『山物語を紡ぐ人びと』vol.28〜 佐々木拓史さん(パタゴニア勤務)

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アウトドアが好きなのか、それとも旅が好きなのか?

この連載では、ご登場くださる方々の山にまつわるエピソードや半生を描いているが、今回は「山物語〜」ではなく「旅物語〜」と呼ぶ方がしっくりくるかもしれない。それくらいとてつもなく世界のあちこちを旅し続けるひと、それが佐々木拓史さんだ。 

現在、パタゴニアのデジタルマーケティングマネージャーとして働く佐々木さんは、アウトドアや自然環境の仕事に20年以上携わってきた。業界内では多くの人から“タクジさん”と親しみを込めて呼ばれている。

20代ではアメリカの老舗アウトドアショップREIに日本支社スターティングメンバーとして働き、その後はアウトドア雑誌でライターを経験した 。一年半に渡るアフリカへの旅を終えて帰国すると、富士山麓を拠点とする「ホールアース自然学校」に3年間勤務した。それから渋谷にオフィスを構える環境関連の制作会社などを経て、アメリカのバックパックブランドであるグレゴリーへ。

転職期間や有給休暇を使って、長い旅をいくつもしてきた。これまで訪れた国は90カ国に及ぶ。

「旅先では山にも結構登っているんだけど、それでもやっぱり自分がいちばん好きなのは旅そのもののような気がするなぁ」

そこまで旅に惹かれる理由はなんなのだろう? 佐々木さんの旅の原点へと遡ってみる。 

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ご家族と暮らす葉山を訪ねた。高台からは街と海が一望できる

中国武術少年だったころ

埼玉県越谷市で生まれた拓史さんは、子ども時代を振り返り、「少し個性的な家庭で育った」と話す。 

「父は市役所で働いていて、母は保育園の先生をしていました。父親は組合の委員長をしている時期があって、組合と対立している市長に暴力をふるったという容疑で逮捕されてしまうんですね。僕が5歳のときです。それから10年くらい裁判を続けて、容疑が晴れてまた市役所に復帰しました。その後に今度は周りの人たちに推されて越谷市議選に出馬し、当選を果たすんです。僕が大学生のときです」

家庭の食事は加工品を避けてほぼオーガニックの自然食で、アレルギーを持っていたお姉さんを想い、合成洗剤ではなくせっけんを愛用していた。庭には物心ついたときから鶏小屋があり、産みたての新鮮な卵を食べて育った。

「ジャンクな食べ物とか、食べさせてもらえなかったんですよ」 

小学生になった拓史さんは、健康のためにとご両親が始めた太極拳教室についていき、自分もそこで長拳を習うようになる。小学校3年からは全国大会に出場し、4年生からは平日も東京の教室に通った。中学、高校と中国武術を続けていたが、高校2年生のときに刀で神経を切ってしまい武術から離れることに。その年、1年間アメリカに留学する。 

高校卒業後は獨協大学へ進学。アウトドアの世界に目覚めたのは、大学の特殊講義がきっかけだった。

「授業でウインドサーフィンをしたり、日光の山へ行って地形図とコンパスを頼りに歩いてブルーシートで寝たりする先生がいたんです。妙高でクロカンスキーをして雪洞を掘って寝たりもしました」

この授業を通して、アウトドアの自由な世界観に惹かれていく。大学3年ではアメリカへ一人旅に出かけ、ヨセミテやグランドキャニオンなどをヒッチハイクで回った。

この頃から、拓史さんの人生の中に「旅」の文字がちらつき始める。

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ご自宅にて。アフリカ土産の民族楽器カリンバ 

大失恋が長い旅のはじまり

大学3年のとき、大失恋をした。その痛手でしばらく学校に行かなくなり、友だちの部屋に入り浸ってはゴロゴロと不毛な日々を過ごす。しかし、体を動かすアルバイトを続けるうちに、少しずつ気持ちが前向きになっていった。

「逃げていても仕方ない。どうせならやりたいことをやろうと。達成感のあることは何かと考えているうち、ハックルベリーの冒険のようなことがしたいなと思ったんですね」 

そして、ユーラシア大陸横断の自転車旅行を思い立つ。1997年、インターネットがいまほど普及していない時代で、装備などは自転車屋さんに相談した。

試しに埼玉から片道100km離れた九十九里浜まで自転車を走らせ、キャンプをしてみた。これなら行けそうだと判断して、7月に日本を出発する。

ユーラシア大陸の最西端、ポルトガルのロカ岬からスタートし、スペイン、フランス、イタリア、ギリシャ、トルコ、イラン、パキスタン、インド、バングラデシュを旅する。ミャンマーの陸路は閉鎖されていたため、タイに飛んで、マレーシア、シンガポールを移動し、9ヶ月かかって1万7000km自転車を走らせてゴールした。

