日本におけるプロアドベンチャーレーサーの草分けとして、常にトップを走り続けている田中正人さん。90年代後半から群馬県みなかみ町を拠点に『チームイーストウインド』を率いて、世界のレースに挑戦している。なぜアドベンチャーレースの道を選んだのか。チームリーダーとして、過酷なレースにどう立ち向かってきたのか。
イーストウインドのメンバーが所属するアウトドアのイベント会社『カッパクラブ』を訪ね、田中さんの自主トレーニングに立ち会った。
化学研究者からの転身
田中正人さんというと、ストイックでどこか厳しいイメージを抱く人が多いかもしれない。論理的かつ明解な話しぶりが特徴の田中さんは、事実とてもストイックなのだが、一方ではユーモアに溢れていて、いつも話術でまわりを楽しませくれる。ときには「自虐的過ぎるのでは?」と思えるほど、自らを俯瞰した目で冷静に捉えている。
そんな田中さんは、どのようにしてアドベンチャーレースと出会ったのだろう。
埼玉県の志木市出身の田中さんは、学生時代、オリエンテーリングの選手として活躍していた。社会人になってからも『多摩オリエンテーリングクラブ』に所属し、毎週末、高尾や陣場などの山々を走り回っていたという。
転機が訪れたのは、1993年のことだ。第一回『日本山岳耐久レース(ハセツネカップ)』に出場し、見事に優勝を果たす。71.5kmを24時間の制限時間内で走破する『ハセツネ』は、『富士登山競走』や『大山登山マラソン』といった既存の山岳マラソンとは一線を画した新しいスタイルの山岳レースとして、当時、大きな注目を集めた。
「夜も動き続けるというレースが登場したことで、スポーツ紙にも掲載されました。この優勝をきっかけに、レイド・ゴロワーズというレースにチャレンジする間寛平チームに誘われ、翌年アドベンチャーレースの世界に足を踏み入れることになったのです」
アドベンチャーレースでは山や川、海、洞窟、ジャングル、砂漠、氷河などあらゆる自然が舞台。男女混成チームで協力し合い、主催者から与えられたコースマップを見ながら、コンパスを頼りに進んでいく。選手たちは、トレッキング、マウンテンバイク、パドリング、ロープワークなどの多様なアクティビティをこなさなければならない。
世界標準とされる競技条件は……
1)男女混成でチームを構成。
2)どの種目においてもナビゲーション能力が求められる。
3)タイムはスタートからゴールまでノンストップ。夜間行動もあり。
4)レース日程は3日間以上。
体力、知力、精神力、適応力を駆使して自然と調和し、仲間と力を合わせながらゴールを目指すスポーツだ。
当時の田中さんは、有機合成化学の会社に務めていた。天然ゴムや合成ゴムに薬品を混ぜて、目的に合わせた素材をつくるという仕事。
「混ぜる薬品を変えることで、ゴムの柔軟性や伸びといった性質が変化するんです。硫黄系化合物を添加して、橋かけ構造(バネ化)にするわけですね」
なんとも楽しそうに話す。ものごとを探求することが大好きな根っからの研究者気質。
「硫黄化合物は毒性が強くて、普通の会社では扱いたくない薬品。僕のいた会社ではシアン系化合物も扱っていたので、防毒マスクをして、作業着を毎日、焼却処分していたこともありましたね。常にすごい緊張感で、楽しい職場でしたよ(笑)」
アドベンチャーレースで思い知らされた自分の弱さ
そして1994年、ボルネオ島で開催された『レイド・ゴロワーズ』に出場、日本人で初めて完走した。
「表向きのリーダーは寛平さんでしたが、ナビゲーションが出来る人が戦略を立てるので、実質のリーダーは自分が担っていました。でも当時の僕は本当に協調性のない人間で。まぁ、いまでもそれほど協調性があるとは思えませんけれど(笑)」
オリエンテーリングも山岳マラソンも、一人で行う競技。一方、アドベンチャーレースはチーム競技だ。不安もあった。
「実際にレースに出てみて、チーム競技の難しさを痛感しました。人間としての自分の至らなさを嫌というほど思い知らされたのです」
田中さんはそこで何を見たのか。
「リーダーなのに、チームを上手く回せない自分自身の姿です。体力は人一倍あったので、無理矢理に他のメンバーを振り回そうとしていた。だから誰もついてこない。人に対して、全く配慮できていませんでした」
レースの3日目、温厚で知られる寛平さんがついに切れた。
