「挑戦の終わりを探している」垣内康介が挑んだ冬のTJAR


2018年8月「トランスジャパンアルプスレース」(日本海の富山湾から太平洋の駿河湾まで日本アルプスを経由して415kmを8日間以内に駆け抜ける、日本一過酷な山岳レース/以下TJAR)で優勝を果たした垣内康介が、2023年暮れ、ソロで「冬のTJAR」に挑んだ。

この挑戦を決断させたのは、2つの “不完全燃焼” があったからだ。TJARで優勝した翌年、職場や地元の声援を受けながら、中国・ゴビ砂漠のウルトラレース出場を予定していたところ、出国直前にレース中止の知らせが届く。2021年には2度目のTJARに挑むも、荒天のため2日目で大会が中止に。

垣内の挑戦はいつも心の奥に眠った何かの激情が発露となっているように思える。しかし、スタートに立つまでのプロセスは地道で入念だ。10年ごしの夢を実現させた初出場のTJARがそうであったように、長い月日をかけて一つひとつ課題をクリアしながら道筋をつくっていく。だからこそ、挑戦で力を出し切れなかったときの無力感も大きい。

人生に迷い放浪していたという20代、パキスタンの山中で宝石を探しながら「山走り」の面白さに目覚めた垣内は、自分を燃え尽くすことができる何かを探し求めてきた。

TJARでの優勝後、2つの不完全燃焼を経験し、いつしか「誰かが用意してくれる舞台は晴れやかで素晴らしいけれど、自分の力ではままならならないことも起こり得る」と思い至る。

そして、密かに温めていた冬のTJARがいま求めているものだと確信する。

2023年12月24日、垣内はTJARスタート地点である富山湾のミラージュランドを出発した。

結論からいえば、今回も不完全燃焼に終わった。スタートから8日目に下山を決め、11日目に麓に辿り着いた。途中、雪崩の危険がある山中で「能登半島地震」に遭遇する。

すでにわかっている挑戦は面白くない

垣内:冬のTJARはもともと、この大会の創始者である岩瀬幹生さんが考えていたことでした。自分のなかで温めていたとき、岩瀬さんから「かつて試走を重ねて結構いいところまで見えていた」という話を聞いて共感したんです。果たして実現可能なのか……。僕は雪山経験がなかったので、まずは本格的に雪山を始めて確かめていこうと考えました。それが2019年のことです。

本で技術的なことを学びながら、冬になると一人でアルプスに通っては経験を積み、実現への道を探りました。すると、探れば探るほど厳しいことが見えてきました。そうこうするうちに、ゴビ砂漠のレースと2度目のTJARの中止が相次いだわけです。

TJARには、土井陵選手(2022年優勝者)のようなスピードのある選手がどんどん出場するようになってきたし、僕自身は怪我が増えて体力の衰えを感じ始めている。もうTJARで優勝を目指すのは現実的ではなくなっていました。

それじゃあ、出場して完走すればいいかというとそれも違う。こういう言い方は語弊があるかもしれないけれど、すでにわかってしまったものごとに挑戦するのは面白くないんです。それに僕は楽しんで走るタイプでもない。人と競うことにも疑問と限界を感じ始めているなかで、いまの自分にできる挑戦はなんだろうと考えました。

ーー垣内さんにとって「楽しさ」はモチベーションになりにくいわけですね。

垣内:そうですね。もちろん楽しむ山もいいと思うんですけど、自分にとっての山は、何かを目指す場所。全力を尽くせる何かがあって、それを目指して達成する場所というか。

だから、次の目標を定めたかった。スケールの大きなことに挑戦したいと考えているうち、冬のTJARを成し遂げた人はまだいないし、挑戦する価値があると思いました。

「厳冬期ソロ、追加装備は各アルプスを下りたところで」

ーーこれまで、どんな練習を積んだのでしょうか。

垣内:仕事との兼ね合いで、1泊2日か2泊3日でしか雪山に行けません。ひとりでラッセルするので、アルプスの上まで登り切れないことも度々ありました。装備を含めて何が足りないのかを見極めては、ブラッシュアップしてまた別の日に登って……を繰り返しましたね。あと夏のアルプスで地形を確認したりしました。

