富士山の麓に建つアウトドアショップ
静岡県富士宮市にあるアウトドアショップ「ATC Store 〜 Trail Hikers & Runner′s Place to go!」。東海地方のトレイルランナーのみならず、その名は広く全国に知られている。店を経営する芦川雅哉さんは、UTMFやCCC(※)などの完走経験を持つトレイルランナーだ。
豊富な品揃えはもちろんのこと、芦川さんの温かな人柄も相まって、店には日々、多くのトレイルランナーが集う。ギアやウェアの相談をしたり、レースの話をしたり、時には仕事の合間にふらりと息抜きに立ち寄るランナーもいるという。
山とは縁遠かった学生時代
芦川さんは、富士市で生まれた。意外にも学生時代は山と縁がなく、中学では陸上部で短距離を、高校時代は円盤投げの選手として県大会に出場したという。
高校卒業後、茨城県の大学へ進学する。
「毎日アルバイト三昧でした。大きなテーマパークで駐車場の整理係を担当していたのですが、ここが体育会系で(笑)。多い時には週に5日くらい働いていたので、スポーツをする余裕は全くなかったですね」
大学卒業後は、問屋関係の会社に就職。仕事に馴染めないまま3年ほどが過ぎたある日、静岡県内のアウトドアショップ「SWEN」のスタッフ募集の告知を目にする。すぐに応募したところ採用が決まり、新しくオープンした三島店に勤務することに。
「それまではキャンプを少し楽しんでいたくらいで、本格的な山はやっていませんでした。一生できる趣味が見つかればいいなという気持ちもありました」
SWENで働くようになり、徐々に北アルプスや八ヶ岳に通うようになっていく。「ところが仕事を覚えた頃から、だんだんと忙しくなってしまって。最後の4〜5年は、いまよりも山へ行っていなかったと思います」と当時を振り返る。
トレイルランは散々な目に遭うもの?
芦川さんがトレイルランニングと出合ったのは2007年、36歳の時だ。開催一回にして終了してしまった幻のレース『OSJハコネ50k』がきっかけだという。
「店の精鋭スタッフが3人出場したのですが、一人しか完走できなかったんです。トレイルランニングってそんなにすごいものなのかと驚きました。みんな口々に、普通に山に入るのとは違ってすごかったって言うんですから」
どんな世界なのだろうと大会のプロモーションDVDを見たところ、あっという間にその世界観に引き込まれてしまう。
「スポーツにのめり込んでいた学生時代を思い出したんですよ」
そして、その年の秋に開催される『日本山岳耐久レース 長谷川恒男CUP(通称:ハセツネ)』に自らもエントリーする。山を走った経験もないうちから、71.5kmのレースにチャレンジすることを決めてしまったわけだ。
「いまと違って、当時のハセツネはエントリーも楽でした。ところが練習で気合いを入れすぎてしまい、膝の靱帯を傷めて、いきなり初戦からDNSです」
苦い経験を経て、半年後の『OSJ新城トレイル32k』で念願のレースデビューを果たす。ハセツネの半分の距離だという甘い気持もがあり、自信満々で臨んだところ、散々な目に合ってしまう。
「とにかく辛くてやっとの思いでゴールに辿りつきました。正直、トレイルランニングはもういいって思いましたね」
しかし、それから3ヶ月後の2008年6月、今度は『OSJ志賀野反40k』に出走する。当日は朝から土砂降りの雨で、急遽、距離が26kmに短縮された。トレイルは、腰まで泥に埋まってしまうような状態。
「いまなら中止になるのではと思うほどの悪天候で、低体温症の人もたくさん出ました。ご存じのように、OSJの大会はエイドが水のみ。二戦目もこれかという感じでしたね」
レース中は苦しさしか感じなかったが、ゴールの瞬間、何ともいえない感覚を味わってしまう。やりきったという満足感と、大きな達成感に体中が満たされた。
「泥だらけになるシチュエーションも、人生でそうないですしね。トレイルランニングとはこういうものなのだと、ある意味、勘違いしてしまったわけです(笑)」
その後、富士山麓トレイルランやハセツネのリベンジなど、次々と大会出場を重ねていく。
