婚前には『頑張れば、もうちょっと上までいけるかも?』と、成績を重視する気持ちが強くなったこともありましたけど、出産してからはそういう感覚はないんです。レースよりも家族の方が大事になってきて、レースは趣味だと割り切れるようになったのかもしれません」
レース前に「10位以内」というような自分なりの目標は立てるが、それにこだわりすぎることはないという。それに、と恵里佳さんは続けた。
「何位になろうと、人間はどうせいつか死んでしまうと、どこかで思っているんですよね」
誰でもいつか死んでしまうものだから
少し唐突な言葉に驚いて、理由を尋ねた。
そんなふうに考えるようになったのは、東日本大震災で被災地に入ったことが大きいという。人間はどういうかたちであれ、いつかは死んでしまう。だったら自分なりに、やれるだけやればいいんじゃないか。
「自分が死んだ後、このトロフィーはどうしらいいのかと思ったりもします。そこにあまり価値を見いだしていないというか。逆に走っていて辛いとき、どうせいつか死ぬんだから、いま苦しくても我慢しようと思ったりします」
東日本大震災の支援で、恵里佳さんの部隊が現地に入ったのは震災の2日目で、期間は3週間だった。岩手、宮城、福島の被災地で物資輸送の支援を行った。言葉にならない感情が溢れた。
「なんというか、無力というか。自分たちが何の力にもならないことを感じてしまって。津波で何もかもがぐちゃぐちゃになって、高速道路も緊急車両しか通れない状況でした。ガソリンスタンドにはガソリンがないのに、長蛇の車の列ができていました。そういう場所にあるガソリンスタンドには民間も物資輸送をしたくないということで、自衛隊がガソリンや燃料を運んでいました。放射能の数値を図る線量計が鳴り続けているんですけど、私たちだけ防護マスクを着用するわけにいかないですよね。だから私たちも線量計の電源をオフにしていました」
自衛隊では、津波の被害にあったご遺体の男女の識別も行っていたという。ブルーシートやドライアイスが足りなくなり、身元不明のご遺体を保管するのもままならなかった。支援中は6人用のテントを4人程度で活用して眠りについた。自衛隊のストーブは貸し出しているので、とにかく寒い。治安も悪化し、女性自衛官は一人でトイレに行かないよう指示された。
「空港から広い競技場まで物資を運んでいたときには、そこから先の避難場所まで運ぶ車両がありませんでした。運んでいた菓子パンなどの食料の賞味期限が切れてしまうので、私たちが食べていました。そんななか、自衛隊員がお赤飯を食べていたとお叱りを受けたりもしました。不謹慎だと」
震災を通して、人間のさまざまな素の部分に触れたと恵里佳さんは言う。この経験を通して、価値観が大きく変わっていった。
「死は、当たり前に起こることなんだなと思いました。死は身近にある。無駄に生きないようにしなければといまも思っています」
あらたに始めた富士山ガイドの仕事
2024年夏からはあらたに、富士山ガイドの仕事も始めた。富士登山をしている際にガイドが働く姿を見て、やってみたいと思ったのだという。たまたまトレイルランナーの知人がガイドをしていたことから紹介してもらい、7合目にある鳥居荘所属のガイドとなった。富士山ガイドは紹介制で、みなどこかの小屋に所属する必要があるのだという。
ガイドの仕事がある日は14時に五合目に向かう。16時頃から20人ほどのパーティに高地順応の指導を行い、先頭と最後尾にガイドがついて、3時間くらいかけて7合目まで登っていく。20時頃に鳥居荘に到着し、夕食を食べて2時間ほど仮眠。23時くらいに出発して、山頂でご来光を見て、10時半頃のバスに間に合うように下山するというスケジュールだ。
「五合目まで車を乗り入れるとお金がかかるので、私自身は馬返しから走っています。それがけっこうきつくて。トレイルランじゃないので荷物も重いし、登山靴を履いているしで、ものすごく汗をかきます。レストハウスに着いて着替えた後、今度はお客さんのペースに合わせてゆっくり登っていきます」
登山者のなかには脚が痛くなったり高山病にかかったりして、6合目でやめてしまう人もいる。そうした場合は、具合の悪くなった登山者をサポートしながら5合目のレストハウスまでゆっくり下りて、また登り返してパーティに追いつく。ほかにも離脱した登山者に別料金を払って他の小屋で休んでもらうこともある。いつもの自分とは異なるペースで山と向き合う、貴重な経験だ。
人にあまり期待したくない
恵里佳さんのお話を伺っていると、しっかりとした軸を持ちながら、状況に応じて臨機応変に対応しつつ、自分らしい暮らしをつくっているように感じる。競技や生活においての、何かポリシーみたいなものはあるのだろうか。
「なんでしょう? そうですね、私は人に待っていてもらうのが苦手で、レースでもサポートとかに気を遣ってしまうタイプなんです。自分が待つのは平気なんですけど、誰かを待たせるのが本当に苦手で。早朝に走っているのも、誰にも気兼ねなくできるからなんですけど、結局は自分がやりたいことに家族を巻き込んでいるのかもしれないですね」
それは自衛隊での経験にも由来している。自衛隊では「まず自分のこと」と言われ続けてきたからだ。自分のことができていないと、他者のことにも気を配れない。
「それに、私はあまり人に期待をしたくないんです。エイドサポートもそうですけれど『こうしておいて』と頼んで、それができていなかったとき、自分の責任だと思えない自分が嫌だからです」
家庭でも同じで、夫である六花さんにも家のあれこれについては過度に期待していないという。老健の仕事や大会運営のほかに、医療分野で数々の役職も担っている。トレイルランニング協会の会長にも就任し、とにかく多忙だからだ。そんな夫の姿を恵里佳さんはどう見ているのだろう。
「六花さんはあまり損得を考えて行動しない人だなと思います。自分だけいい思いをしようみたいなところがないというか。いまはトレイルランニング協会に力を尽くしていますけれど、正直にいえば、お金にならないことに力を入れているんですよね。世界選手権に帯同するときも、渡航費はもちろん自腹です。妻としては、それだけ時間やお金を費やすのなら、家族旅行もできるんじゃないかなと、ちょっと思ったりすることもあります」