「俺にいちいち命令するな」と怒鳴られ、半日くらい口をきいてくれなかった。弟子にも怒らないことで有名な寛平さんが声を荒げるのは10年に一回あるかないか。それだけに、周囲は驚いたという。「自分がいかに自己中心的であるか、初めて気づかされました」
普通ならその時点で、おそらくアドベンチャーレースの世界からは遠ざかってしまうだろう。ところが田中さんは違った。翌年には8年間勤めた会社を辞め、アドベンチャーレースに人生を賭けることに決めたのだ。
「自分に一番足りていないものが学べるから。理由はそれに尽きます」
人は誰でも大なり小なり、弱い部分を抱えて生きている。その弱さに目を瞑ったり、なんとか折り合いをつけたり、妥協点を見いだしたりして日々を暮らしているのではないか。
田中さんはそんな自分に決着をつけようと思った。最も弱い部分と向き合うために、あえて退路を断つ。当時、プロのアドベンチャーレーサーは日本にもちろん存在しない。
「自分としては、とても自然な流れで会社を辞めました。たいそうな感じでは全然なくてね」
人づき合いが苦手で、だからこそ研究職を選んだ田中さんだったが、楽な方法ばかり選んで生きていてはダメだと気づいたのだという。
その頃のチームメイトに、海洋冒険家の白石康次郞さんがいた。自ら信じた道を突き進む白石さんに背中を押された部分もあった。
「アドベンチャーレースの世界で、フリーで仕事をするジャーナリストやカメラマンにも出会いました。彼らは受け身ではなくて、自分で仕事を動かしている。その姿を目の当たりにして、自分の力だけでもこの世の中は勝負できるのだと知ったのです。それまでの自分の価値観が打ち砕かれました」
チームを創設して数年間は、極貧生活だった
田中さんがみなかみ町(旧、水上町)に住み始めたのは、アドベンチャーレーサーになって数年後のこと。最初は、埼玉の自宅からみなかみまでラフティングの練習に通っていた。そこで川下りのスペシャリスト小橋研二さんと出会い、二人で事業を始めることに。1996年、ラフティングツアーを中心とするスポーツイベント企画会社『カッパクラブ』を立ち上げる。
当初、生活はとても苦しかった。貯金を切り崩して生活していたという。
「それも2年くらいで底をつきました。本当にお金がなくて、みなかみ温泉街の酒屋さんの倉庫にラフティングの道具を置かせてもらったり、トレーニング室として使わせてもらったりしていました」
お礼に店の品出しを手伝い、時にはご飯も食べさせてもらった。
「その酒屋さんがコンビニのような店も経営していて、サンドウィッチを売っていたんです。パンの耳をもらって食べたり、豆腐屋さんでおからをもらったり、スーパーで廃棄する葉物野菜の外側の部分をもらって食べたりしていましたね。そんな生活が2000年頃まで続きました」
当時のチームメイトには、横山峰弘さん(トレイルランナー)や平賀淳さん(山岳カメラマン)、谷口けいさん(登山家)もいた。
「苦しかったけれど、この頃が一番楽しかったな。知識もないのに近くで適当に山菜を採ってきては、みんなで闇天ぷらもしていましたよ(笑)」
乗馬、ケービングのトレーニングも
現在のアドベンチャーレースの種目は、トレッキング、マウンテンバイク、カヤックがメイン。エントリーが始まると、約半年前には種目がアナウンスされる。かつてはインラインスケートや乗馬、ラクダに乗る競技もあったという。もちろん、種目に合わせて田中さんも練習した。
「早稲田大学馬術部に週5日、3ヶ月間通いました。1年生と同じ待遇でいいからと言って入れてもらったので、9割が馬の世話。でもそれがよかった。馬は乗る技術以前に、コミュニケーションが大切なんですよ」
スキューバダイビングが競技に含まれていた際には、ライセンスも取得した。
印象深かったのは、ケービングのトレーニングだ。
「洞窟の中を歩く種目があるんです。それも大きな洞窟ではなくて、身体ひとつやっと入るくらいの小さな穴。奥多摩に一般の人が決して入らないような鍾乳洞があって、そこへ早稲田大学探検部のOBに連れていってもらいました」
肩をすぼめて入ったが、進むとどんどん穴が小さくなっていく。次第に穴がまっさかさまになり、さらにクランク状に折れ曲がった。その狭い通路を何人もの人が連なって入っていく。
「もう本当に衝撃で。そのままでは戻れませんよね。最後に大きな空間に行き着くので、そこで逆向きになり戻るんです」
