山物語を紡ぐ人びと〜vol.22 内坂庸夫さん(雑誌編集者)
誰よりも『UTMB』を見続けてきた編集者として
マガジンハウスの雑誌『Tarzan(ターザン)』に創刊時から携わっている編集者の内坂庸夫さん。2005年から誌面でトレイルランニングを取り上げ、誰もが楽しめるアウトドアアクティビティとしてその魅力を伝えてきた。2008年からは『UTMB(ウルトラ・トレイル・デュ・モンブラン)』を継続して取材している。
さらに最近では、自身も実践してきた『マフェトン理論』(心拍数を基準にした持久力スポーツのトレーニング法)を提唱。トップアスリートの上田瑠偉さん、大瀬和文さん、山田琢也さんにも影響を与えたほか、市民トレイルランナーに向けた講習会「ロングレースを楽に走る方法」も開催している。
『ターザン』で取り上げるアクティビティはトレイルランに留まらない。この冬には、クロスカントリースキーやスキーアーチェリー大会で優勝経験のある山田琢也さんを講師に迎え、誌上でクロスカントリースキーのトレーニング効果を特集した。
内坂さんが手がける記事はユーモアに溢れ、分かりやすい。少々ややこしい理論や科学的な内容も、かみ砕いて伝えてくれる。そこに並ぶ言葉たちには常に “ウチサカイズム” が流れている。
編集者として、「楽しいこと」「魅力的なもの」を追求し続けてきた内坂さんの原点とは何だろう—-? これまでの編集者人生を振り返りながら、「トレイルランニング愛」について語ってもらった。
人にものを伝えるって面白い
『ターザン』編集部のあるマガジンハウスは銀座にある。毎朝、食事の前に自宅近くの駒沢公園を1時間半ほど走って、シリアルを食べ、歌舞伎座近くのオフィスへ出勤する。
内坂さんのトレードマークといえば、短パンだ。真冬以外はこのスタイルで取材もデスクワークも行う。「僕にとっては11月23日までが夏なんですよ。これにはちょっと個人的な思い入れがあってね」と屈託なく笑う。
ウインドサーフィンに夢中だった十数年前、ある年の「勤労感謝の日」が夏のように暖かだった。誰が誘うともなく仲間たちが海に集まってきて、みんなで初冬のウインドサーフィンを楽しんだ。その素晴らしい “夏の1日” が忘れられず、「11月23日までを僕らにとっての夏にしよう」と決めたのだという。なんとロマンティックなエピソード!
真冬だけは長いパンツを履くが、春の気配を感じるとすぐに短パンを履き始める。「一度短パンを履いたら、たとえ寒くなっても戻ってはダメと、自分の中でルールを決めています」。
雑誌の編集を通して、実にたくさんのアクティビティを世の中に紹介し続けてきた内坂さん。学生時代はどんなスポーツをしていたのだろう。「スキーをしていましたよ。勝ち負けやチームというものにあまり興味がなかったから、サッカーも野球もしなかった。それよりも、自分の思うように滑れるスキーの方が魅力的だったんだよね」。
中学高校時代は読書少年だったが、大学に入ってはじめて体育会競技スキー部に所属する。その理由について、どこかに怖い物みたさや憧れの気持ちがあったのだろうと分析する。
体育会特有の年功序列の世界は、とても新鮮に映った。「声が大きい奴が強いんだと気づいたんですよ。キャラクターが際立っていれば、少々生意気なことを言っても『あいつはそういう奴だから』と納得してもらえるんだな、とね。これは社会に出てからも役立ちました」。
大学卒業後は、当時、一世を風靡していたファッションブランド・VAN JACKET(ヴァン ヂャケット)に入社。宣伝部でPRや広告、マーケティングの仕事に携わる。アイビーリーグのファッションを世の中に広めたVANは企業としてとても勢いがあり、雑誌にも数多くの広告を出稿していた。内坂さんもキャッチコピーを書いたり、広告表現を考えたりした。
そんな折、広告出稿していた平凡出版(現マガジンハウス)の名物編集長が、新聞社のムックとしてスキー雑誌をつくることになる。名物編集長はVAN宣伝部のボスと大親友であったことから、スキーが得意だった内坂さんにも声がかかり、編集に関わることになった。
編集の仕事はとても性に合っていた。振り返ると、その片鱗は学生時代から見え隠れしていた。高校の学園祭で演劇を行うことになった際には、演出に面白さを感じた。映画監督にも憧れた。アルバイトでCMモデルの仕事を経験した大学時代には、CM制作への関心が高まった。「いま思えば、人にものを伝えることに興味があったんだよね」。
