山物語を紡ぐ人びとvol.29〜 上田瑠偉さん(山岳ランナー) #01「故郷大町。親子で大会をつくるということ」

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明日の大会に向けて家族総出で準備。左から母・あずささん、妹・桃子さん、上田瑠偉、妻・美帆さん、父・智夫さん

 

長野県大町市。北アルプスの山々に囲まれたこの地で、上田瑠偉は子ども時代の多くを過ごした。

「故郷の里山で、父と大会をつくるんです」 

2017年秋に話を聞き、世界の頂点を目指すトップアスリートが20代にしてつくる大会とはどんなものだろうかと興味が湧いた。そもそも、親子でトレイルランの大会を立ち上げる現役選手は珍しい。

翌年10月、第2回目となる『鷹狩山トレイルランニング大会』に出かけた。父・智夫さんが実行委員長となり、仲間や地元の人たちの協力を仰ぎながら手づくりで開催している大会。もちろん、家族総出で手伝う。大会は、東京で暮らす上田家の子どもたちが、実家に集う数少ない機会のひとつでもある。

大会づくりの裏側を見せていただきながら、上田瑠偉と家族の絆について考えた。さらに、日本を代表するトップアスリートの凝縮した10代と精神のルーツについても、シリーズで迫ってみたい。

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瑠偉のがんばりを見て
大会づくりを決めた

大町市八坂にある鷹狩山(1164m)。市の東側に位置するこの山の山頂からは、正面に北アルプスの峰々が望め、眼下には大町市街が広がる。市民の多くが学校遠足で出かける山だが、遠足以来ほとんど登らないという人も多い。

帰省するたびに登る上田にとっては、まさにホームマウンテン。愛着のある山だ。

木曽生まれの父・智夫さんは、結婚後に大町に越してきた。鷹狩山をはじめて散策したとき、その心地よさと美しさに感動したという。トレイルランを通して、この山のよさを地元の人たちに改めて知ってもらいたいとの想いから、大会を発案した。

「瑠偉がここまでトレイルランで頑張っていなかったら、僕も大会をつくろうなんて考えもしなかったと思います。地元の子どもたちに育成の場をつくってあげたいんですよ。山を走ることでいろんなスポーツに役立てて欲しい。最初は瑠偉と二人で始めよう思っていたんですが、家族だけでなく、地元の皆さんの力もお借りすることにしました」(智夫さん) 

_D4_1195_2スポンサーから借りた幟を親子で組み立てる

大会は山頂をスタートして、キッズ0.9km、小学1〜4年生が1.4km、小学5〜6年生が2.3km、中学生以上の一般が3.4kmという短い距離をぐるっと一回りするコース設定。初めてトレイルランをする人にも楽しく走り切れる距離だ。駐車場の許容量から、参加人数は100名程に絞っている。

「このくらいの短い距離がちょうどいいんです。子どもも頑張れますからね」と智夫さん。いつかもう少し長い距離で“上田瑠偉CUP”を開催したい、との希望を抱く。

大会前日。母のあずささんや智夫さんの友人に加え、千葉で働く妹の桃子さんと東京で暮らす上田の妻・美帆さんも駆けつけ、コースマーキングやゴールゲートを設営していった。

_D4_1189_D4_1332_D4_1241上)コース看板をどこに立てる検討中  中)マーキングテープを準備する上田と桃子さん   下)ゴールゲートをロープで木に結びつける

「大町は、急速に過疎化が進んでいます。観光客も訪れるんですが、ほとんどが黒部方面に流れてしまうんです。だからこそ、まずは大町の魅力を地元の人たちと共有したい。里山を活用して、地域貢献していくことが最大の目的です」(智夫さん)

大会の主役は、あくまで地元の子どもたちだ。参加者募集も大町や北安曇地域に限定して行い、学校や公共施設を中心に告知した。ほかに新聞に折り込みチラシも入れた。市からは3年間、助成金をもらい、それを活用してコース整備も行うという。

_D4_1701山頂近くの木の上にあった古い熊の巣。こんな高いところに巣をつくるのかと驚かされる

 

