『山物語を紡ぐ人びと』vol.39〜千葉達雄さん(ITJ&Mt.FUJI100オーガナイザー)/ 人生をかけて地元でトレイルラン文化をつくり上げる


「IZU Trail Journey/伊豆トレイルジャーニー(以下:ITJ)」や「Mt.FUJI100」のオーガナーザーを務める株式会社SOTOE代表の千葉達雄さん。ここ数年、「顔の見える大会主催者」として公式ライブ配信などにも力を入れているので、トレイルランナーでご存知の方も多いだろう。日本のレースシーンを牽引する大会プロデューサーのひとりだ。

そんな千葉さんは伊豆市の出身で、地元を盛り上げるためにトレイルランの世界に入った。私が千葉さんの存在を知ったのは、2011年のこと。当時はハイカーとトレイルランナーとの摩擦が各地で問題になり始めた時期で、トレイルランナーの山でのマナーが大きな課題となっていた。そんな状況を危惧したオリエンテーリング協会が主体となり、山の先輩である山岳関係者やオリエンティアを集めて、トレイルランナーとの相互理解と情報共有を行うシンポジウムが開催された。鏑木毅さんやアドベンチャーレーサーの田中正人さんが “山を走る代表” として登壇するなか、一般参加者として「伊豆でトレイルランレースの構想を抱いている」と熱く語っていた男性がいた。それが千葉達雄さんだった。

2年後の2013年、伊豆トレイルジャーニーが誕生する。「あのとき発表していた大会が形になったのか」と感慨深く、大会設立当初から度々足を運んできた。なぜこの大会に惹かれるのかをあらためて考えてみると、伊豆エリア広域を舞台に繰り広げられる「Journey=旅感」の創出がいちばんの理由ではないかと思う。回を重ねるごとに大会運営はブラッシュアップされ、現在では一年を締めくくる師走のレースのひとつとして人気を集めている。入賞した選手のその後の活躍も目覚ましいことから、若手アスリートの登竜門的な位置づけもある。


もうひとつITJで記憶に残っているのは、2020年コロナ禍での開催だ。コロナウィルスの感染拡大に伴い、全国各地でトレイルラン大会や大規模イベントが中止となっていた。いつ終息するか先行きの見えない不安を抱えながら、地域の経済的損失も考慮する必要があり、どの大会もそれぞれの地域での最適解を模索していた。この頃は、都道府県ごとの心理的分断も深まりつつあった。

ちょうど感染者数の波が減少傾向となり、イベント開催の規制が緩和されたタイミングと重なったこともあって、ITJは開催に踏み切った。選手受付を時間差で行ったり、エイドやフィニッシュ会場の立ち入り人数を極力制限したりするなど随所で感染対策を工夫し、異例なかたちでの実施だ。地元の理解と協力なくしてはできなかったことだろう。

大会会場では久しぶりに県外の友人に再会した人たちの笑顔が溢れ、感染リスクに対する緊張感よりも、不思議な多幸感と安堵感の空気が満ちていた。その空気に触れたとき、トレイルランが結ぶ地域や年齢を超えた人と人との繋がりをあらためて実感した。

今回のインタビューでは大会づくりの話をメインに、大会やライブ配信などでは明かされない千葉達雄さんの故郷愛と素顔に迫ってみたいと思う。


プロセーラー・白石康次郎から受けた影響

ーー同じ名字ということもあり、ときおり「ご家族ですか?」と間違われることがあります。

千葉:僕も同じです(笑)。

ーーどういった経緯でトレイルラン業界でのご活躍に至ったのか、まずそこから伺いたいと思っています。実はかつて編集した書籍「アドベンチャーレースに生きる(山と溪谷社)」でプロアドベンチャーレースチーム・イーストウインドの歴史をまとめた際、初期メンバーだった海洋冒険家・白石康次郎さんにインタビューしたことがあるんです。そのなかで白石さんが突然、「千葉さん(私)、トレイルランについて書いているのなら千葉達雄を応援してやってくれよ」とおっしゃったんですね。お二人の繋がりが意外だったので驚いてしまって。古くからのお知り合いだそうですね。