ーーTJARの冬版とはいっても、挑戦の形はまったく自由なわけですよね。

垣内:そうです、すべて自分で決めます。複数で行くのか、デポはするのか、時期は厳冬期にするのか、3月から5月の残雪期にするのか。スタイルは多様だし、時期や雪の状態によって難易度も変わってきます。どこを通過するかも自由ですが、ただひとつ剱岳は冬期登山が禁止されていることはわかっていました。

ーーそのなかで、垣内さんがイメージしたのはどんな形だったのでしょうか。

垣内:僕はやはり高い難易度でチャレンジしたかった。そうはいっても実際に試してみなければわからないことばかりだったんですけど、「厳冬期のソロ。追加の補給は各アルプスを下りたところで行う」というルールを決めました。でもまったくダメでした。甘く見ていたつもりはありませんが、甘かったんです。

ーー具体的には何日間を想定し、どんな準備をしたのですか。

垣内:実現するまでが本当に大変でした。まず、管理職として働いている職場で長い休暇を取らなければならない。もし北アルプス、中央アルプス、南アルプス、ゴールの静岡県・大浜海岸まで進めたとしたら2ヶ月半かかる見通しだったので、1ヶ月半の有休とお正月休みを利用しました。そして、家族の理解も得なければなりません。

そういうことを考えると、スタートまでのハードルもとても高いんです。でも、もしこの挑戦が成功したら、勤めている会社の宣伝にもなるんじゃないか、自分なりの恩返しができるんじゃないかと無理やりこじつけ休暇を取りました。駄目だと言われたら辞めようと思っていました。成功したらまた入ればいいやぐらいに思っていたんです。順調に進んで、もし有休を使い切ったとしても、途中で帰るつもりもありませんでしたね。完全に社会のルールを無視(笑)。とにかく、いろんな覚悟が必要でした。

佐々木大輔さん、舟生大悟さんの装備を参考に

垣内:どこまで進めるかわからないけれどやろうと決めて、まずは北アルプス通過を1ヶ月と想定しました。仕事が忙しくてなかなか準備が進まず、装備すべてが揃ったのは出発前日でした。

95Lのザックを用意したんですけど、思っていたよりも食料が多くて入りきらなかったので、その分は外付けすることにしました。総重量は43kgで、シュラフはマイナス20℃まで対応するもの、主食はアルファ米とカップ麺、ガス缶は9つ。テント泊に加えて雪洞やイグルーでの停滞も想定しています。

アルファ米はモンベルのリゾッタを選びました。普通のアルファ米は戻すのに15分かかりますが、これは3分でできるので。冬山では水も雪からつくるし、テント内でやることが多くて時間がないからです。

カップ麺は一つひとつジップロックに入れ替えて、食べるときはそのままコッヘルに入れて温めました。そうすると食器を綺麗にする手間も省けます。


ーー何か参考にしたことはありましたか。

垣内:佐々木大輔さん(山岳ガイド/スキーヤー)などスペシャリストが集結して挑戦した「パキスタン・カラコラム遠征報告会」が地元で開催され、昨年秋に行きました。その後の懇親会で、遠征チームの皆さんに自分のチャレンジについて話したところ、装備をチューブの袋に入れてソリのように引っ張るアイデアをいただき、実践で取り入れました。

あとは舟生大悟さん(山岳ガイド)が、2017年1月に北アルプス全山縦走をソロで27日間かけて成功させているので、そのレポートなども参考にさせてもらいました。

ーー装備でとくに留意したことは?