90年代には1億円程度の予算を有する大会もあり、より冒険的要素の強いコースも設定されていたとか。その頃に比べて、近年はだいぶ穏やかなコース設定になったが、そんな中でも、イーストウインドが好んでチャレンジするのは、未開地を多く含む『パタゴニア・エクスペディションレース』だ。
「パンの耳でも子どもは育ちます!」
チームイーストウインドの活動を陰で支えているのが、田中さんの奥さまの竹内靖恵さん。1997年、『レイドゴロアーズ・南アフリカ大会』に出場する際、通訳として同行したのが出会いだという。まだまだ生活が不安定だった2001年、結婚する。
結婚を許してもらおうと、愛知県にある靖恵さんのご実家へ挨拶に行った田中さんは、そこでお義父さまにこういわれた。
「心配ごとが3つある。ひとつはアドベンチャーレースが危険なスポーツだということ。二つめは、年をとったらどうするのかということ。三つめは、これからどうやって食べていくのかということ。パンの耳だけじゃ子どもは育たんぞ!」
田中さんはその日のことを、こう振り返る。
「僕は思わず『お義父さん、パンの耳でも子どもは育ちます!』と言い返しそうになったのですが、それを言ったら終わりだと思い、なんとか飲み込みました。ひとつめの質問には『アドベンチャーレースはリスクマネージメントがきちんとできるスポーツです』と答え、二つめの質問には『将来は指導者になります』と答えて、なんとか許してもらえたのです」
結婚当初、さまざまなアルバイトをして家庭を支えようとしていた靖恵さんだが、田中さんの希望もあり、次第にイーストウインドのマネージメントに専念するようになる。開催国によっては、レースに際してさまざまな障害が立ちはだかる。銀行のストライキで送金したお金が届いていなかったり、現地で預けた道具がいつまでたっても日本に戻ってこなかったり。
そんな状況も笑い飛ばしてしまう靖恵さんの大らかさは、チームにとってなくてはならないエネルギーだ。
異なる想いを抱えながら、レースではひとつの目標に向かう
田中さんが自分の弱さを克服するためにアドベンチャーレースの道に入ったように、他のメンバーもそれぞれの想いを抱えながら、アドベンチャーレースに人生を賭けている。
「みんなで一つの目標に向かうわけですが、根っこにあるものはバラバラです。一人ひとりが、異なる目的や価値観を持っている。その解決策として、アドベンチャーレースに挑戦するわけですね。みんながお互いの夢を共有して、誰かが危機に陥れば、その仲間のために協力する。自分の夢だけじゃなくて、みんなの夢のために力を尽くす。それがアドベンチャーレースの醍醐味です」
20年近くレースを続ける中で、たくさんの仲間とチームを組んできた。中でも最も人間的に成長したのが、『百名山ひと筆書き』『二百名山ひと筆書き』の挑戦で人気者となった田中陽希さんだ。
「彼は2011年のパタゴニアのレースですごく変わりました。それまでは他人に責任を求める部分が強かったけれど、レースの模様がNHKで放映され、自分の姿を客観的に観たたことで猛省したのです。彼は素直で、心に思ったことは黙っていられない性分。それまでは余計なことまで言ってしまい、軋轢を生んでいたのですが、そんな自分に真っ正面から向き合った。翌年のレースでは自分を変えようと闘っているのが伝わってきました」
田中陽希さんを変えたという2011年の『パタゴニア・エクスペディションレース』は、これまで出場した大会の中でも、とりわけつらいレースだったという。女性メンバーの和木香織利さんが骨折をしたり、4日間、雨が降り続いて低体温症になるメンバーが出たりした。
「みんなギリギリの状態でした。気持ちだけ前向きになるように声をかけあって、なんとか乗り越えたのです」
極限状態に達したとき、往々にして女性は理屈よりも感情を優先しがちだが、和木さんは女性としては珍しく理論で考えるタイプだった。映像にも、冷静に自分の置かれた状況を把握し、前へ進むことを決断する姿が映し出されている。
暗黙の了解で、レース中は極力、ネガティブな言葉は使わないようにするという。たとえば凍るように冷たい川を渡る時でも「ひやっとして涼しいね」といったり、灼熱地獄でも「この間の〜〜よりずっと楽だよ」といったり。
「理想は10年くらい同じメンバーで続けること。でも女性は結婚や出産があり、競技を継続することが難しいですよね。男性も仕事や家族があって、夢ばかり追い続けられないという現状があります」