千葉:そうです。僕がスポーツビジネスの世界に入って最初に仕事をしたのが白石康次郎さんの冒険のマネージメントでした。僕は中学・高校と陸上競技をしていて中京大学に進学しました。どうしてもインカレに出場したかったので、出場できる確率の高い400m×4人のリレー競技を選び、目標を叶えることができました。

卒業後はまず日本マクドナルドに就職して、マーケティングや起業家精神みたいなものを学び、その後、ダイビングショップや沼津観光協会で地域振興などの仕事を経て、2006年アスリートのマネージメントやスポーツマーケティング業務を行うスポーツビズという東京の会社に就職しました。オリンピアンなどトップアスリートが所属する会社で、僕が最初に担当したのが白石康次郎さんでした。白石さんは優しい方で、その生き方からから、ものすごく大きな影響を受けました。

冒険自体は海で行うものですが、白石さんは陸の冒険も得意なんですよ。つまり資金を集めてくるのが上手いんです。欧州での海洋イベントなどにも帯同させてもらって、地域を挙げての盛り上がりなどに直に触れることもできました。いい経験でした。

白石康次郎さんのマネージメントを手がけていた頃

伊豆・松崎町に息づく “挑戦者を応援する” マインド

ーー白石さんはITJの開催地である松崎町とご縁が深いと伺っています。

千葉:そうなんです。白石さんは26歳のとき、当時の最年少で単独無寄港世界一周航海を成し遂げたのですが、2度失敗しているんですね。そして3度目の挑戦のとき伊豆の松崎町からスタートして、見事に成功させました。

スタート前には松崎町の造船所の協力を得て、白石さん自らコツコツ船を整備し、挑戦中は町の若い人たちが無線ネットワークを使って現在地を伝達するサポートなどを行いました。GPSがない時代だったんです。

そんな経緯があったので、白石さんは「松崎町に恩返しをしたい」という思いがあり、1999年「伊豆アドベンチャーレース(以下:伊豆アド)」を立ち上げます。イーストウインドの仲間だった田中正人夫妻も協力して、2005年まで大会は継続しました。途中からは僕も沼津観光協会のスタッフとして運営に携わりました。

ーー道なき道をいくアドベンチャーレースのイベントづくりは、さまざまな許可申請も含めて大変な作業だったのではないですか。

千葉:初めてのことばかりでした。伊豆は東西中南と大きく4つのエリアに分かれているのですが、それまで市町の境を越えて伊豆半島全域で行う活動はなかったんです。観光業で隣町同士が競合だったりするので……。でも2000年頃はバブルがはじけた後に旅館の倒産が相次いでいて、なんとかしなければいけない状況でした。そして、伊豆エリア全域で初めて連携したイベントをつくることになり、「伊豆はひとつ」をキーワードに、白石さんが企画した伊豆アドが生まれました。

僕も一度、選手として参加したんです。シーカヤックを漕いだり、滝を懸垂下降したり、山の中を走ったりして、ものすごく楽しかった。地元でよく知っている場所だからと地図読みを甘く見ていたら、1日目の夜に山中でロストしてしまったりして。

このとき「自分は伊豆半島を何も知らなかったんだな」と強いカルチャーショックを受けたんですね。これは大きな経験でした。

ーーその頃から現在のITJへと繋がる基盤が整えられつつあったわけですね。

千葉:そうですね。とくにITJのスタート地点である松崎町は、白石さんの冒険支援も含めて、新しいことにチャレンジする人を応援するようなマインドがあります。

松崎町はかつて西伊豆地区の中心的役割を担っていました。人口も1万4000人程度あったのですが、いまは6000人にまで減っています。昔は養蚕が盛んな商業の町で、繭を松崎港から出荷していました。松崎町の繭はその年でいちばんはやく取れる繭だったらしく、初物として価値が高かったと聞いています。僕が子どもの頃は沼津から船が行き来していて、個人的にも松崎港は思い入れのある場所です。いまITJのスタートは松崎新港ですが、2015年に一度だけ松崎港からスタートしたこともあります。

ーー覚えています。すぐ横に船が停留していてドラマティックなスタート風景でした。では、伊豆アドをきっかけにしてスポーツマネージメント会社へと転職されたわけですね。

千葉:伊豆アドで白石さんの担当スタッフと知り合い「うちの会社に来ませんか?」と誘われて転職し、白石さんの担当になりました。冒険のための資金を集めたり、海外調整を行ったり、船のクルーチームとやりとりしたりといった仕事でした。船の世界のことはまったく知らないで飛び込んだので、当時の僕は全然仕事ができなくて、みなさんにすごく迷惑をかけたなと思います。