憧れるのは「適当だけれど本当は適当でない人」
自宅から移動して、キッチンカーの準備を始める。コロナ禍で父が始めたキッチンカーでは、季節のフルーツパフェやドリンクを提供している。
「広島で喫茶店を経営していたときには、パスタやピラフなどの食事メニューがたくさんありました。父はそういうのが得意なので、本当なら食事メニューも入れたんですけど」
キッチンカーを始めたのはコロナ禍で新しく店舗を開くにはリスクがあったからだ。近い将来、自宅敷地内でカフェをオープンしようかと考えている。六花先生もトレイルランナーが気軽に珈琲を飲めるような、人が集まれる場所をつくりたいという夢を持つ。


恵里佳さんがつくってくださったパフェをいただく。大会に出店すると、ケルンのパフェはトレイルランナーに大人気だ。パフェを食べながら、ふと、こんな人になりたいというロールモデルはあるのかと尋ねてみた。
「あっ、あります。私、高田純次さんを目指しているんですよ」
思いがけない名前が飛び出す。
「私は本当に適当な人間で、ものごとはなるようにしかならないと思って生きているんですね。高田純次さんも適当な生き方を明言されていますけど、適当に見えて本当は適当じゃないですよね。そこに憧れています。『適当論』の本も読みました」
長い間、恵里佳さんのものごとに向き合うスタンスは何かに例えられる気がすると思い続けてきたが、上手く言葉として結べずにいた。
取材を終えて少し時間が経ち、いまこうして文章を書きながら、ようやく気づいた。それは「ものごとに執着しない」というふるまいだ。潔いけれど懸命で、そこにぞんざいさはない。自分に起こったものごとをありのままに受け入れる心のありようが、恵里佳さんの生き方を定めている。

Profile
福田 恵里佳 Erika Fukuda
広島県生まれ、山梨県河口湖在住のトレイルランナー。中学時代はバスケットとソフトボール、高校ではサッカーに取り組み、東京女子体育大学進学後もサッカー部に所属するも怪我で退部。その後、ひとりでランニングを始める。卒業後に自衛隊に入隊し、トレイルランニングと出合う。2010年よりトレイルランレースに出場し、2012年の信越五岳トレイルランニングレース110キロで準優勝。結婚と出産を経て、2018年から競技を再開、同年NESチャンピオンシップで優勝を果たす。次男の出産を経て、2022年信越五岳トレイルランニングレース110キロ優勝、Doi Inthanon Thailand 2022 by UTMB50キロ4位、2024年KAI70k7位入賞、同年第1回アジア太平洋トレイルランニング選手権15位、2025年KAI70k8位入賞など。
写真:武部努龍
文:千葉弓子