人生観を変えたスペイン巡礼の旅 〜八木康裕さん(パタゴニア日本支社)

南足柄のご自宅近く、いつもジョグする河原の遊歩道で。春には桜が咲く

「これまでは一人で旅をするのが好きだった」というパタゴニアの八木康裕さん。

スノーボード競技に取り組むため10代の終わりに渡米し、27歳で帰国した後に現在の職に就いた。入社後しばらくはパタゴニアで取り扱うすべてのスポーツを体験し、最終的に行き着いたのがトレイルランニングだったという。それからは国内外のレースに出場したり、さまざまなトレイルトリップを楽しんだりしてきた。数年前からは大会を支える裏方として『信越五岳トレイルランニングレース』の事務局長も務めている。

そんな八木さんが2019年、思い立って出かけたのがスペインの巡礼路『カミーノ・デ・サンティアゴ』だ。聖ヤコブの遺骨が埋葬されていると言われれている聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラは、エルサレムやバチカン市国とともにキリスト教三大巡礼地のひとつであり、巡礼者たちはいくつものルートからこの地を目指す。

その中で八木さんが選んだルートは総距離780kmの「フランス人の道」。当初は18日での踏破を想定していたが、実際には途中に寄り道などしながら進んだため、総距離810km19日間の旅となった。毎日ほぼフルマラソンを走った計算になる。

一人で走り続けた810kmの巡礼路。19日間は八木さんにとってどんな旅だったのだろう。

日頃は仲間とトレイルラン・セッション。白馬岳にてトレイルランナー&クロスカントリースキーヤーの服部正秋さん、木村大志さんと(撮影:藤巻翔 / 写真提供:パタゴニア)

「自分自身を見つめ直したい」という人が旅をしていた

ーー『カミーノ・デ・サンティアゴ』を走ろうと思ったきっかけは何だったのですか?

八木:社内にお遍路とロングトレイルが好きな仲間がいて、10年くらい前にこの道の話を聞いたんです。調べてみたら結構面白くて、いつか行ってみたいと思っていました。でも長い休みが取れないとなかなか一回でスルーできない。それで、ゴールデンウィークが少し長かった2019年に有給も絡めて行くことにしました。

ーーどんな特長がある道ですか?

八木:個人的にいちばんメリットを感じたのは、巡礼者のための宿「アルベルゲ」があることです。これによりテントを持たずに寝袋だけで旅できる点に惹かれました。途中にいくつもの町や村があるから食料の調達もしやすいし、険しい山岳地帯もほとんどなくてフラットな道がどこまでも続いて走りやすいんですよ。そうはいってもかつては命からがら大変な思いをして辿りつくような旅だったと思うので、そんなところにも惹かれましたね。

もう一つの魅力は世界各国からたくさんの人が集まってくること。全部踏破しなくても、最後の100kmを歩くと「巡礼証明書」がもらえるので、その区間は特にいろんな人たちが歩いているんです。全ルートを踏破しているのは、やはりキリスト教の信者さんが多かった気がしますけれど、それ以外は人生に疲れて自分を見つめ直そうと旅している人たちがたくさんいました。これだけの距離ですから、思いつきで「ちょっと行ってみようか」と歩き始めた人は少なかったですね。

ーールートがいくつもあるそうですが。

八木:そうです。僕が走ったのは最もメジャーで宿も多いルートで、フランスから入ってピレネー山脈を越えてスペインを横断します。ピレネーを越えると高低差は少なくて、メサというエリアなんかはずっとフラットで走りやすい。過去にFKTをしたランナーもいて、サポーテッドスタイルで6日間14時間、セルフサポーテッドで10日間くらいだったと思います。

通行を証明するスタンプ(左)。フランス人の道はもっとも人気のあるルート(右)


ーーどんな準備をされましたか。

八木:旅でいちばん楽しいのはプランを立てるときですよね。今回のような旅なら、できるだけ早く目的地に辿り着く旅にするのか、それともいろんな人と話をしながら寄り道をしていくのかが迷いどころで。せっかく長い日数をかけて行くので、ちょっと負荷をかけてやり切った感も味わいたい。それで、寄り道を楽しみつつもやり切った感を味わうにはどうすればいいかを考えました。そのバランスを考えて計画する時間がもっとも楽しい時間でしたね。

細かな点については事前に完璧には調べなかったんですけれど、道標がしっかりして道に迷うことはなかったです。ホタテ貝がルートのシンボルになっていて、石に印が彫ってあったり、手描きの標識があったり、建物の壁に絵が描かれていたりしました。巡礼者の証として、皆バックパックにホタテ貝をつけています。ここは歩いても走っても自転車でも馬でも通行できる道なので、街中では自転車と歩く人に分かれているところもありました。