2013年、第一回ITJには白石康次郎さん(左)も駆けつけた / 写真提供:千葉達雄

鏑木毅との運命的な出会い

千葉:2010年頃だったかな。白石さんの冒険をフランスでサポートしている方から「プロになったばかりの日本人トレイルランナーがいて、マネージメントをしてくれる人を探している」という相談がありました。それがいまITJやMt.FUJI100で一緒に大会をつくっている鏑木毅さんでした。

銀座のスポーツマネージメント会社で初めて鏑木さんと会いました。鏑木さんはプロになる前に群馬県庁で町づくりの仕事をしていたので、「トレイルランニングレースは必ず地域の活性化に繋がっていくよね」という話で意気投合したんです。それで、独立して活動していた敏腕な先輩に僕からお願いして、鏑木さんのマネージメントを引き受けてもらうことになりました。

ーー鏑木さんは現在トレイルランレースの運営以外にも、後進の育成や新聞での連載、関西大学での客員教授など幅広くご活躍をされています。

千葉:鏑木さんと石川弘樹さんはトレイルラン業界のレジェンドですよね。僕は個人的にも、お二人には50代、60代、70代とこの先ずっと活躍していてもらいたいんです。お二人がいくつになっても活躍してくださることで、次の世代が夢を見ることができると思うんですよ。


伊豆アドとOSJハコネ50Kが僕の運命を変えた

ーーそこからどうITJ誕生へと繋がっていったのでしょうか。

千葉:2010年に鏑木さんと出会った後、当時勤務していた会社でトレイルランニングの社内事業化を企画したのですが、企画が通りませんでした。その翌年に東日本大震災が発生し、伊豆も震度5くらいの大きな揺れがありました。僕はちょうどスポーツビスを退職して、渋谷のプロモーション会社に勤務していたんです。結婚して千葉の海浜幕張にマンションを買って、渋谷と自宅を往復しながら、ときどき地元に戻って「NPO伊豆」という団体が主催する勉強会に参加していました。

震災で予定していた仕事が全部なくなり、仲間と被災地にボランティアに行ったんですね。そこで津波の甚大な被害を目の当たりにしたとき、人ごとではないと思いました。実際、松崎町などの伊豆沿岸部に津波が来たら、もう高台にしか人は住めなくなるんじゃないかという話も地元では出ていましたから。

被災地での体験を通して「いまの日常は当たり前に続くわけじゃないんだ。後悔しない人生を送りたい」と強く思ったんですよ。

ちょうど当時の松崎町長だった斎藤文彦さんが「スポーツで伊豆を盛り上げたいから、何かアイデアを考えてくれないか」と声をかけてくださいました。斎藤さんはかつて伊豆アドの実行委員長を務めていた方で、アウトドアイベントにも理解があり、スポーツに可能性を感じていたのだと思います。

ーーそのとき千葉さんはなぜトレイルランニングを選んだのでしょうか。

千葉:時代が相前後するんですけど、スポーツビズで働いていた2007年、僕はトレイルランレースに初めて出合い、衝撃を受けました。それが「THE NORTH FACE エンデュランスランOSJハコネ50K(以下:ハコネ50K)」という一回しか開催されなかった伝説の大会でした。その大会に、伊豆アドで懇意になった田中正人さんが出場するということで応援に行ったんです。そのとき初めて触れたトレイルランレースの世界観がものすごくよくて……。

2007年OSJハコネ50Kのスタート風景。田中正人さんや鏑木毅さん、横山峰弘さんなどが参加していた / 写真提供:千葉達雄

箱根湯本からスタートして、彫刻の森美術館がフィニッシュというコースだったのですが、前夜から箱根湯本にトレイルランナーが歩いていて町が賑わっているんです。いまではよくみる光景ですけど、その頃は新鮮でした。

箱根湯本でスタートを見送った後、すべて電車でアクセスできる立地だったので、大涌谷などを観光して頃合いをみてフィニッシュ会場に移動したら、予想より早くトップ選手がゴールしていました。それが鏑木毅さんでした。優勝者への副賞がUTMBへの参加資格で、それ以降、鏑木さんはUTMBへの出場を重ねて3位になり、プロとしての道を切り拓いていくことになります。