2012年と2014年は、UTMFにも参加。二晩を超す長時間のレースで胃腸に負担がかかってしまい、何度も吐き気に襲われて、一度目は無念のリタイア。しかし今年、見事に完走を遂げた。
ひとつの出合いが、独立を決意させた
自分の店を持とうと心に決めたのは、実は先の『OSJ志賀野反40k』の帰り道だった。同僚と一緒に、当時まだ少なかった独立系のアウトドアショップのひとつ「信州トレイルマウンテン」(長野県長野市)に立ち寄る。
「一軒家を改装したこぢんまりとした店構えながらも、すごく尖った品揃えで。こういうお店もあるのだと衝撃を受けました」
そこから家までの帰路は、自分も店を出そうという思いで頭の中が一杯になってしまったという。そして2010年5月。奥様からの心強い応援を受けて、自宅からほど近い場所に「ATC Store」をオープンする。
「他の個性的な独立系ショップのみなさんのように、自分は本格的な山もやっていないし、アウトドアアクティビティの何かに秀でているわけでもない。それならあえて専門色を出さずに、お客さまから吸収して成長していけばいい、そう考えました」
量販店と個性溢れる独立系ショップの中間くらい、それがATC Storeの立ち位置だと芦川さんはいう。
店名の由来を尋ねると、気恥ずかしそうにこう教えてくれた。
「実は以前の会社では自分が最年長で、ミーティングを行う時に『それではこれから、芦川トレイルランニングクラブのミーティングを行う!』とか冗談で言っていたんです。頭文字をとってATC。社内だけでなく、取引先からも呼ばれていたんですよ」と、意外な話が飛び出した。
「それで、店を開店する準備段階に取引先と商談していたら、先方が『○月○日、ATCと商談』とか手帳にメモしているわけですよ。ちょっとちょっと、まだ店の名前は決めていないよと言ったら、『だって店名はこれでしょ?』と言われて。それならそれでいいかなと思ったわけです」
サブネームの“Trail Hikers & Runner′s Place to go!”は、「歩いても走ってもいい」という思いを込めてつけた。いまも度々「店名の由来は?」と聞かれるそう。
「これでもう、説明しなくて済みますね(笑)」
フジヤマユナイテッドの仲間たち
2012年、芦川さんの声がけで「フジヤマユナイテッド」というクラブを発足した。富士山を中心にアウトドアを楽しむグループだ。
「他のチームに入っていても気軽に参加できるように、あえて店名を入れませんでした。チームではなく、あくまでもクラブ。だから走らなくてもいい、ULハイクでもトレッキンングでもいい、アウトドアスポーツが好きな人なら誰でもOKです」
さっそく、お揃いのTシャツを制作する。デザインは、前回このインタビューページにも登場してくださったMountain Martial Arts(WAGAMAMA T)のデザイナー・渋井勇一さんに依頼した。
「赤は全員がマストカラーで、サブカラーは自由に選べるようにしました。そうしたらなんと、初回のオーダーが200枚くらいになってしまって」
フジヤマユナイテッドは実に不思議な存在だ。Facebookで繋がっている仲間は160名ほどいるが、1/3は直接の面識がないメンバー。とくに名簿があるわけでもない。何か一緒に行うこともめったいない。Tシャツを持っている人がみな顔見知りかといえば、そうでもない。
「トレイルランの大会でクラブTシャツを着ている人がいるなと思ったら、見たことがない人だったり。でも、それでいいなと思っているんですよ」
この包容力が、なんとも芦川さんらしい。
緩やかな結びつきのクラブだが、UTMFのような大規模な大会では、出走する選手のためにサポート隊が結成される。今年、芦川さんも仲間から熱い支援を受けた。
さらにUTMFでは、前回大会まで実行委員だった三好礼子さんからの依頼で、昨年と今年、A9「麓エイド」(富士宮市朝霧高原)の運営にボランティアとして携わっている。
「仲間が一生懸命に頑張ってくれているから、なんとか辿り着かねばと僕も必死に走りました」
山をさらに楽しむためのイベントづくり