ホタテを象った案内が随所にあり、迷わない

ーー宿はどんな感じでしたか。

八木:巡礼者用の宿はアプリで予約できるようになっています。私営と公営があってどちらも手頃な値段なんだけれど、とくに公営は寄付制のところもあり凄く安かったです。その日どこまで走れるか分からなかったので、僕は毎日行き当たりばったりで宿を探していました。到着時間に余裕があるときには夕食をつけて、大きなテーブルで各国から訪れている巡礼者と一緒にご飯を食べました。いろんな話ができて楽しいんですよ。時間がないときには、スーパーで食料を買って部屋で食べたりしていました。そういう毎日なので荷物は本当に少なかったんです。

とくに印象的だったのが、どこへ行っても食べものがとても美味しいこと。トレイル沿いにエイドみたいな場所があって、寄付制で自由に食べられるようにもなっていました。ルート上には自動販売機もあるし、至るところに飲用の水道もあるので、ボトルに500mlくらい持っていけば大丈夫。一箇所だけ、蛇口を捻ると赤ワインが出てくるところがありましたね。僕はお酒が飲めないので飲まなかったんですけれど、みんなペットボトルにじゃんじゃん注いでいました(笑)。

宿に泊まりながらの旅はとにかく食事が美味しかった。ルート上には食料を提供する寄付制の休憩場所やワインが出る蛇口も

ーー巡礼路としての機能が充実しているんですね。

八木:ほんとそう。そこはさすがでしたね。とにかく距離が長いので、いろんな人に出会ったし、大きい町に行くと移動遊園地があったり、お祭りを開催していたりして楽しめました。走っていると、ゆっくり自転車で走破している人と同じくらいのペースになるんです。旅の終わりの5日間はずっと相前後していたドイツ人がいて仲良くなりました。宿も同じだったので、いろいろ話しましたよ。彼は先にゴールしたんだけれど、わざわざ逆走して僕に会いに来てくれて、お別れに記念写真を撮りました。

ーー出会いは旅の醍醐味のひとつですね。

八木:そうですよね。あと印象的だったのは教会です。どんな小さな村にも教会があって、夕方になるとミサを行っていたので、時間が合えば毎日ように参加していました。最初は「自分はクリスチャンじゃないし、教会とか行って大丈夫なのかな」と思っていたんだけれど、毎日参加するうちにミサの進行も理解していって。礼拝の最後にハグをするんですよ。はじめは遠慮していたんだけれど、最後の方には慣れてきてハグもして。ほんと心洗われる時間でしたね。

ーー旅とともにミサへの参加が自然になっていくというプロセスもいいですね。その土地を全身で味わっているようで。

八木:馴染んでくるんですよね。歩いているうちに、だんだん穏やかな気持ちになっていった気がします。

スタートから感謝の気持ちが溢れた

ーーこの時期にこの旅をしようと思った理由はあったのですか。

八木:ちょうど仕事が忙しくなってきたタイミングだったんです。日々忙殺されていて気持ちをリセットしたいなという想いがありました。そんな状況で旅に出たわけですけれど、巡礼路を走っているうちに汚れかけていた自分の心が少しずつ浄化されていって、旅が終わる頃にはいい人になれた気がしました(笑)。これだけいろんなことを考えられる時間は、日常の生活ではないですからね。

誰かとしゃべりながら進むときもあれば、一人で黙々と進むときもあって。なにせ時間がたっぷりあるから、自分自身についていろんなことを考えたり、出会った人たちの話をじっと聞いたりするんです。


ーー19日間の旅のどのあたりから変化が生まれましたか。

八木:まず、日本からフランスのサンジャンピエドポーというスタートの村まで行くんですけれど、そこまでがもう結構な時間と距離なんですね。飛行機に乗って、長距離列車を乗り継いで。巡礼路では初日にピレネー山脈を越えなければならないので、天気の回復を待つために村で一日停滞し、ようやくスタートしました。その瞬間からもう、感謝の気持ちが抑えられなくなってしまって。

歩いている人みんな同じような気持ちだったみたいで、口々に「旅がスタートできてよかったね」とか「本当にありがたい。みんなに感謝だよ」なんて言い合っていました。

歩き初めてからは行く先々でいろんな巡礼者の人たちのストーリーを聞いたんですけれど、ディープな話もあってね。「甥っ子が死んでしまってこの旅に出ようと思ったんだ」とか「人生の節目で仕事を辞めてこの旅に来たんだ」とか話してくれるわけです。みんな何かしら理由があってここに来ているので、そういう話を聞くうちに改めて「自分は幸せだな」とか「いろんな人生があるんだな」とか思いながら、生きている有り難みを感じました。

だから旅の間中、ずっと感謝の気持ちが溢れているような、そんな感じでした。

手を繋いで歩く老夫婦に憧れて

八木:これほど世界各地の人たちと会える場所って、そうそうないでしょう? しかもロングトレイルを旅しながらね。ヨーロッパ全土からの巡礼者はもちろんのこと、韓国からの旅人も多かったですね、映画かドラマの舞台になっているらしくて。あとアメリカ人も結構いたかな。