そう考えると、いろんな人の人生の分岐点になったのが、ハコネ50Kだったといえるかもしれませんね。僕にとっては、町を巻き込むトレイルランというスポーツの力を目の当たりにした衝撃的な大会でした。伊豆アドとハコネ50K、この二つが僕の人生のなかでも大きく感情を揺さぶられた出来事だったと思います。

ーーお話をうかがっていると、それぞれ別のところで起こった事象や出会いがひとつのうねりに飲み込まれていくような印象を受けます。小説の伏線回収のように見事に現在につながっていくというか。

千葉:ほんとうに不思議です。この頃はまだ自分は流されるままに生きてきたんです。誰かの誘いに乗ったり、目の前の状況に身を任せたりしていただけという感じでした。それで、初めて自分の意志で行動を起こしたのが、伊豆トレイルジャーニーだったわけです。

OSJハコネ50Kのフィニッシュ会場だった箱根彫刻の森美術館。アウトドアブランドや飲料メーカーのブースが立ち並び、ライブ演奏も / 写真提供:千葉達雄

人生を賭けられるものは、そうあるもんじゃない

ーーITJのコンセプトはどうやって生まれたのでしょうか。

千葉:はじめから旅をテーマにしたいと考えていました。伊豆エリア全域で盛り上げるためには、一泊二日の旅として成立させるのがいいんじゃないかと。日曜日のフィニッシュ後、新幹線の終電に間に合うような時間設定にしています。日本の人口が減少していくのはわかりきったことだったので、インバウンド需要を喚起できるよう国際レースにすることも当初から想定していました。

大会コンセプトは「新しい旅の創造」に決めました。これは新卒で勤めたマクドナルドの企業コンセプト「新しい食文化の創造と拡大」をヒントにしています。新しい価値観を創造して、それを楽しみに来てくれる新しい顧客層を生み出していけば地域貢献になり、既存の宿泊施設同士が宿泊客を取り合うみたいなことも起こらないわけですよね。どのエリアにとってもWin-Winになるはずだと考えました。

ーーそれが震災直後だったわけですね。

千葉:セールスプロモーションの会社に籍をおきながらITJの準備を進め、すでにマンションを購入していた海浜幕張から2013年に地元に戻ってきました。同じ年にSOTOEも設立しました。

2013年、第一回ITJのスタート風景 / 写真提供:SOTOE
日本山岳耐久レース優勝者など力のある選手が多数参加するなか、3位に入賞した大瀬和文選手。この大会を契機にトップアスリートへと成長していく / 写真提供: SOTOE


ーー反対意見もあったと伺っています。

千葉:以前はありました。でも松崎町など地元の方たちが温かく応援してくれていたので、それが支えになりました。

ーー原動力はどんなところにあったのでしょうか? 

千葉:なんて言うんでしょうかね……。理論的に考えてメリットがあるからというのではなくて、純粋にこういう大会をやってみたいというビジョンがあったといったらいいのかな。全部上手くいったときの未来はきっとすごくいい世界になるというイメージができていたからだと思います。そんなふうに思えるものって、人生であまりないじゃないですか。

コロナ禍でのピンチはチャンスでもあった

ーー2020年大会は印象的でした。コロナ禍での開催決断は勇気が必要だったのではないですか。

千葉:SOTOEのスタッフには大きなストレスをかけてしまったと思っています。実際、地元の意見も割れたんですね。観光で成り立っている地域だから仕事をゼロにはできないわけで、誰もが葛藤していました。そして、やるべきか、やめるべきかの判断はライフステージでも異なってきます。とくに若い世代のなかでは、感染対策を最大限行いながら、先のことを考えて動く方がいいのではないかという空気がありました。

僕自身も、大会を止めるのは簡単だけれど、どうやったら開催できるのかを見つけ出す方に全力を注ぐべきじゃないかと考えました。そして、これはチャンスかもしれないとも思ったんです。

ーーそれはなぜですか?