垣内:耐久性を重視して何年もかけて精査し、ありとあらゆる条件を想定して選びました。荷物を削ることはまったくしていません。途中でギアが壊れたら命にかかわるし、一人なので何があっても対応できるよう万全で臨みました。

軽量化に重点を置いていないのが、夏のTJARと違うところです。装備に関していえば、今回の自分の選択は悪くなかったんじゃないかと思っています。

山に入ってからは地形に合わせて、荷物を引っ張ったり背負ったりしました。アイゼンを着けずに雪上を歩く際、ワカンの方が軽いんですけど、スノーシューの方が圧倒的に浮力があるので、スノーシューを持っていきました。

ーー補充する装備のデポはどうしましたか?

垣内:北アルプスを下りたところに、unfudge(サポートを受けているアウトドアブランド)のスタッフが中央アルプス用の荷物を車で運んくれる予定でした。

ーー43kgという重量に対するトレーニングは何か行いましたか。

垣内:徐々に荷物を増やして、45kgくらいまで背負うトレーニングをしました。それにより筋肉は鍛えられたんですけど、どうしても関節に負荷がかかり過ぎて。結局、膝や足首を故障してしまい、関節は鍛えられないことに気づきました。故障してからは、20kgくらいまで重さを減らしてトレーニングを続けました。


【クリスマスイブの出発から下山まで、11日間の流れ】

12月25日、魚津のミラージュランドをスタートし、登山口のある立山駅まで40kmのロードを歩く。初日に12km歩き、宿に泊まって2日目に24km歩いたところ、足裏に大きな血マメができてしまう。雪山用の登山靴で重い荷物を背負い、長距離のロードを歩いたためだ。トレーニング時には登山靴を消耗させてたくないとランニングシューズを履いていたため、ここまで酷いマメができるとは予想していなかった。

垣内はTJARを目指し始めた頃から裸足でランニングを行うなど、足裏の皮膚を厚くする努力をしてきた。そのため、これまでマメに苦しめられたことがほとんどなく、今回も事前に保護クリームを塗っていなかった。スタートから2日目でいきなりのトラブル。

3日目の朝9時前、血マメの痛みをこらえながら、立山駅の登山口から登り始める。雪山に入った途端、身体の使い方が変わったため、マメはまったく気にならなくなった。ラッセルしながら立山アルペンルートを3日かけて登り、7日目に稜線に出た。

直前に降った大雪により、雪はまったくしまっていない。残雪期で雪がしまっていればアイゼンやピッケルで登ることができるが、今回はそれができない。

スノーシューを履き、腰まで埋もれながら進んでいく。日が当たる斜面になると雪面がカリカリに凍っているので、今度はアイゼンに履き替えるが、凍ってるのは表面だけのこともあり幾度となく踏み抜く。その都度、胸まで雪に埋もれながら歩いた。何度も何度も二つを履き替えねばならず、なかなか進まない。

スタートから6日目の大晦日。天気予報では翌日から荒れるらしかった。ザラ峠を過ぎた五色ヶ原で停滞しようと予定をたてるも、ザラ峠で日が暮れてきた。峠で風の通り道なのはわかっていたが、東側の斜面は吹き溜まっていたので、そこに雪洞を掘ることにする。

雪洞を掘り進めるものの、雪がふかふかすぎて、崩落してしまう。諦めてテントを張って中に入ると、夜になってかなり吹雪いてきた。テントが雪で潰されないよう外に出て除雪するが、テントの一辺を除雪しているうちに、先に除雪しておいた一辺が埋もれていく。除雪のスピードが降雪に追いつかず、テントがひしゃげた。

慌ててテントからポールを抜き、荷物はそのままに、夜中、再び雪洞を掘り始める。汗だくになりながら雪洞を掘り進めていると、6日間ウエアを着続けているため毛羽立ってきたのか、部分的に雪が落ちないまま染みついていた。そこから雪がまとわりつき、払い落とす間もなくくっついてくる。雪がしみた部分が凍り始めたため、汗が抜けずに内側も濡れ出す。