女性メンバーが放った、強烈なひと言
論理的で忍耐強く、常に穏やかな印象の田中さんだが、かつては怒ってばかりいたという。現在のような境地に至るには、多くの経験と葛藤が必要だった。
「そうですね、昔は『喧嘩上等!』くらいの気構えで、いつもイライラしていました。なんでみんな自分についてこられないのかとね」
あるレースで、衝撃的な経験をする。トライアスリートだった女性メンバーに、こう言われたのだ。
「キャプテンは、人のやる気をなくさせる天才!」
アドベンチャーレースに対して誰よりも情熱を持ち、人一倍、努力していると自負していた田中さん。ところがある過酷なレースの最中、自分がやる気を出せば出すほど、メンバーの士気が減退していくのを感じていた。その時に言われたのが、この言葉だった。
ナビゲーションのミスが重なって焦り、いつも以上に無理に仲間を引っ張っていた時のこと。チーム内の雰囲気はかつてないほど険悪になり、どうにも手が着けられなくなっていた。
ここで、さらに衝撃的な出来事が起こる。
特に秀でたところもなく、いてもいなくても同じとさえ思っていたある男性メンバーが突然、口笛を吹いたのだ。すると、それまで停滞していたチームの空気が一変。みんなの気持ちが上がっていった。
「それまで僕は心のどこかで、彼のことを馬鹿にしていたのです。取り柄のない奴だと。ところが、彼が口笛を吹いた瞬間にチームの空気が変わった。その時、僕は彼に完全に負けたんだと思い知りました。リーダーシップというのは力尽くで引っ張ることではない。みんなのやる気を引き出すことなんだと覚ったわけです」
その後、田中さんはリーダーとは何か、深く考えるようになる。リーダー論を記したビジネス書も読みあさった。
もっとも弱い人を、チーム全員で引き上げる
人は一人ひとり違う。アドベンチャーレースでは、それを深く理解することが重要だと田中さんはいう。
国内レースに出場する際、イーストウインドではダントツの成績で優勝することを目標に掲げている。そして実際に、2位と大きく差をつけた優勝を重ねてきた。勝つために注力していることは、各自の違いをきちんと受け止めるということだ。
「たとえば、現在のメンバーであるトレーニング生の西井万智子は経験も浅く、まだ決して強い選手とはいえません。それでも国内レースでは、イーストウインドは圧倒的に勝てる。メンバーが4人いれば、どのチームでもレベルに凸凹が出てきます。その最低レベルを比べると、おそらく他のチームよりもうちは弱いでしょう。ではなぜダントツで勝てるかというと、チームとして一番弱い人を常に引き上げているからなんです」と田中さんは言葉に力を込めた。
他のチームがポテンシャルが高くても勝てないのは、本来持っている力を発揮できていないからだという。
「よくあるのは、体力があって速い人が先に行ってしまい、遅い人を待つパターン。これだと速い人はイライラするし、遅い人は焦るばかり。でもうちはチームワークが何かを理解しているので、いかに遅い人を引き上げるかだけを考えます。言い換えれば、チームの力を平均的にならすということ。そのために行うことは、まず一番速い人が遅い人の荷物を持つ。そして、牽引できるところはレースの序盤から牽引していきます」
他のチームは、疲れてペースダウンしてから遅いメンバーを牽引するケースが多い。女性はどうしても男性より体力が劣りがちであるから、それをどうカバーするが戦略の鍵を握る。
「バイクのセクションなら、一人が遅い人を牽引して、一人がナビゲートして、一人がさらに後ろから押す。そうすれば、全員が力を出せるでしょう。速い人が先に行ってしまうのは、力を持て余しているということ。その力を遅い人に与えれば、チーム全体が速くなる。いかにここに集中できるかがアドベンチャーレースの要です」
国内のアドベンチャーチームは、まだまだこうした意識が欠けていると田中さんは分析する。
土合駅での階段トレーニング
日常の自主トレーニングは、お嬢さんと一緒に毎朝、学校までの道のりを走るロードランのほか、自宅からスキー場までのランニング、カッパクラブの2階に設置されているバイクのローラー台やカヤックのエルゴマシーンを使った練習などだ。
時折、階段トレーニングとしてJR上越線の土合駅に行く。駅舎からホームまで462階段を下りる土合駅は、「日本一のモグラ駅」として知られている。階段を見に無人駅を訪れる観光客も多く、ホームまでは自由に出入りできる。