ムック制作では、アラスカのスキー場へ取材に出かけた。当時としては珍しいスタイルの雑誌だったことから、売上げも好調で、第二弾をつくることに。今度はコロラドへ取材に行く。その時、アスペンで流行っていたダウンベストに目が留まり、レモンイエローを1着買って帰った。帰国後、ヴァン ヂャケット社長の石津謙介氏に見せたところ、VANで取り扱うことになる。これが、日本で最初に輸入販売された『ザ・ノース・フェイス』だという。(その後、取り扱いはゴールドウインに移行する)
3年でVANを退職した内坂さんは、1976年から平凡出版で雑誌『ポパイ』の編集に携わっていく。創刊したばかりの『ポパイ』ではアメリカ西海岸のファッションや若者文化に力を入れていた。スケートボードやフリスビー、ジョギング、ハングライダーといった遊びを伝えていく。
初めて触れるアメリカのカルチャーはどれも刺激的だった。「当時はインターネットもないから、現地へ行って写真を撮ってくるしか方法がなかったわけ。とりあえず現地に行って、地元の人にいろいろ尋ねて情報収集をしていましたよ」。
当時の『ポパイ』編集部。中央に座り足を組んでいるのが内坂さん。
カリフォルニア発祥のウインドサーフィンの人気が高まると、内坂さんものめり込んだ。それまで経験してきたスポーツの中で、これほど気持ちのよいものはなかったからだ。「まず動力がいらないでしょ。海で風を受けて走るわけだから、波の音しかしない。そして、大海原に身体ひとつで入るから、とても危ない(笑)。そういったすべての要素が、すごく面白かったんだよね」。
内坂さんは海や山で一人で行う遊びが好きだという。好きになると、とことんはまって突き詰めなければ気が済まない。ウインドサーフィンもその一つで、夏休みになると、世界で一番いい波が来ると言われているハワイのマウイ島まで出かけた。「貿易風が吹いて、晴れた台風みたいな天気なんだよ」。
「体」じゃなくて「カラダ」なんだ!
1986年『ターザン』の立ち上げに参加した。モノやファッション文化を発信するのが『ポパイ』ならば、アート系情報を発信するのが『ブルータス』、そして『ターザン』は体や健康がテーマという位置づけだ。
「まだ日本にフィットネスという言葉もなかった頃で、ボディビル道場とか、美容体操といった言葉が使われていました。スポーツジムもなくてね。 “健康=病気でないこと” くらいのイメージだったから、積極的に健康になろうという意識や文化は芽生えていなかったな」。
その当時の「健康」という言葉には「楽しい」イメージは付帯していなかった。もっと前向きに健康を伝えていこうというコンセプトで誕生したのが『ターザン』というわけだ。
ここで、内坂さんの言葉のセンスが遺憾なく発揮されていく。「体」「身体」という表記しかなかった時代に、いきなり誌面で「カラダ」とカタカナ表記を取り入れた。いまでこそ当たり前に使われているが、その頃はどこにもなかった。
「出版社では文字表記や内容をチェックする校閲という役割の人がいるんだけれど、その校閲さんからダメ出しが出てね。何度も直される(笑)。それを僕は頑としてカタカナにしてくれと交渉して、ようやく社内でも標準表記になりました。いまでは大手新聞社でも“カラダ”と書いたりするくらい世の中に浸透したけれど、そうなるまでには30年もかかったんだよね」。
この頃は、スノーボードに夢中だった。バックカントリー・スノーボードを楽しみにニセコに通い、それでも物足りなくなって、カナダまでヘリ・スノーボードに出かけた。「リフトの代わりにヘリで山へ飛んで行くんですよ。一緒にヘリに乗っていたのは外国人ばかり。ガイドがいて、ひとつの山を滑ると次の山へと連れていってくれる。午前に5本、午後に3本。お昼になると温かなスープやサンドウィッチが山頂まで運ばれてくるんだよ。これを一週間続けるの」。まさに大人の究極の遊びだ。
石川弘樹が運んできたトレイルラン
2004年秋、プロトレイルランナーになったばかりの石川弘樹さんと知り合う。誌面でホノルルマラソンを目指す〈チームターザン〉という企画を立ち上げた際、読者参加者の一人としてチームに入ってきたのが石川さんだった。
アメリカでトレイルランに出会い、それを日本で伝えたいという想いを抱いていた石川さんに連れられ、内坂さんは初めて箱根にトレイルランに出かける。「雨上がりで路面がツルツル滑って、何度もお尻を打って。ちっとも楽しくなかったんだよね(笑)」。
ところがその後、地図を買い、奥多摩エリアまで一人で走りに出かけてみた。すると、自分でルートを探す面白さを発見する。
翌2005年春から、さっそくターザンの誌面で『トレイルランガイド』をスタートした。最初はギアなどを紹介していたが、次第に国内のさまざまなトレイルに取材に出かけるようになった。
最初の大きな転機が訪れたのは、2008年のことだ。
