祝・神田さかいやスポーツ創業70周年 / 酒井孝典社長インタビュー「社員こそがうちの看板」

さかいやスポーツ本店前にて。中央が2代目・酒井孝典社長、右が斎藤勇一さん、左が横田修宏さん


今年、創業70周年を迎えた東京・神田神保町にある「さかいやスポーツ」。2代目社長の酒井孝典さんに創業当時のエピソードやお店の歴史について伺った。斎藤勇一さん(総務部長)、横田修宏さん(営業部長)にも加わっていただきながら、かつて製造していたオリジナル商品も拝見した。実は私自身このエリアで生まれ育ったため、さかいやスポーツさんには個人的な思い入れも深い。昭和から令和までの町の変遷にも話が及んだ。

戦後、袋物製造業からのスタート

さかいやスポーツ(以下:さかいや)の前身は袋物の製造業だったという。創業者の酒井利徳氏は第二次大戦中、シベリアに捕虜として抑留され、終戦後の1949年(昭和24年)に帰国すると、妻の生家があった神保町で袋物の製造を始めた。

当初は食料の買い出しに使う帆布製のザックをつくったり、近くにあった岩波映画から依頼を受けて、教育映画制作用の機材を入れる袋を製作したり、銃砲店からのオーダーで銃ケースをつくったりしていたという。

1955年、登山用品専門店「さかいやスポーツ」を設立する。JR水道橋駅から地下鉄神保町駅に向かう白山通りに面した場所が創業地で、1階が店舗、2階が自宅という構えだった。翌年、日本山岳会の今西嘉雄らがマナスルに初登頂し、日本に空前の登山ブームが巻き起こる。それ以降さかいやでも、自社製造していた登山用ザック、テント、スリーピングバッグなどが爆発的に売れた。神保町の工房だけでは手狭になり、埼玉県川口市に工場を建てて、4人の職人を抱える。初代の利徳氏も創業当初から変わらず、社長業を行いながら縫製の仕事を続けていた。

大学の山岳部やワンダーフォーゲル部との付き合いが始まったのもこの頃だ。現在も東京大学や早稲田、明治、都留文科大学などが、新入生が入部する時期に訪れる。麻布や開成、暁星、共立女子といった歴史ある中学高校も部活で長年、利用しているという。

かつてこのあたりには登山専門店はほとんどなかったが、50年代後半〜60年代の登山ブームで店舗が増えた。80年代〜90年代初頭になると、今度はスキーブームが到来し、それまで登山用品を扱っていた店のなかにはスキー用品に鞍替えするところもあった。欧州を中心としたスキー用品を仕入れる輸入代理店も増加し、そうした代理店は次第に登山用品も取り扱うようになっていく。徐々に登山市場で流通する国内製品と輸入製品のバランスが変化していった。

長年続けてきたオリジナル製品の開発が店の底力

ーーかつてのこのあたりの様子について、少し教えてください。

酒井社長:昔は小川町のヴィクトリアさんもなくてね。石井スポーツさんはも新大久保で開業したあとに、神保町に移っていらした。親父の時代の同業といえば、いまはもうなくなってしまったミナミスポーツさんくらいかな。あとはスキー用品のカナザワさんとか。神保町は古くから続く古書街だけれど、僕が学生だった70年代から90年代は「楽器かスキーを買いに来る町」というイメージでしたよ。うちでもわずかな間だけ、テレマークなどの登山向けスキーを扱ったことがあったけれど、すぐにやめてしまってね。いま思えば、登山一本に特化したのがよかったのだと思います。

ーーこちらのお写真は初代社長でしょうか。どのような方だったのですか? 

酒井:職人気質で頑固な人でした。左に写っているのはフランスのアルパインクライマー、ガストン・レビファ(1921ー1985年)で、代理店の招待で日本に来日したときに、うちに寄ってくれたんですよ。2〜3回、来てくれたかな。かつて近所にエリカというコーヒーの名店があったので、そこからコーヒーの出前をとったら、とても喜んでくれてね。『さかいやのコーヒーは美味しい!』と言ってくれて。まぁ、うちで淹れたわけじゃなんだけどね(笑)。ルネ・デメゾン(フランス/1930-2007年)も来店してくれましたよ」

写真はガストン・レビファ氏(左)と初代の酒井利徳社長(右)。ガストン・レビファの著書『星にのばされたザイル』(山と溪谷社)

ーーエリカは記憶にあります。祖父がエリカのコーヒーが大好きでよく出前を取っていました。侯孝賢監督(台湾)の映画の舞台にもなった名店ですね。神保町も長い間に少しずつ様変わりしたと思うのですが、いかがでしょうか。