山と写真が好きだった祖父
いま、もし話すことができたら

上田が北アルプスに初めて登ったのは、中学2年の学校行事。その頃はサッカーや陸上に明け暮れ、とりたてて家族で山に登るといったこともなかった。しかし、母方の祖父・平瀬貴志さんは岳人だった。登山と写真が好きだった貴志さんは、54歳で勤めていた会社を早期退職し、夏になると野口五郎岳の山小屋を手伝っては写真を撮っていた。田畑の仕事があるときだけ、麓に下りてきたという。

「せっかくだから、祖母の家にも行ってみますか」

上田家からそれほど遠くないところにある母方の祖母・平瀬文子さんのご自宅にお邪魔した。

中学時代、上田が陸上大会に出場すると、祖父は必ずコース上で写真を撮ってプレゼントしてくれた。8年前に他界したが、いまも家の中にはアルプスの風景や雷鳥を撮った写真がパネルで飾られている。専用の棚にはカメラが何台も収められ、引き出しにはネガやポジがきちんと分類され、保管されていた。

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_D4_1423_D4_1425上)大切に保管されているカメラ 中)アルプスの山々を写したポジ 下)野口五郎小屋の前に立つ祖父・貴志さん 

「両親が仕事をしていたから、学校が終わるとよく瑠偉と桃子はうちに遊びに来て、おじいちゃんの畑仕事なんかを手伝ってくれていましたよ」

急な訪問にも関わらず、快く出迎えてくださった文子さんは、上田の子ども時代を振り返りながら、思い出の品々を見せてくれた。ふと壁を見上げると、古いカレンダーが掛けられている。上田が都道府県対抗駅伝を走った際の写真をカレンダーに仕立てたものだった。

_D4_1451_2_D4_1473上)貴志さんが愛用していたカメラを手に取り、覗いてみる。祖父はどんな世界を見ていたのか  下)文子さんと祖父の撮った写真を眺める

トレイルランナーとして地元の新聞にも取り上げられるようになった上田は、文子さんにとって自慢の孫だ。明日の大会では、文子さんも朝早くからボランティアとして会場を盛り上げるという。

「まぁ、皆さん明日も来てくださるの。どうぞよろしくお願いしますね」

 

子どもたちに
走る喜びを知ってもらいたい

翌朝。夜明け前に大会会場へと向かう。鷹狩山に車で上る途中に、夜が明け始めた。

時間を追うごとに雲も晴れてくるらしい。どうやら天気の心配はなさそうだ。_D4_1661 

「瑠偉はもっているんですよ」

長年、上田を撮り続けているカメラマンの藤巻翔はいう。上田だけでなく、藤巻はこれまで公私に渡ってアスリートの姿をたくさんカメラに収めてきた。運の強いトップアスリートはときに天気まで味方につけてしまうという。 

日が昇りきると、青空が広がり始めた。木々が美しく色づく鷹狩山に、参加者たちが続々と集まってくる。この分だと気温も上がりそうだ。参加者の年齢層は幼稚園から86歳までと幅広く、親子で出走する人もいる。学年ごとに区分けしてスタートし、それぞれのカテゴリーで全員がゴールしたら次のカテゴリーがスタートするという仕組み。 

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智夫さんは司会進行、あずささんと文子さん、桃子さんは受付とスタートゴール会場担当、美帆さんはスイーパーとして忙しく働く。

上田はカメラ片手に動画を撮りながら、先導役を務める。

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「中学時代は携帯を持っていなかったですし、高校からは大町を出て佐久長聖高校で寮生活をしていたので、地元の同級生たちの連絡先をほとんど知らないんです。でも今日も何人かの同級生がボランティアとして手伝ってくれます」(瑠偉)

1位から3位までは順位をつけるが、決して順位だけに価値を置かないように配慮している。とにかく楽しんで走ってほしいからだ。小さな子どもは親と手を繋いで走り、サッカーや野球などスポーツに打ち込んでいる子どもたちは、仲間に負けまいと全力を出し切ってゴールに倒れ込む。

_D4_2941_D4_2224_D4_3183それぞれの力で、精一杯走る子どもたち。ゴール後にはカレーと豚汁のふるまいが待っている。 

あるカテゴリーでは、最終ランナーの女の子がとても楽しそうにマイペースでゴールに飛び込んできた。

「すごい、速かった!頑張ったね!」

ボランティアの女性たちが拍手をしながら迎え、上田のサインが入った完走証を手渡す。会場は子どもたちのキラキラした笑顔と達成感に満ちた表情、大人たちの拍手で溢れていく。