前年、箱根で開催された伝説的なトレイルランレース『OSJ 箱根50K』で鏑木毅さんが優勝し、フランス・シャモニーで開催される『ウルトラ・トレイル・デュ・モンブラン(=UTMB)』に招待された。そのレースの様子を、鏑木さんやサポートをしていたゴールドウインの三浦務さん、撮影を担当したフォトグラファーの柏倉陽介さんから熱く語られ、内坂さんは興味を持った。
「まず、160kmという距離に度肝を抜かれた。総距離100マイルで、標高差累積が10000km、エベレストより高いじゃないかと。日本とは全く違うスケールの大きさですよ。これは行かなきゃと思って、2009年から毎年取材に行くようになりました」。
その頃、主にUTMBで活躍していたトレイルランナーは、鏑木毅さん、横山峰弘さん、松永紘明さん、間瀬ちがやさん、大内直樹さんなどだ。各エイドを取材しながら、同時に選手のサポートも行った。
長い距離を進む間には、さまざまなドラマがある。どんなに力のある選手でも、胃腸を壊して食べ物を受けつけなくなることがよくあった。そんな選手たちに寄り添い、励ましながら、前へ前へと進ませた。この時、人をサポートすることの面白さに気づく。「トレイルランというのは100kmを境に別の次元に入っていく。全然違う世界になるんだなと、しみじみ感じたんです」。
トレイルランナー・渡邊千春さん(左から2番目)ともUTMBを通して知り合った。
映画の主人公になれる100マイルレース
さらに、二度目の転機が訪れる。
トップアスリートのサポートをしていたところ、自分でも出来るのではないかという気持ちが芽生え始めた。「こんな面白そうなこと、自分でやらないのはもったいないなと思ってね(笑)」。
そして、2011年に『信越五岳トレイルランレース(110km)』にチャレンジ。それまでにトレイルを走った最長距離は50kmだったが、親友でアウトドアに精通した木村東吉さんにペーサーを頼み、見事、完走した。
翌2012年は、『ウルトラ・トレイル・マウントフジ(UTMF)』の『STY』カテゴリーを完走。出走資格となるポイントを獲得し、同年夏に『UTMB』のカテゴリーのひとつである『CCC(101km)』に挑戦する。
大会数日前からレース中は吹雪くという情報が入り、街のアウトドアショップで暖かいアンダーウェアを調達した。
予想通り、コース上で最も標高の高いグラン・コルフェレは吹雪。まつげは凍り、カラダは濡れてびしょびしょ。チェックポイントに紅茶とスープが用意されていたことから、紅茶を飲もうと立ち止まった途端にカラダが急激に冷え、震えが止まらなくなった。低体温症。スタッフに「ここで止めろ」と言われるが、ザックに入れていた乾いた衣類に着替えればきっと持ち直すと考え、とにかくカラダをこすって、何杯もお茶を飲んで1時間で快復した。結果、無事に完走を果たす。「この経験がものすごく強烈でね。もう、みんなもやれよという気持ちになったんです」。
2013年、2回目の『CCC』は晴天。
100マイルレースの魅力を、内坂さんはこう力説する。
「まるで自分が映画の主人公になったような感覚ですよ。何かと戦っているわけではないんだけれど、ヒーロー気分満載で。100km未満と100kmを越えたレースでは物語が全く違う。100マイルは、たとえていえば、自分で映画をつくるような感覚なんだよね」。
自分で脚本も書き、監督にもなれて、主役も演じられる。それが100マイルレースだという。「途中でダメになっても、また復活したりする。這いつくばって、なんとかゴールする人もいれば、元気なままで笑顔でゴールする人もいる。それぞれが、自分だけの物語をつくれるわけですよ」。
科学と、セルフプロデュース
ロングレースのもう一つの面白さは、科学的であることだと内坂さんは考えている。
筋肉の収縮とエネルギー摂取、筋肉疲労。これらをちゃんと理解すれば、どんどん楽に走れるようになるし、速く走れるようにもなる。「もちろん、僕自身はアスリートではないから限界はある。だからこそ、アスリートにそのノウハウを還元したい。チームターザンでアドバイスをしたり、サポートをしたりするのはそれが理由です。可能性のある選手に、よい成績を収めて欲しいんだよね」。
せっかく持っている力を100%出し切れていない選手が日本には多い、と内坂さんは感じている。胃腸の問題を抱える選手が多いのも、そのひとつだ。それはおそらく科学の力で解決できる。
2012年と2013年に『CCC』を完走した内坂さんは、それ以降、選手のサポートに力を注ぐようになった。まずは、『UTMF』『UTMB』を完走させるための〈チームターザン〉を結成。そこに応募してきたのが、現在アスリートとして目覚ましい活躍を見せている大瀬和文さん、原公輔さん、松田梓さん、加藤元毅さんの4人だった。