酒井:そうだね、チェーン店ではない商家がなくなってしまったね。昔は酒屋さん、お豆腐屋さん、魚屋さん、甘味屋さんなんかもあったけど。このあたりに住んでいた人もみんな引っ越してしまって住民が減ったしね。母方の実家が三省堂の並びで古書店を営んでいたので、うちはずっと神保町ですよ。同級生にはコメディアンの三宅裕司くんがいるよ(笑)。

きっぷのよいお話ぶりが印象的な2代目・酒井孝典社長

ーーそうした変化のなか、さかいやさんが長く続けてこられた理由はどんなところにあると思われますか? さきほど「登山に特化したのがよかった」というお話がありましたが。


酒井:やはり創業以来、長年に渡ってオリジナル商品をつくってきたことじゃないかな。自社で開発製造していたのがさかいやの伝統であり、強みだと思っています。昔から全国にお客さんがいて、通信販売も行っていたんですよ。

ーーどういう経緯で通信販売が始まったのでしょうか。

酒井:毎年、大学の山岳部がうちに買いにくるでしょう。そのうちの何割かの学生さんは地元に戻って就職するわけです。それで、地元に戻ってから登山を続けるときに、うちの通販を利用してくれたんですよ。

ーーなるほど。それで、早くから全国にお客さまがいらしたわけですね。

酒井:全国に需要があることは昔からわかっていたから、通信販売からオンラインショップへの移行も早かったんだよね。

90年代、オリジナルと輸入製品が半々になる

横田:僕が入社した90年代後半は、オリジナルザックも小さいデイパックから80Lまで揃っていました。ちょうど世の中はデイパックブームでしたね。オリジナルのニッカズボンもあって、よく売れました。ヘリンボーン柄とかもつくっていたんです。

斎藤:90年代はおそらく、一番オリジナル商品が豊富だった時代だと思います。

90年代に入社した斎藤さん(左)と横田さん(右)。斎藤さんはシューズ、横田さんはキャンプギアやザックが得意分野


酒井:川口工場でつくっていた時代だね。90年代に入ると、韓国がザックをつくり始めるようになってね。当時、日本よりも韓国の方が労働賃金が安くて、いろんな欧州メーカーが韓国に下請けに出すようになっていたんですよ。彼らは欧州メーカーから受注しているから、ミシンもコンピューター制御のものをどんどん取り入れて設備投資をしてね。僕らは小さな工場だから、徐々に賃金格差や商品格差が生まれて、立ち行かなくなってしまった。日本の工場は負けてしまったわけだよね。それでうちもオリジナル商品の製造を止めたんだ。そういう時代でした。

横田:その時期、アメリカのオスプレー社も米国生産からアジア工場での生産に切り替えましたね。

酒井:そのうちに韓国でも労働賃金が上がっていって、次に中国が欧米メーカーの下請けになっていったと。世の中はどんどん安い方に流れるからね。

上)「マウンテントーク」というブランド名で展開していたザック。さかいやオリジナルテント「ベースシリーズ」のカタログ  下)ウールを主体にしたニッカーズボンやレインウェアなども

ーーそうした変遷があって、さかいやさんで取り扱う商品も輸入製品が増えていったわけですね。

酒井:日本で職人さんを抱え続けることが、どれだけ大変かということだよね。うちが直接、欧米メーカーから商品輸入していた時代もあったんですよ。90年代半ばは、RabとかMOUNTAIN EQUIPMENTとか、Macpackとか仕入れていました。

横田:自社のオリジナル製品が多いと、在庫を抱えていることもあって、どうしてもオリジナルしか売らなくなっていくんですよ。でもお客さまはいろんな品揃えの中から選べる方がいいですよね。輸入製品が増えた背景には、そういうこともあったと思います。

オートキャンプ、フライフィッシング、山ガールのブーム

ーー時代に呼応して、店舗形態が変化したり、力を入れる商品が変わったりしてきたかと思います。2010年代にはLaLa館(女性ウェアと子ども用品)もありました。社長のなかで、とくに記憶に残っている時代はありますか?

酒井:やはり、僕が中学から大学の頃だよね。60年代から70年代くらいが、いちばん忙しかった気がします。でも君らが入社した90年代半ばも忙しかったよね。第一次キャンプブームもあったし。

斎藤:オートキャンプブームで、専門誌もいろいろ発行されていました。店でカヌーも売っていたんですよ。

横田:僕は毎朝、白山通りの店の前にカヌーを出すのが日課でした(笑)。

斎藤:あと、フライフィッシングも流行りましたね。

2025年に店舗を全面リニューアル。メンズ・レディスのウェアが集結するウェア館。左からスタッフの山岸さん、渡辺さん、高橋さん

ーーカヌーイストの野田知佑さんが活躍されていた時代でしょうか。著書を拝読して憧れました。

酒井:野田さんもキャンプ用品を買いに、よくうちに来てくれたな。小学館(神保町に関連建物が多い)の仕事をしていたから、その帰りとかに寄ってくれましたよ。

横田:そうだったんですか!野田さん、僕もお会いしたかったな。憧れましたね。いつか無人島に行って、たき火を囲みながらお酒を飲もう、とか密かに思ったりしていました。

登山靴、トレイルランシューズ、ザック、キャンプ用品が揃う本店。11月からはクライミング売り場もここに統合される

商品カタログと「かわら版」の発行

ーー楽天市場の賞状がたくさん飾ってありますね。

酒井:楽天市場に出店して25周年記念のときにお祝いしていただきました。ほかにも「楽天ショップ・オブ・ザ・イヤー」のアウトドア・レジャー部門で、何度も授賞しています。