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出発の地、ポルトガルのロカ岬にて。その表情から、未知なる旅への不安が伝わってくる

「最後まで旅を続けた理由? 旅の途中でもよく聞かれたんだけど、なんだかんだいって失恋をなかなか克服することができなくて。ただ、負けて帰るのだけは嫌だったんだよね」 

はじめはとにかく寂しかった。手持ちの資金が50万円ほどだったため、足りるのかという不安もあった。

「ヨーロッパに三ヶ月いてアジアに入ったときには2000ドルを切っていたんです。節約のためにこっそり野宿したりしました。旅人がいる地域だと会話も弾んで楽しいけど、あとはひとり」 

ずっと孤独を感じてた。

「こんなに辛いことを経験したんだから、この先、もうこれ以上辛いことはないだろうと思ったな。いま振り返ると、それなりに楽しいこともあったんだけど、そのときはただただ辛くて。何もかも一人で完結しないといけないから。いまのようにネットで誰かと繋がることもできないしね」 

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上)イランの砂漠地帯を走る 中)テヘランにて 下)イランからパキスタンへの国境越え 

旅の途中、自分が向かう国を旅してきた旅行者と出会うと、情報交換をした。イランでは宿にノートが置いてあり、そこに細かな旅情報を記す“旅マニア”がいた。地域ごとの詳細なガイドブックもなく、ネットで情報を得ることもできない時代だからこそ発達していたシステムだ。

「ヨーロッパまでは軟弱で、ダメダメ人間でした。ところがトルコに入ると、東ではクルド人ゲリラが活発で危ないと言われたりして、ちょっとこれまでとは違う空気になって。口コミで情報を集めるうち、危険地帯はバスに乗った方がいいと言われてね。でも自転車を降りてバスや電車に乗ったら何かに負けるような気がして嫌だったんです。それで、標高2000mくらいの場所をえっちらおっちら自転車を漕いで行ったんですけど、全然辿り着かないんですよ」 

クルド人ゲリラに見つからないように注意しながら野宿していたとき、ふと自分の心の変化に気づく。

「ここで殺されても誰にも発見されないだろうなと思ったら、なんだか小さなことがどうでもよくなってきて。なるようにしかならないんだと、意識革命みたいなことが起こったんですよね」 

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登りか下りしかないトルコ東部の山道を延々と走る

いつ死んでしまうか、わからないからだろうか?

「そうですね。運だなと。たまたま悪い人に出会ってしまったら、それまでだから。そう思ったら気が楽になって、なんとなく強くなった気がしたんです」

20年も前の心情を、いまも鮮明に覚えていることがすごい。 

「でも、もしかしたら勝手につくった記憶かもしれない(笑)。過去の記憶って頭の中で書き換えられていたりするから」 

記憶といえばもうひとつ、子ども時代の忘れられない思い出があるという。

「小学校高学年のとき、母親に『死んだらどうなるの?』って聞いたんですよ。そうしたら、母が『死んだら無よ』って即答して。子どもだったから、『無って何?天国とかないの?』って聞いたんですけど、『なにもないわよ』ってさらっと言われて。それが本当にショックで、死ぬのが怖くなってしまった」 

睡眠中、夢を見ない状態のときに死が訪れると思い込み、中学生になっても寝るのが怖かった。 

「その記憶は永遠ですね。いまでも怖いんです、死が」

その強烈な記憶があったから、トルコの荒野に張ったテントの中で目を閉じ、近くに死を感じたとき、「もう、なるようにしかならない」と覚悟ができたのだという。 

「母からはいろんな影響を受けた気がします。本の好みもそう。家には母がかつて読んでいた『ゲド戦記』とか『ナルニア国物語』とか『指輪物語』なんかのファンタジーものがあって、僕も全部読みました」 

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自室の書棚にはアウトドア関連の書籍や小説、地図などが並ぶ 

長い旅を終え、大学に復学する。授業を受け、友だちとキャンプに出かけ、山登りに行った。星野道夫さんに憧れて、アラスカのデナリ国立公園へも旅をした。 

「俺の話、旅と同じで長いんだよね。そしてオチがないの。とりとめもなく長いんだけど、大丈夫?(笑)」

REI日本支社で出会った人たち

あえて就職活動はせずに大学を卒業する。何がしたいのか自分自身に問ううち、「いつかアフリカに行きたい」と思うようになる。

2000年、アメリカの老舗アウトドアショップREIが日本に上陸し、南町田にオープンする店に入社することが決まる。入社日まで4ヶ月ほど間があったことから、2ヶ月間アルバイトをしてお金を貯め、あとの2ヶ月でレバノン、シリア、ヨルダン、イスラエル、エジプトと中東の旅に出かけた。山に登ったり、砂漠を歩いて洞窟に泊まったり。23歳のときのこと。 