千葉:大きな規模の大会はITJしか開催できそうになかったからです。頑張りどきではないかと思いました。あと変化するチャンスではないかとも。

2020年ITJの装備チェック会場。あらかじめ受付時間を指定することで人の密集を回避した
2020年ITJでは双子の兄・敦雄さんもレースに参加。2024年はMt.FUJI100に出走予定


それまで受付はスタート地点の松崎町で行っていたのですが、年々、住民が減少して、そろそろ受け容れが難しくなっていたところだったんです。そこで2020年の開催を機に、思い切って受付会場を新幹線の三島駅前に変更しました。公共交通機関でのアクセスがよくなり、より参加しやすくなったのではと思います。三島から、各宿泊エリアやスタート地点、ゴール地点への輸送バスを運行しています。

またITJ以外の仕事はなくなっていたので、宿泊や飲食の提供、物販を行うITJベースを修善寺に設立したり、プライベートについて考えたり、山のなかに家をつくったりと将来の準備をする時間にもなりました。

ITJの参加者の方にはイベント以外でも伊豆に遊びに来てもらいたいとずっと思っていましたので、ITJベースではトレイルヘッドへの送迎も始めました。

コロナ禍に設立したカフェ&ゲストハウス「ITJ BASE Shuzenji」。修善寺温泉街にあり、ITJのフィニッシュ会場とも近い
1階のカフェスペース。大会オリジナルグッズも購入できる

「飽きてしまうのではないか?」と自問した

ーーさきほど「ITJは初めて自分の意志で始めたものだ」とのお話がありました。千葉さんはオーガナーザーであり経営者でもあるわけですが、覚悟を決めた瞬間というのはあったのでしょうか。

千葉:経営者にはなりたくてなったというのではなく、なりゆきだったんです。SOTOEを設立し、ITJを始めるときにいちばん危惧したのは「自分が飽きてしまわないか」ということでした。

ーー飽きる、ですか。

千葉:そうです。トレイルランレースってたくさんの人を巻き込むじゃないですか。「新しい旅の創造です」と理念を掲げているし、大会に関わる人たちは何百人もいるわけだから、自分が飽きたからといって簡単にやめることは許されない。だからいちばんに自問自答したのは「飽きないで続けられるか。ライフワークにできるか」ということでした。


ーー逆にこれまで関わってきたもので飽きたものはあったのですか?

千葉:ほとんどのことは飽きましたね。陸上もそのひとつです。僕は飽きやすいし忘れっぽいし、なかなか続けられない性格なんです。でも大会づくりは誰かが自分ごととして取り組まないと維持できないと思うんですよ。「そうはいってもプライベートが大事だから」という関わり方だと、周りが信頼してついてきてくれないと思う。覚悟を決めた存在でなければいけないと思いました。

ここでも白石康次郎さんの影響を受けています。白石さんは講演会で「決断は決めて断つことだ」などと話すんです。「すべてを捨てて、これだけやると決めることが決断なんだ」みたいな話をすることがあって。それを聞いて、純粋にそのとおりだなと思ったんですよね。

ワークライフバランスという言葉がありますけど、この仕事はライフワークとして、自分の人生のなかに組み込まれたプロジェクトです。儲かるか、儲からないかじゃなくて、人生をかけたプロジェクトかどうかが重要なんだと思います。

“走れるトレイル” が続く稜線
2023年女子優勝者のEszter CSILLAG/エスター・シラー選手。ITJはアジアトレイルマスターに加盟している

いつか伊豆東西を繋ぐロングトレイルをつくりたい

ーー少し話しは大会から逸れますが、以前、伊豆でロングトレイルをつくりたいとおっしゃっていました。その構想はいまもお持ちですか。

千葉:あります。伊豆の最南端にある石廊崎から修善寺までは140kmあって、一部ITJのコースとも重なっています。コース前半の林道部分の横に天城山脈が通っていて、トレイルでずっと進むことができます。そこを繋げればロングトレイルが完成する。ただ実現には管理体制などいくつかの課題をクリアしなければなりません。

もしここがロングトレイルとして繋がったら、MTBやグラベルで走ったり(*伊豆は自転車のメッカでもある)、東西をスルーハイクしたりとダイナミックな旅ができるようになるでしょうね。いつか、そうしたアメリカ型のロングトレイルをつくりたいと思っています。ただいまは会社経営とトレイルラン大会の運営でいっぱいいっぱいで、着手する時間がない。でも最終的にはそこまでやりきりたいと思っていて、まったく諦めてはいないですよ。