何時間もかけてアリの巣のような雪洞をつくり、埋もれたテントを掘り起こして中に入れる。崩落に怯えながら湯たんぽをつくり、ウエアをくるんで乾かす。湯たんぽが冷めると再び湯を沸かして……という作業を延々と繰り返し、ウエアを乾かし続けた。雪の状態とウエアの機能低下から撤退を考え始める。

1日停滞している間に、雪洞はすっかり雪で埋まっていた。外に出るため、寝そべりながら雪を掻き、掘った雪をツエルトに乗せて動かしながら掘り進める。

5時間かけてようやく外に出ると、予想どおり晴れていた。再び歩き始めるが、雪の状態は相変わらず。このまま進むのは難しいと判断する。

スタートから8日目。ザラ峠から立山に向かって下山することを決め、その後3日かけて麓に下りた。

12月24日=Day1 
 ミラージュランド~つるぎ恋月
12月25日=Day2 
 つるぎ恋月~グリーンビュー立山
12月26日=Day3    
 グリーンビュー立山~美女平
12月27日=Day4 
 美女平~大観台
12月28日=Day5 
 大観台~天狗平
12月29日=Day6 
 天狗平~浄土山直下
12月30日=Day7 
 浄土山直下~ザラ峠
12月31日=Day8     
 停滞
1月1日=Day9   
 撤退 / ザラ峠~常願寺川1,530m
1月2日=Day10 
  1,530m~900m
1月3日=Day11 
 900m~立山駅


雪崩の巣を越えたところで地震。一晩中、轟音が響き渡った

垣内:ザラ峠は一般ルートではないので、本来は降りるところじゃないんです。このあたりは、1584年に戦国武将の佐々成政が厳冬期の北アルプスを越えて浜松へ踏破した「さらさら越え」で知られている、地形的にとても厳しい場所です。でも、常願寺川沿いに下りれば立山駅に至るので、行けないことはないと判断しました。ザラ峠を下りないと、折立方面へ下りなければならず、さらに時間がかかってしまうからです。

ザラ峠は雪崩が起きる地形で、しかも降雪直後だったため、いつ雪崩が起きてもおかしくない状況でした。表層雪崩の跡もあったのですが厚みが少なかったこと、さらさらの雪質と積雪量から判断して、万が一巻き込まれても死ぬことはないんじゃないかと考えました。

そこからは雪崩を恐れながらスノーシューで3〜4時間かけて下っていきました。写真を見てもらうとわかるんですけど、奥の谷間、僕の足跡の横に表層雪崩の跡があります。本当にここは雪崩の巣なんですよ。


雪に埋もれた川に落ちないよう、まず安全そうな場所に当たりをつけて空身でジャンプしてから、ロープで荷物を引っ張って進みました。川を飛び越えようとしてジャンプしたら、片足だけ落ちて危機一髪ということもありました。

砂防ダムの堰堤にぶつかってしまうと崖になっているので下りられない。山を迂回しなければならず、ルートを探すのに苦労しました。とにかく荷物が重いので、まず空身で歩いて進めそうか確かめ、荷物を取りに戻って運んで……を繰り返しました。

ーー能登半島地震にはどこで遭遇したのでしょうか。

垣内:ザラ峠を下りたあたりで地震が起きたので、行動を止めてテントを張りました。ものすごい揺れで、一晩中、雪崩と崩落のゴーッという轟音が響いていました。とにかく巻き込まれないようにと祈るしかなかったですね。

もし稜線の斜面に取りついていたら、雪もろとも落ちていたかもしれない。そう考えると、あのとき撤退してよかったのかもしれないですね、結果論ですけど。

その後、谷を登ったり下ったりしながら立山に向かって行きました。途中、崖の上に出た時、足元を見たら雪面に大きな亀裂が何本も入っていたことも。とにかく怖くて、生まれて初めて「死ぬかもしれない」というストレスで胃が痛くなりました。これまでそんなこと考えたこともなかったんですけど、このときは「絶対生きて帰る」と強く思いながら、3日間歩きました。