REIでは100名ほどのスタッフが働いていた。ここでの出会いは、後々まで拓史さんの財産となる。

2019年冬、ウガンダにある通称「月の山」(ルウェンゾリ、5109m)に登るため、一緒に旅した石川弘樹さん(プロトレイルランナー)と出会ったのも、この店でだった。 

「当時、アウトドアで尖ったことをしている人がたくさん入社していたんです。競技クライマーの日本チャンピオンとか、ヒマラヤ登山する人とか、自転車ダウンヒルの日本一とか。いま他のアウトドアメーカーで偉くなっている人たちなんかも、たくさん在籍していました」

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上)壁にはアコンカグアを旅した時の写真が 中)日本支社が撤退する際、記念にともらってきたREIの買い物かご 下)2018年暮れ、ウガンダにある「月の山」(ルウェンゾリ)に無事登頂した

石川さんは当時、アドベンチャーレースの「チームイーストウインド」に所属していた。

「変態でしたよ(笑)。家から店まで10数キロを通勤ランしたりして。いまは長距離を走る人も多いから、それくらいの距離は驚きませんけど、その当時はまったく理解できないっていう雰囲気でしたね。出社前に駐車場で腹筋とか始めるし、仕事終わりに富士五湖の西湖まで100km走って行くと言うし(笑)」

休日になるとスタッフでチームを組んでアドベンチャーレースに出場したり、クライミングやカヤックを教えてもらったり。 

「いろんなスペシャリストが集まっていて、休みの度にフィールドに遊びにいくというすごく素敵な日々でした」

ところが、REIは2年ほどで日本から撤退してしまう。拓史さんがちょうど有給を使ってパキスタンのカラコラムハイウェイを自転車で旅してる最中だった。帰国すると、あと数ヶ月で閉店すると伝えられた。

閉店のための作業を終えて手にした退職金で、いよいよ念願だったアフリカへ出かける。

アフリカ550日の旅へ

この時に考えたのは「陸路で行ったら安いな」ということ。

自転車は流石に持っていけないが、歩いてキャンプして、できるだけ自然に触れ合いたいと考えた。旅の途中、どんなアウトドアアクティビティにも対応できるようにと、テントや寝袋、石油ストーブや鍋、雨具などのギア一式を大型のバックパックに入れて旅をした。

北京まで船で渡り、北京からモンゴル、その後、シベリア鉄道でモスクワに行って、ラトビアを抜けて、リトアニア、ポーランド、ドイツ、スイスに。スイスで一週間ほどトレッキングを楽しみ、スペインの友だちの家に寄った。ヒッチハイクをしたり、ローカルのバスやタクシーを乗り継ぎ、モロッコやカメルーンの山、マリのトレイルを歩いた。

そこから中央アフリカを抜けて、東アフリカへ行き、エチオピアのシミエン山に。ケニア山に登り、キリマンジャロにも登った。マラウイ湖をカヤックで漕いだり、ウガンダでラフティングをしたり。

「旅をしていて気づいたのは、僕は人がつくったものより、自然がつくったものの方が圧倒的に好きなんだということ。遺跡もたくさん見ましたけど、そういう歴史的建造物より、自然がつくり出したものをもっと見たい。人力でしか行けない場所へ行って、見たことがない景色を見たいんです」

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1)バスやピックアップトラック、ときにはランクルなどを乗り継いでアフリカを旅した。エチオピアからケニアに向かう道中 2)アフリカ第二峰のケニア山 3)ウガンダで子どもたちと 4)南米では6542mのサハマを筆頭に6000m級の山を三座登り、多くのトレイルを歩いた

アフリカを旅した後、まだお金が残っていたので、アルゼンチンへ飛ぶ。パタゴニアでトレッキングやスキーをし、北上して、ブラジルやウルグアイ、パラグアイに行き、チリではアタカマ高原を旅した。さらにボリビアでは6500mの山にも登った。

「アフリカに比べたら南米は安全で景色も最高だし、食事も美味しい。アウトドアも楽しかったんですよ。そこからメキシコ、アメリカを経由して帰国しました。全行程で550日くらいです」

もし仕事をしなくていいのなら(宝くじに当たったり、株で成功したりして)、ずっと旅をしていたいと拓史さんはいう。 

「そうだな。アウトドアももちろん好きだけど、それは旅のツールのひとつかもしれない。山登りも好きだけど、登らないと見えない景色があるから登るという感じ。もちろん、プロセスも好きなんですけどね」 

準備から始まる旅の行程のなかで、どの時間がいちばん好きなのだろう?