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サッカー少年から陸上の世界へ
佐久長聖高校での苦悩

無事に大会を終え、夜、ご自宅でお話をうかがった。

中部電力に勤める智夫さんは結婚後、家族を伴って上高地勤務となる。ちょうど生まれて6ヶ月だった上田は一歳になるまでの半年間、標高の高い上高地で暮らした。その後、勤務地が塩尻、松本と変わり、上田が小学校2年のときに家族で大町に引っ越した。大町はあずささんの故郷でもある。

「世界のトップアスリートを見ても、キリアン・ジョルネなど子ども時代に標高の高いところで育った選手が多いですよね。科学的な実証はまだないけど、瑠偉もそれがよかったのかな」(智夫さん)

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_D4_4025 上田が赤ちゃんの頃の家族写真

長男に瑠偉という名前をつけることからもわかるとおり、智夫さんは大のサッカー好き。その影響で、上田も物心つく頃からボールを蹴っていた。小学校1年から地域のクラブチームに所属し、本格的に練習するようになる。智夫さんはコーチを務め、上田は学年キャプテンを担った。

小学校5〜6年の頃は地元の選抜チームにも選ばれた。ポジションは智夫さんのアドバイスで、ディフェンダー、サイドアタッカー、ゴールキーパーと幅広く経験した。中学に入学してからは、学校で陸上部に所属しながらサッカーを続けた。3年次にはクラブチームのキャプテンも務めたが、夏で引退する。 

「瑠偉は体力が人一倍あって、常に走り回っていましたね。走り回ってプレーするタイプでした」(智夫さん)

_D4_1352_2_D4_4009上)大町運動公園。いつもここでサッカーの練習をした。陸上大会も公園内のトラックで開催された。思い出の多い場所だ   下)クラブチーム時代の写真

学業の成績もよかった。テスト前は一週間、学校の部活が休みになるが、サッカーのクラブチームは通常どおり。ちゃんと練習に参加できるようにと、日頃から地道に勉強していた。

走るのは、小学校の頃から速かったという。小学3年から6年まで大北(大町北安曇)地域の陸上競技大会に出場。6年次には1000mを3分20秒で走って優勝し、県大会に進む。県大会本番では3分09秒の記録を出す。

中学に入ると、長野県選抜チームの練習にも参加するようになり、中3では北信越大会8位の成績を収めた。ちょうどその頃、佐久長聖高校駅伝部の監督だった両角速さんとコーチの高見澤勝さんが中学を訪れ、上田をスカウトする。

年明け、広島で開催される全国都道府県対抗男子駅伝に出場した上田は区間8位となり、長野県は大会新記録で優勝。上田は輝かしい戦績を携えて、佐久長聖高校に入学した。

_D4_1463祖父が撮った中学時代の写真。カレンダーに仕立てられ、平瀬家の壁に飾られている

サッカーで別の高校への進学することも考えていたが、「日本一を目指せる環境に身を置ける機会はなかなかない。挑戦してみたらどうか」との智夫さんの勧めで、佐久長聖に進学することに決めた。 

ところが、高校入学後の上田は怪我に泣かされる。シンスプリントや疲労骨折、腸脛靱帯炎、貧血などが続き、ほとんど大会に出ることができなかった。高校3年間で3000mも1500mも5000mも、自身の中学の記録を塗り替えることはできなかった。

その一方で、1年のときから、生活を取りまとめる学年責任者に立候補し、2年では駅伝部副キャプテンを、3年ではキャプテンを務めた。(高校時代については次回で詳しく……)

「いま思うと、当時はピリピリしていた気がします。たまに寮から自宅に帰っても、リラックスできていなかったというか。卒業してから妹に『高校時代のお兄ちゃんは怖かった』といわれましたからね。地元の知り合いからも、『昔に比べて、だいぶ笑うようになったね』と言われましたし(笑)」 

桃子さんは、そんな兄をどう見ていたのだろう。 

「おにいちゃんは努力の人なんです。そこが私と違うところ。諦めないんですよね。高校時代は辛かったと思うけれど、努力を続けてきたからいまがあるんだなと思います。まさか世界の舞台に立つなんて考えてもいませんでした。子どもの頃はよく喧嘩して、泣かされていましたよ(笑)」(桃子さん)