ーーなかなか想像しきれない状況です。

垣内:人間て不思議だなと思いましたね。とにかく歩かないと生きて帰れないでしょう。だから朝から日が暮れるまで歩き続けたわけですけど、無事下山して家に帰ったら、もうまったく歩けないんですよ。知らない間に両ふくらはぎは肉離れになっているし、途中で痛めた足首もズキズキ痛むし。身体はそんな状態だったのに、山のなかにいるときは痛みも感じなかった。人間てすごいなと思いました。

ーー生き抜くためにとにかく動き続けることを脳が最優先させたのでしょうね。

垣内:そうなんでしょうね、きっと。やばかったですね、ほんとに。


なにより家族のもとへ生きて帰ること

ーー今回の挑戦を通して、見えてきたものはありましたか。

垣内:ゲームみたいに主人公に命が三つあれば行けるんじゃないかと思いました。つまり、命が一つではギャンブル的な要素が強すぎる。もちろん雪山は本来リスクがある世界だし、同じ条件はひとつもなくて、その時々で難しさは変わってくると思うんですけど、今回の条件はとにかく厳しすぎました。

こういう現実的な厳しさも、普通の人なら試す前からわかるのかもしれないけど、僕はとにかくやってみないとわからないって思っちゃうんです。

ーーもし次に挑戦するとしたら、どこをどう変えますか。

垣内:時期は春にします。3月は仕事が忙しいので、GWくらいかなと。もちろん、やるかどうかわかりません。やりたい気持ちもありますけど、もう一度やるか、やれるかはまったく未知数です。

出発前から、天候が荒れたら停滞することは決めていました。夏のTJARみたいに天候が悪くても動けるといったレベルではないので。ラジオを聞いて天気図を描けるようにもしていたんです。結局、撤退したわけですけど、思っていた以上に雪の状況がよくなかったというのが実感です。

ーー振り返ってみて、いまどんなお気持ちですか。

垣内:そうですね、撤退という選択肢も含めていたので、挑戦については仲間内だけにしか伝えていませんでした。実際にはその仲間たちが、SNSでシェアしていたみたいですけど(笑)。成功できたら、自分から発信しようとなんとなく考えていました。

でも、もういいんです。失敗はしましたけど、終わったことなので伝わっていくことはまったく問題ありません。

ーー自力で生きて帰ってきたのですから、失敗ではないと思います。

垣内:ありがとうございます。ほんとに、あらためて道具の大切さが身にしみました。ひとつ道具が壊れたら死ぬこともあるわけですからね。あと運も大きい。技術だけではどうにもならないこともあるんですよね。植村直己さんとか、どんなにすごい冒険家でも死んでしまうことはあるわけです。冒険者は運が大事なんだと思いました。

ーー挑戦中、ご家族とやりとりはされましたか。

垣内:何度か短いメッセージを送りました。「地震があったけど無事だよ」とか。

ーーこの挑戦を行ってみて、よかったですか。

垣内:それは、やっぱりよかったです。再挑戦のことも頭に浮かんだりしますけど、決意するまでは至らないですね。かといって、ほかの挑戦は考えられない。

本当にやりたいことって、なかなか見つからないものです。浮かんだアイデアが大きければ大きいほど、モチベーションも必要になってくる。いろんな調整が必要だし、費用もかかるし、周りに迷惑もかけてしまうし。

それらを乗り越えてでもやりたいと思えるかどうか。そう考えると、この次があるかは今はわかりません。


自分のなかでは「終わり」を探している

ーー岩瀬幹生さんはなんとおっしゃっていましたか。

垣内:挑戦前に話したときには「厳冬期は厳しいんじゃないかな」と言っていて、終わった後に報告したら「今度は春にやりなよ」と言われました。

結果としては撤退しましたけど、突発事項に対する対処はベストを尽くせたと思っているんです。これまでの経験を活かし尽くせたというか。だからポジティブに考えれば収穫もありました。