「移動中かなぁ。最終的にどこかに辿り着く瞬間よりも、その瞬間を想像しながら移動している時間が好きなのかもしれない。山頂や町に向かう時間、電車とかバスの中のフワフワした感覚が忘れられなくて、その感覚をまた味わいたくなる。中毒みたいなものなのかな」

新しい地元、根を張る街

アフリカの長期旅行から戻った拓史さんは、いくつかの仕事を経て、現職に就く。

その間にも時間をつくっては南米のアコンカグアやギアナ高地、北米の国立公園やインドヒマラヤやアジア諸国の山々の旅を続けていた。

 2017年に川崎市から葉山町に居を移し、奥さまやお二人のお子さんと暮らす。海にも山にも近い葉山で、1年半ほど前からは近隣に住むアウトドア仲間たちと、ゆるやかなトレイルランニングのグループランもスタートした。

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上)仙元山の展望台にて仲間たちと 下)暑い日でも寒い日でも、集合場所に向かうと誰かが来ている。たまに遠方からゲストランナーも訪れる

毎週水曜日の朝6時、住宅地にほど近い登山口に集合して、標高100mちょっとの仙元山に登る。さらにもうひとつ小さな山に登って海に出る7kmほどのトレイルラン。仕事の都合に合わせて途中離脱もOK、それぞれのスタイルで楽しむ朝の集いだ。

「引っ越しをして子どもたちと仙元山に頻繁に登るようになって、すごくいい山だなと思ったんですよ。毎週走りに来ようかなと考えて、“仙元山トレイルクラブ”と名づけたら、なんだかいい感じなって」

とくに取り決めもなく、ゆるく継続するうちに参加人数も増えていった。2018年秋にはこのメンバーで台湾トレイルトリップにも出かけた。これからどんなコミュニティに育っていくのか、拓史さん自身もちょっと楽しみだという。 

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愛着のある仙元山。休日や仕事の後、お二人のお子さんと登ることも多い。天気のいい日には展望台でご飯

引っ越しとともに生まれた新たな「地元」。ご家族とともに根を張りつつある葉山の街。その一方で、どうしようもなく旅に惹かれる自分がいる。

20代の頃、旅の意味は「自分探し」だったというが、いまはどうなのだろう。

「ここ3〜4年は7歳の息子と二人旅もしているんです。面白いなと感じるのは、ひとりで行ったらなんてことない場所でも、息子が一緒だとぐっとハードルが上がること。それがまた楽しくて。たとえば白山に登るにしても、息子が一緒だと天候の変化にどう対応しようか、装備はどうしようかと考えることが一気に増える。同じ場所でもひとり旅とは意味が違ってくるんです」

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上)2018年の夏休みは東南アジア4カ国を2週間ふたり旅  下)毎年ふたりで縦走登山をする。八ヶ岳にて

でも、と拓史さんは続ける。

「息子はいつまでも父親と遊んでくれない。いつか僕より、友だちとの時間の方が楽しくなる。実はもうそこまで来ているんですよ。だからいまが大事だなって思ってます」 

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ツアーなどで決められた順序を丹念に辿る旅より、突発事項にその時々に対応していく旅が好きだ、と拓史さんはいう。

何が起こるかわからないから、旅は面白い。日常とは違う不確実性が好きなのだと。

「いまもね、2つとか3つとか先の旅の計画を同時に練っているんですよ。飛行機を手配したり、トレイルを調べたり。ときどき、どれがどれだかわからなくなったりして(笑)」 

いま話すこの時間も、拓史さんにとっては旅の途中のように見える。この瞬間も実は旅列車に乗っているのではないかなと。 

「そうだね(笑)。停車時間が長いからジュースを買いに行っているとか、ちょっとラーメン食べてるとか、そんな感じかもしれないな」

旅先では必ず日記を書く。それをもとに、これまでの自分の旅の記録をブログで丹念に綴ってきた。この冬のアフリカ旅は、いったいどんなふうに描かれるのだろう。

そして、次の旅の目的地は……?

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佐々木拓史さんのブログ『旅バム BLOG』
http://www.tabibum.com/blog/

Photo:Masato Kameda
Text:Yumiko Chiba