この道をスルーするのは時間もかかるので、現役をリタイアした人も多かったですね。老夫婦もたくさんいて、手を繋ぎながら歩いているご夫妻を見るとすごくいいなと思ったりしました。

ーー日本ではなかなか見られない光景かもしれないです。

八木:そうですよね。僕、この旅に出るまでは結婚とかするつもりは全然なかったんだけれど、仲の良い老夫婦を見ていたら、年を重ねてこういう旅ができる相手がいたらいいなと、そう強く感じるようになりました。

それで旅が終わった後、「自分も結婚してみてもいいかな」と大きな心境の変化があったんですよ。そうしたら本当に出会うきっかけがあって。

ーーその流れはすごいですね。

八木:仕事仲間に世話好きがいて、前からずっと「結婚はいいよ」と言われていたんです。

その仲間に、旅を終えて帰ってきたとき「何か心境の変化はあった?」と聞かれて、「老夫婦を見ていたら結婚もいいかもなと思ったよ」とちらっと話したら、すぐに彼がアクションを起こして(笑)。いま僕が一緒に暮らしている女性を紹介されたんです。

ーー篤い友情ですね(笑)。


地元・南足柄でのトレイル保全活動

ーー少し旅から日常のお話に変わるのですが、今日お邪魔している南足柄のご自宅に引っ越す前は、葉山にお住まいだったと伺いました。

八木:そうなんです。南足柄に引っ越してきたのは、2020年12月のことです。箱根の麓で、富士山も丹沢も近いという理由もあるんですけれど、ここは里山保全活動が盛んな土地なんですね。

自分は以前からそういう活動に本格的に取り組みたいなと思っていて、ずっとリサーチしていました。そんなときに「小田原山盛の会」という団体を見つけて参加するようになり、半年後にここに越してきました。ほかに箱根ビジターセンターでの登山道補修作業にも関わっています。


ーー八木さんは以前から信越エリアや南三陸などのトレイル整備にも積極的に関わられています。長年トレイルランを楽しんでいる先輩ランナーとして、いまのトレイルランシーンをどうご覧になっていますか?

八木:かつてトレイルランを楽しんでいた人たちの多くが、ここ数年で離れてしまったなという気はしています。近年はレースやイベントが遊びの中心になっていますけれど、そうした遊び方をある程度やりつくしてしまったからかなとも思いますね。だからレースとは違った楽しみ方を欲している人たちもいるんじゃないかなと思うんですよ。

ウルトラレースのためにトレーニングをするのは時間も体力も必要で、ずっとそのスタイルで遊び続けるのはなかなかしんどい。レース参加は一区切りしたけれど、それ以外に何かできないかなと思っている人は多いんじゃないかな。

たとえば、コロナ禍で盛んになってきた個人的なチャレンジや、愛着のある山域でのトレイル整備なんかもそのひとつですよね。トレイル整備に関心があるランナーはとても増えているように感じますが、どこでそういった活動に参加できるかを見つけられないというケースも多いと聞きます。今後は保全活動を行っている団体とランナーを繋ぐようなアクションができればと考えています。

ーーたしかに、トレイルランの捉え方に幅を求め始めている人は少なくないように感じます。

八木:だからこそ、もっとレース以外の楽しみ方を提案していけたらいいなとも思うんですよ。ファストパッキングとかこうした巡礼路などのロングトレイルとか、トレイル整備とか。もちろんレースというスタイルが好きで、ずっと100マイルや100kmを追求していくのも面白い世界だと思います。僕自身はトレイルランをずっと楽しみたいので、いろいろな遊び方ができると幅が広がって、飽きたりしないかなと思っています(笑)。


次の旅でもこの巡礼の道を歩きたい

ーートレイルランシーンがこうなったらいいなという理想のイメージはありますか?

八木:みんなが愛着のあるホームコースを持ったらいいなと思いますね。そして整備も含めてトレイル近くでいろんな活動をする人が増えて、多様な楽しみ方が生まれればと思います。長い人生をかけて細く長くトレイルランを楽しむようなスタイルというのかな。

そしてハイカーやバイカーなど他のアクティビティに親しむ人たちともトレイルをシェアしつつ、一緒に整備活動を行ったりして、上手にトレイルを共有する文化が根づいていったら最高ですよね。

ーー八木さんご自身もホームマウンテンでの活動がどんどん本格化していきそうですね。コロナ禍が落ち着いた後の旅についてはどうでしょう?

八木:いろんな人から「フランス人の道を走破したら別のルートも行きたくなるよ」と言われていたんだけれど、本当にそうで。次はポルトガルから北上するルートを行ってみたいんです。このルートはほぼ前回とかぶらないところがいいなと思っています。今度は一人ではなくてパートナーと一緒に旅するのもいいかな。

長い巡礼の旅を振り返って

Photo:Yasuhiro Yagi, Takuhiro Ogawa, Sho Fujimaki
Interview&Text:Yumiko Chiba