ーー以前、岩瀬さんにお話を伺ったとき「TJAR出走者には、このレースをステップアップとして次の挑戦に向かってほしい」とおっしゃっていました。一方で「一度TJARに出ると課題が見えてくるから、もう一度試したくなる気持ちもよくわかる」とも。

垣内:TJARに何度も出たくなる人の気持ちは僕もよくわかります。でも僕はこだわりたくないという思いがあって。ただ、いまの自分があるのはTJARを目指したお陰なんです。TJARにこだわる気持ちがありながらも次の挑戦に進みたいと考えたからこそ、今回のチャレンジの形になった気がしています。

僕はずっと「終わり」を探しているんですよ。

ーー「終わり」ですか。

垣内:最初にも話しましたけど、僕は楽しんで山を続けたい気持ちはあまりなくて。体力的にも気力的にもアスリート的な高みはもう目指せないと思っている。高みが何を意味するかはひとまず置いておくととしてですね。だから終わりを探しているんです。満足できることをやって挑戦を終わりたい。

でもどうなんでしょうね、これじゃ、終われないですよね。やり切ったと思って終わりたいんですけど。

ーー山は好きですか?

垣内:好きですよ、もちろん。でも山に楽しさは求めていないし、長くやろうとも思っていないんです。多分このままやり続けたらいつか死ぬ(笑)。

ーー山に対して、燃え尽きるぐらいの達成感を求めているわけですね。

垣内:そうです。ずっとそれを掴みたいんだけど、掴み損ねている感じです。最初のTJARの完走以降、ずっと「次で終わりだ」と思ってやってきたけど、終われないままでいる。本当はすぱっと辞めたいんですよね。それが、ことごとく不完全燃焼のままなんです。

ーー今回の挑戦もそうですけれど、どこかで、答えがひとつではない世界に惹かれているんでしょうね。

垣内:そうかもしれないですね。それを求める生き方に憧れているのかもしれないです。

ーー好きな冒険家などはいますか。

垣内:すごいなと思う人はたくさんいますけど、好きな冒険家というのは特にいないです。むしろ嫉妬しますね、むちゃくちゃ羨ましいと思ってしまう。好きというよりも悔しいですね。俺はここまでできないなと。

ーー読書家でいらっしゃいますが、冒険の手記などを手に取ることはありますか。

垣内:冒険記も読みますけど、実は挑戦前に必ず読むジャンルの本があるんです。

ーーなんですか?

垣内:これはライバルたちに話したくなくて、あまり人に言ってこなかったんですけど……戦争の手記です。今回の挑戦前も、シベリア抑留の本を何冊か読みました。極限の状態を経験した人たちの手記を読むことで、自分が経験する辛さの認知を下げることができるからです。どんなに辛い状況になっても、戦争を経験してきた人たちに比べれば、いま自分が置かれている状況なんてたいしたことないと思えますから。

ーーこれまでの挑戦でも事前にそうした書籍を読んでいたのでしょうか。

垣内:そうです。TJARの前にも読みました。その時は太平洋戦争の日本兵の手記を何冊も。これをやればTJARなんてお遊びだと思える。これまでは人にあまり話したことはなかったんですけど、もういいかなと思って。もう自分は誰かと競っているわけじゃないので。

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密かに温めている挑戦について、垣内から初めて話を聞いたのは数年前の秋だった。垣内と仲のいい望月将悟(TJAR4連覇、無補給での完走を成し遂げた静岡市消防局の山岳救助隊員)もその場にいて、心配していたのを覚えている。望月の様子から、その挑戦がどれほど難しく危険を伴うものであるかを理解した。

垣内の言葉を聞くとき、いつもその胸のうちにある烈火に驚かされる。いったいどこからその熱は湧き上がってくるのだろうか。そして、心の奥の虚空はいつか満たされる日がくるのだろうか。

写真提供:垣内康介
文:千葉弓子