東海大学陸上部出身の大瀬さんは、チームターザンを通して、初めてトレイルランのロングレースを経験した。2014年『UTMF』で19位、2015年『UTMB』23位という好成績を収める。
(上) 『UTMB』で大瀬和文選手をサポートする内坂さん。ノンサポートだったノースフェイス香港のアスリート、ストン・ツァン選手を急遽サポートすることに決めたゴールドウインの三浦務さん。(下)感動のゴールシーン。最後まで補給も万全だった。
大瀬さんが『UTMB』に参戦する際には、過去に出走した同じくらいの走力の選手をサンプリングし、タイムやペースを参考にしたという。「幸いにもUTMBでは、エイド間のペースなどが記録されています。それでザ・ノース・フェイス香港のストン・ツァン選手を参考にしました。何度も出場していて、セルフマネージメント力のある選手だからです」。
人を走らせるのは面白い、と内坂さんはいう。日常の食事からトレーニングまでアドバイスをして、レース戦略も立てていく。そのプロセス自体に魅力を感じている。
2016年は『CCC』に出場する上田瑠偉選手のサポートを行った。ここでも食事に気を配り、出来るだけ食べ慣れたものがよいと考えて、調味料やお米を日本から持参して日本食を準備した。「せっかくトレーニングを積んできたのに、胃腸が理由で実力が出し切れないのはもったいないでしょ」。
“トレイルランニング界のプリンス” と言われ、多方面から期待が高まる上田瑠偉選手について、内坂さんはこう話す。「彼はすごく頭がいいんですよ。アスリートとして、いろんなことをちゃんと考えている。前年のCCCでは脱水症状になってしまったけれど、それでも走り切っています。完走さえすれば、次にその全行程の経験を活かせますからね。2016年は前年の失敗を活かして、準備も滞りないものでしたよ」。
各エイドに先まわりしながら、上田瑠偉選手をサポート。補給のアドバイスをしたり、マッサージをしたり。
準備のひとつが、登攀力の強化だった。日本では延々と登ったり、下ったりする大会は少ないが、累積標高の高いレースを選び、積極的に経験値を上げる努力をしてきたという。『CCC』を走る間も脱水にならないよう、経口補水液での水分補給を徹底するだけでなく、カラダに水をかけて体温を下げる工夫をした。
「選手の魂を撮ってくれ」
今回、この記事の写真を手がけてくださったフォトグラファー・藤巻翔さんと内坂さんとの付き合いは長い。「2009年から毎年一緒にUTMBを取材しています。僕は昔から、写真はプロに撮ってもらう主義なんですね。餅や餅屋だから。写真はプロに任せて、自分は自分の仕事をする、そういうスタンスです」。
レース写真で大事なのは、フォトグラファーとしての技術や経験だけではないと内坂さんはいう。「トレイルランやそれに関わる人に対する愛情だよね。それがあるかどうかが一番大事なことだと思う。撮ってあげたい、撮りたいという情熱こそが、いい写真に繋がると思っているんですよ」。
そんな内坂さんが『UTMB』の取材でカメラマンに願うことはただ一つ。「選手の魂を撮ってきてくれ」。
もちろん景色も大切だが、それ以上に選手がどんな想いで走っているのかを伝えたいからだ。「そういう意味では、背景にアイガーがあろうが、グランドジョラスがあろうが、僕はどうでもいいとすら思っている(笑)」。
最後に「編集者の仕事とは?」とたずねてみた。
「そうだね、編集者の仕事で何が面白いかというと、いちばんは人の人生を見られることじゃないかな。編集者という立場だと、相手がOKさえすれば何でも聞けるわけでしょ。活字にできないことは原稿にしなければいいわけだから。相手が世界の鏑木毅でも山本健一でも、錦織圭でもイチローでも、どんなにトップ選手であっても、彼らの人生について話を聞くことができる。それって、素晴らしいことだと思うんだよね。そういう意味でも、僕はこの仕事が大好きなんです」。
インタビューとはその人の人生の物語を見せてもらうことだ、と内坂さんはいう。それをどう伝えていくかが編集者の仕事だとも。
「まさに、学生時代に憧れた映画監督と同じ。好きなことを仕事にしているというのは、ものすごく幸せなことだと思う」。
愛すべき世界を、情熱を傾けて人に伝えていく。ときに自らが映画の主役になることもあれば、誰かを描く監督にも、物語を構築する脚本家にもなる。内坂さんにとっての『UTMB』は、それらすべてが表現できる最高の舞台なのかもしれない。
Photo:Sho Fujimaki
Text:Yumiko Chiba
2017-03-25