その階段を、田中さんは1時間から1時間半、一段抜かしで上り下りする。雨でも雪でも大丈夫、全天候型の練習場所だ。
「各種目1時間くらい、毎日3〜4時間トレーニングするのが理想ですね。昨年の初夏までは上手くサイクルが回っていたのですが、ウルトラトレイルレースなどを撮影するランニングカメラマンの仕事で海外に行くこともあるので、なかなか継続するのが難しいのです」
女性メンバーの西井さんとともに、週一回、この階段を10往復していたこともある。同じような練習をする人を見たことはなかったが、一度だけ、競うように上り下りを繰り返す人に出会った。話をしたところ、谷川岳の警備隊に所属するおまわりさんだったという。
年に1〜2回出場する海外レースに向けて、半年ほど前から段階的にトレーニングの負荷を高めていく。3ヶ月ほど前になると、10kgのおもりを入れたザックを背負ってランニングをするようになり、徐々に20kgまで重さを加えていく。
“潔さ” のうちにあるもの
トレーニングの間、田中さんはたったひとり自分の世界の中にいた。マシーンに向き合う時間の中で、私たちの存在はまるで意識の中にないようだった。その集中力は、並大抵のものではない。邪魔にならないようにと傍らにたたずみながら、そう強く感じた。
人生のすべてを「アドベンチャーレース」に賭けるということ。
その潔い生き方には、「もし、この世界でダメだったら」という憂慮や後ろ向きの想定は微塵もない。自ら選んだ生き方に全く迷いがない。
そして自分が長年かけて切り拓いてきた道を、後から誰かがしっかりと踏みしめてくれることを心から願っている。いま、その願いも少しずつ形になろうとしている。
静かな部屋でひたむきにペダルを漕ぐ田中さんの背中を見ながら、「はたして自分はどこまで真剣に生きているだろうか」と自問せずにはいられなかった。そして、ある一つの言葉がふいに浮かんだ。「尊さ」という言葉だ。
【 Profile 】
田中 正人 Masato Tanaka
1967年、埼玉県生まれ。1993年第一回『日本山岳耐久レース』で優勝。イベントプロデューサーの目に留まり、翌年『レイドゴロワーズ・ボルネオ大会』に間寛平チームとして出場し、日本人初完走を果たす。アドベンチャーレースとの出会いをきっかけに、8年間勤めた会社(大内新興化学)を退社し、プロアドベンチャーレーサーの道へ。数多くの海外レースに参戦し、国内第一人者となる。
主な戦績:1993年『第一回日本山岳耐久レース』優勝、1994年『レイド・ゴロワーズ/ボルネオ』15位、1997年『レイド・ゴロワーズ/南アフリカ』11位、『エコ・チャレンジ/オーストラリア』特別賞受賞、1998年『サザントラバース』5人クラス4位、1999年『クロスアドベンチャー/長野県』6位(国内1位)、『エコ・チャレンジ/アルゼンチン』15位(日本人チーム初完走)、2000年『レイド・ゴロワーズ/ヒマラヤ』)14位、『エコ・チャレンジ/マレーシア』13位、『クロスアドベンチャー/岐阜県』3位(国内1位)、2001年『エコ・チャレンジ/ニュージーランド』11位、2003年『マイルドセブン・アウトドアクエスト』12位、2004年『セルフディスカバリーアドベンチャー』総合優勝、『トランスアルプスジャパンレース』優勝、2007年『ウーロンマウンテンクエスト/中国』15位、2008年『トランスジャパンアルプスレース』優勝、2010年『パタゴニア・エクスペレディションレース/チリ』7位、2011年『パタゴニア・エクスペディションレース/チリ』5位、2012年『パタゴニア・エクスペディションレース/チリ』準優勝、2013年『パタゴニア・エクスペディションレース/チリ』準優勝。
●チーム イーストウインド プロダクション
http://www.east-wind.jp/team/
Place:MINAKAMI,GUNMA
Photo:Shimpei Koseki
Text:Yumiko Chiba
※ このインタビューをきっかけに、書籍を企画編集しました。
田中正人&田中陽希 共著『アドベンチャーレースに生きる!』(山と溪谷社/2017年2月発売)アドベンチャーレースに人生を賭けるW田中の生き様、チームスポーツならではの葛藤、チームイーストウインドの20年をまとめています。ぜひご高覧ください。