進学とともに上京し、いまも東京近郊で暮らす桃子さんと上田は、ときどき食事をして近況を報告し合う。仲がいいのだ。 

「職場でも結構、お兄ちゃんの自慢とかしているんですよ。だからたいていの人は兄が山を走っているすごい人だって知っています。でも、なんで山を走ろうと思ったんだろう? そこはちゃんと聞いたことがないかもしれないな」

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上田の自室にあった本たち。このうちの何冊かが、辛い時期を支えてくれた


トレイルランに出合って
すべてが変わった 

佐久長聖に進学したことで「箱根駅伝」への期待もあったのではないか。 

「僕はやっぱり出て欲しいなと思っていましたよ」

智夫さんはいう。しかし、あずささんの想いは違った。

「箱根を意識していたのはお父さんだけでした。私はいまでも高校時代のことを思い出すと、泣けてしまうんです」 

そんな両親の気持ちを察してか、上田は当時ほとんど弱音を吐かなかった。智夫さんは続ける。 

「そうだね、怪我で苦労したからね。全国の舞台で活躍してもらいたいと、どうしても親は期待してしまうけれど、ずっと走れない状態が続いていて、結局それが3年間。瑠偉はすごく芯が強いと思う。親がいうことじゃないですけど……。キャプテンになることを自分で志願して、責任感でみんなを引っ張っていこうとしていた。頑張っているなと思っていました」 

佐久長聖が駅伝大会に出場する際には、出走できなかったメンバーが1kmごとにサポートとして立ち、通過タイムを計測したり、10数年分の蓄積データと比較して選手に伝えたりしていた。大会に応援にいくうちに、智夫さんは駅伝の見方が変わっていったという。

「怪我で出られない生徒たちが裏方としてサポートに徹している。それを見ているうちに、監督や選手、サポートする生徒たちみんなで勝負しているんだなと気づいたんです」(智夫さん)

上田はとくに反抗期もなく成長したが、指定校推薦で早稲田に進学すると決まったとき、一度だけ親子げんかをした。上田が競走部ではなく、同好会に入りたいといったからだ。

「いったいどうするんだと聞いたんです。そうしたら『楽しく走りたい』と言ってね」(智夫さん)

そのとき、あずささんはこう思った。3年間辛い思いをして乗り越えてきたんだから、もうやりたいことをやればいいんじゃないかなと。高校時代、ごくたまに寮から公衆電話を使って自宅に電話がかかってきたが、あずささんは里心がつかないようにと、あえて突き放すような言葉をかけたという。いまでもそのことは、心のつかえになっている。

「でも出合いってすごいですよね。大学2年のときに初めて挑戦した100kmマラソンの『東京・柴又100K』で5位に入って、モントレイルさんから誘われなければ、瑠偉はトレイルランニングをしていなかったかもしれない。このとき声をかけて下さった平松美幸さんは、我が家では女神様なんですよ。彼女が大会に応援に来ると、瑠偉が優勝するんです」(智夫さん)

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レース前のコース説明。手づくりの『鷹狩山トレイルランニング大会』には、アスリートの父としての智夫さんの想いが込められている

モントレイルからサポートを受けることが決まり、初めて出場したトレイルレース『三原・白竜湖トレイルランレース』で優勝。秋には『日本山岳耐久レース』で6位に入り、トレイルランにのめり込んでいく。

その年の暮れに開催された『武田の杜トレイルラン』には、横断幕をつくり、上田に内緒で家族全員が応援に行った。ここでも見事に優勝してしまう。ちょうど桃子さんの誕生日で、上田はトロフィーをプレゼントした。

立て続けての勝利ですっかりトレイルラン大会に魅了された両親は、それ以降、できるだけ出場大会に応援に行くようになる。国内に留まらず、2017年7月にはスペインで開催されたスカイランニングの世界選手権『Buff Epic Trail』にも出かけた。 