実現したら、衣食住を持って二人一組で数日かけてスルーするイベントとか開催したいですね。サハラマラソンやステージレースなどもそうですけど、長い時間、寝食をともにして旅した人とは一生涯の友人になるそうなんです。だから走ることに限定せず、歩いてスルーする遊びなんかも提案できたらいいなと思っています。

ーー四国お遍路やスペインのカミーノ・デ・サンティアゴの巡礼なども、出会った人と会話することでお互いが癒やされていくというのを聞いたことがあります。

千葉:近い関係になればなるほど、本当に思っていることをなかなか言えなかったりするけれど、旅先で出会った一期一会の人に対してだと心が緩んで話せたりすることもありますよね。そういう時間はとても大切だと思うし、観光地の役割ってそういうことにもあるんじゃないかな。

ーートレイルランもロングレースなどでは、相前後した選手と不思議な連帯感が生まれたりしますね。

千葉:トレイルランの面白いところは、年齢や仕事など立場が違う人とでも共感し合えることですよね。社会生活では、努力してもままならないことが多いけれど、トレイルランの場合、自分なりに頑張ったらその分だけ、ある程度なんとかなっていく。

スポーツを通してそういうことを経験するのは子どもにとってはもちろんのこと、大人にも意味があると思うんです。Mt.FUJI100の100マイルのゴールで感激して泣いてしまう選手なんかを見ると、本当にトレイルランレースをつくってきてよかったと思います。

ITJとMt.FUJI100での関わり方の違い

ーー今日は地元伊豆で開催しているITJをメインにお話を伺っていますが、千葉さんのなかでITJとMt.FUJI100で関わり方はどう異なるのでしょうか。

千葉:ITJはなるべく僕の想いを反映させる大会づくりを目指していますけど、Mt.FUJI100はSOTOEを含めた4社での共同運営なのでそういう感じではないですね。それぞれが担っている担当分野で力を尽くすというイメージです。

Mt.FUJI100については、「日本のいろんな英智を結集してやっていこう」という大会であった方がいいかなと思っているんです。だから僕のプロデュース方法を反映させる必要はないと思っています。一方で、ITJはもうちょっとエッジを効かせて、地域の人たちの想いを前面に出すような形にしています。

2023年、富士山こどもの国でのFUJIスタート風景


ーーITJの会場には千葉さんの地元同級生やお友だちがたくさんいらっしゃいました。ボランティアをしたり、選手として参加したり。お話されている様子から、みなさんがITJをすごく大切に思っていらっしゃることが伝わってきます。これから大会をどんな形にしたいと思っていますか。

千葉:やはり地元のコンテンツとして、成熟させていくことが目標かなと考えています。地域性を考慮しながら世界規模の視点で考えるグローカルコンテンツにしていきたい。そして、そこから産業を生み出すことにも繋げたい。世界と繋がっているレース、世界と繋がっているビジネスを伊豆でつくりあげることが、最大の地域貢献かなと思っています。トレイルランニングを地域の産業にしていくことが僕の最大のミッションですね。

ITJでは地元の参加者や同級生などから次々と声がかかる


ーー一方で、Mt.FUJI100はこれからどういう方向に向かうのでしょうか。千葉さんご自身は2016年からオーガナイザーとして関わられるようになり、鏑木毅さん、福田六花さんとともに大会の顔のような存在ですが。

千葉:Mt.FUJI100はやはり国際レースとして、世界最高峰レベルの選手が競い合える舞台として成長させていきたいですね。その舞台に一般のランナーの方たちも立って、同じ空気を体感できるというのはすごくいいことだと思っているからです。今後さらに世界中のトレイルランナーが交流できる場にしていきたいです。

ーーでは、個人的にこれから手がけたいことはありますか。

千葉:そうですね、経営者としては伊豆のなかでレースディレクターを育てたいと思っています。どこか別の場所から助っ人的な人に来てもらうのではなくて、地元で新しいレースディレクターが生まれてくれたらいいなと思っているんです。これがなかなか難しいんですけど。


写真:武部努龍(2023年ITJ)、グランノート(2020年ITJ、2023年FUJI)
写真提供:株式会社SOTOE、千葉達雄
取材&文:千葉弓子