最近では、店舗内でイベントも開催している。5月にはオリエンテーリング競技の日本代表選手である小泉成行さんを講師に招いた地図読み講習会、アメリカで35年以上の歴史を持つ応急救護のメソッド「メディック・ファースト・エイド」の救急講習会などを実施した。
「トレイルにはさまざまな危険が潜んでいますが、これまでは自分自身も、それに対応できるだけのスキルを持っていませんでした。山をもっと安全に楽しむためには、いろいろなアプローチが必要かなと思っています。こういった講習を受けることで、山に入る時の意識や山の見方が全く変わってきますから、僕自身もみんなと一緒に知識を深めていけたらと思います」
講習を受けてからは、これまでの救急セットに加えて、包帯や人口呼吸用のシート、使い捨て手袋を持参するようになったという。「応急手当は、できるだけ多くの人が知っていた方がよいスキル。日常でも使えます」と芦川さんは話す。
この場所で新しい縁が結ばれる喜び
自分の店を持って、気づいたことがある。
「ひとりになって強く感じたのは、人との繋がりが本当に大切だということ。この店がハブになって、全く接点のなかった人同士が仲良くなっていくのを間近で見ると、それだけでこの店を開いた意味があったなと嬉しくなるんです」
店を通して初めてトレイルランニングに出合い、人生が180度変わってしまった人もいる。近い将来、結婚するカップルも生まれるかもしれない。
「先のことは、あまり考えていません。ひとりでやっていますから、何かに縛られるわけでもない。会社にいる時にはいろいろな人を説得する必要がありましたけれど、いまは自分がYesといえば何でもできる。だからこそ、Noとは言わないようにしています」と芦川さん。
「いろんな方から意見や提案をもらうんです。扱う商品のこととか、こういうことをした方がよいとか。それに対して、とにかく一度はYesと言います。それで、どうしたらできるかを自分の中で考えて、突き詰めた結果にNoになることももちろんあります。でも、基本的にはYesと言いたいなと」
それはなぜなのか。
「ひとりで店を切り盛りしていると、誰かの言葉がなければ本当に自分だけの考えに陥ってしまう。それよりも、広い視野を持ったほうがいいと思ったんですね。たとえ形にならなくても、話を聞くだけで有益なことはたくさんありますし、そこから新しいヒントが見つかることもありますから」
芦川さんは店を営業する傍ら、TwitterやFacebook、ブログを活用して、山に関する情報を頻繁に発信している。
「静かな街にある店ですから、情報のインとアウトを繰り返していかなければ、お店の存在自体が埋もれてしまうのではないかという危機感があります。そうはいっても文才がないので、個人的な感情は盛り込まないで、ただ淡々と書くことをモットーにしているだけですが」
その内容は富士山にまつわるものだったり、昨今のトレイルラン事情だったり、新聞や雑誌の気になる記事だったり、大会レポートだったり。「好きなことをアップしているだけ」と話すが、ご本人が思っている以上にそこには何かしっかりとした芯が通っていて、芦川さんの冷静でしなやかな目線が感じられる。もちろん、ユーモアも欠かさない。
最後に、ご自身の次なる目標を伺った。
「8月末にTDS(※)に行ってきます。昨年、CCCを完走したので次のステップですね」
CCCで見たシャモニーの景色は、本当に素晴らしいものだったという。
「これだけの雄大な景色があるからこそ、世界中から人が訪れるのだなと実感しました。もちろん、素晴らしい場所はまだまだ世界中にあるでしょう。でも自分は日本人だから、やっぱり日本の美しい景色をもっと見てみたい。まだまだ知らない景色に出会ってみたいんです。きっとどこへ行っても感動するだろうと思います。その場所だけの魅力があるはずですから」
■ATC Store 公式サイト
http://www.atc-store.com
※ )CCC、TDS
いずれもUTMBの5カテゴリーのうちのひとつ。CCCは総距離101km、制限時間は26時間。TDSは総距離119km、制限時間31.5時間で完走を目指す。2014年は8月25日〜8月31日に開催される。
Photo: Takuhiro Ogawa
Text: Yumiko Chiba