昔から行っていた通販と道理はまったく同じで、それがオンラインに変わっただけなんですよ。通販時代には自社でカタログをつくっていたんだけど、ものすごく費用がかかってね。それで、三木谷さんが楽天を始めてからオンラインショップに切り替えました。レジのPOSシステム導入や顧客管理のためのコンピューター導入なんかも、業界内ではかなり早かったんじゃないかな。システム開発には莫大な費用がかかったけどね。

オリジナル商品のカタログのほかに「かわら版」というチラシを年2回発行していた。イラストは斎藤勇一さんが担当

ーーこちらのザックも時代を感じますね。

横田:このザックを店舗のショウウィンドウに展示していたところ、登山家・田部井淳子さんの生涯を描いた映画『てっぺんの向こうにあなたがいる』の美術さんが借りにいらっしゃったんですよ。どちらのモデルが使われたのかわかりませんが、映画のどこかに登場するのではないかと思います。田部井さんと懇意だった方が、たまたまさかいやで展示されているのを見つけて、美術さんに伝えて借りにこられたとのことでした。

帆布素材のオリジナルザック

ーー今日はじめて、オリジナル製品が主流だった時代が思いのほか長かったことを知りました。

斎藤:白山通りの店一軒のときにも、オリジナル商品の製造と欧米メーカーからの仕入れと両方行っていました。私が入社した頃は、ちょうど値段と製品クオリティとのバランスで欧米メーカーに勝てなくなってきた頃で、これからどうしようかという転換期でした。そんななかでも登山靴は学生さんの需要があったので、最後までつくっていたんです。シューズ製造をやめたきっかけも、職人さんが亡くなってしまったからでした。

横田:このシューズ見本、僕が入社した頃からありましたよ。紐はあとから付けたものですけど。

斎藤:当時の一般的な登山靴は4万円程度で、うちの製品は2万ぐらいだったので、学生さんも手に取りやすかったと思います。

90年代末まで製造されていたという登山靴。学生に愛用された

ーー製品に縫い付けられているロゴもいまとはだいぶ異なりますね。

横田:いまのロゴに統一されたのはエコープラザがオープンした頃(現在の本店)だから、2000年前後だったと思います。それまでは、製品に合わせていろんなロゴがありましたね。ヤッホーおじさんというキャラクターもあって、最近復刻しています。

上)時代や製品ごとに異なるロゴ  下)オリジナルのダウンジャケット


ーー売り場で市場の変化をご覧になられてきたわけですが、近年のアウトドアシーンについてはどう感じておられますか?

横田:コロナ禍の影響もあって、アウトドアの小売り全体が縮小傾向です。この時代をどう乗り切っていくかということでしょうね。僕らはこれまでと変わらず、しっかりとお客さまのお話を聞くことが大事なのかなと思っています。うちにいらっしゃるお客さまのなかには「他店できちんと話を聞いてもらえなかったから来た」という方も多いのです。あと「足のサイズを計測してくれるから」とか。

課題だと感じているのは、より一層、きちんとした情報をお伝えしていく必要があるということでしょうか。最近はYouTubeの情報をそのまま鵜呑みにするお客さまが増えていて、少し心配しています。たとえばYouTubeで見たULギアを購入すれば、すぐに同じ山行ができると思ってしまう方がいたり。その傾向は年代を問いません。僕らショップやメーカーさんが、きちんとした情報をこれまで以上に伝えていく必要があるのかなと感じています。

全員が社員。店の顔は彼らだから

ーーあらためて「さかいやらしさ」とは何でしょうか。また、これからの展望についてもお聞かせください。

酒井:社員がお客さまの立場に立って、親身にアドバイスできるお店であることかな。それに尽きると思います。うちはアルバイトさんがいないんですよ。全員が社員。だから、社員がお店の顔、看板なんです。みんなアウトドアが大好きだから、適正なアドバイスができる。そういうお店です。これからも老舗の味は変えない、それがうちのモットーですよ。

ーーいつも同じ店員さんに会えて接客していただけるというのは、お客さまにとっても安心感に繫がりますね。

酒井:そうでしょ、それがいちばんの売りなんだよ(笑)。


取材日=2025年9月
文=千葉弓子
写真=小川拓洋