「高校のときには中学の記録も塗り替えられなかったけれど、大学でレイルランを始めたら、箱根の選手と3000mで引けを取らないほどに強くなった。あぁ、そういうことなのかって僕は思いましたよ。それまで僕はトレイルランの存在を全然知らなかったけれど、こんなすごい世界があるんだなって。親としては、大学を卒業したら普通に就職していくのかなって想像してたんだけど、自分で決めてプロになりましたからね。2016年にCCC(UTMB/101km、6,100mD+)で準優勝したとき、我が子ながらすごいところに行っちゃったなと、そんな気がしました」(智夫さん) 

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 上田の自室に飾られたトロフィーやメダル。これからまだまだ増えていくだろう


世界へと旅立つ息子への想い
嬉しさと寂しさと
 

翌朝、仕事に出かける前のあずささんと二人で話をした。 

「どんなことがあっても、瑠偉はずっと前向きでした。母親としては、小さな一つひとつのことが心配になってしまったりするんですけど、本人はちゃんと考えてやっていると思います。だから、あまり細かいことは言わないようにしています。

中学三年のとき、長野県代表で都道府県対抗駅伝に出場して、たくさんの人にサポートしてもらう経験をしたんですね。そのときから、瑠偉は周りの人たちに対して、それまで以上に感謝の気持ちを持つようになった気がします。佐久長聖では怪我ばかりで、いろいろ考えたと思うんですよね」 

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上田の好物は地元のりんごとお米。実家近くの柳澤りんご農園で

高校時代、あまりの辛さから、上田はある橋の上で「ここから飛び降りたら楽になるだろう」と考えたこともあった。それでも、その状況を自らの力で乗り越えていった。

「トレイルランを始めた当初、瑠偉はトレイルランの世界でいちばん年下でしたよね。上の世代の人たちと接する機会が多くて、先輩たちから本当にたくさんのことを学ばせてもらったと思うんです。高校時代に走れなかったからこそ、いまやるんだという気持ちが芽生えたのかもしれませんね」 

同世代の選手たちの中で、誰よりも早くプロの道を選んだ上田瑠偉。鏑木毅や石川弘樹といったトレイルラン界のレジェンドたち、松本大や宮原徹といったスカイランニングの先駆者たちとは異なる方法で、自ら新しい道を切り開こうとしている。 

母として、未知なる道を進む上田の未来をどう予想しているのだろう。 

「全然想像もつきません。そうですね、いつか大町に帰ってきてくれたら嬉しいけれど、それはずっと歳を取ってからでいいと思ってます。ヨーロッパへ移住したいという希望もあって、親としては寂しい気持ちもあるけれど、好きなことをできる人生って幸せですよね。瑠偉は本当に周りの方たちや環境に恵まれていると思います」 

息子がトレイルランに出合ったことで、思いがけず自分自身にも変化があったという。

「私もトレイルランを通して元気をもらっているんですよ。大会に行くと、自然と大きい声が出るでしょう。私は本来インドア派で、家で静かにしていたいタイプなんですけど、大会に行くと自然にそういう気持ちになるんです」

いままででいちばん印象に残ったレースを尋ねると、大会新記録を打ち出した2014年のハセツネCUP(7時間01分13秒)だという。

「スタートを見送って、ご飯を食べてホテルでのんびり待機していたら、思ったよりも速くゴールしそうだと言われて。月夜見に応援に行こうかと思っていたのをやめて、ゴール会場に向かいました」

この日おそらく、上田瑠偉は次なるステージへと一歩を踏み出したのだろう。 

「瑠偉は小さい頃から体力はあったんですけど、私に似たのか、運動神経は桃子の方がよかったくらいです。でも社宅の庭で、パトカーとか消防車のプラスチックカーをずっと漕いでいました。もう少し大きくなったら三輪車。三輪車を漕いでも速かったんです。外でばかり遊んでいたことで、持久力がついたのかもしれませんね(笑)」 

朝食を終え、お茶を飲みながらのひととき。息子の話をする母の笑顔はとてつもなく温かかった。

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Profile
上田 瑠偉 / Ruy Ueda

1993年、長野県大町市生まれ。小中学校ではサッカーに取り組み、高校は陸上の名門・佐久長聖高校に進学。早稲田大学2年のとき、初めて出場したウルトラロードマラソン「東京・柴又100K」で5位に。会場でコロンビアスポーツウェアジャパンからスカウトされ、トレイルランの道に進む。主な戦績は2014年「日本山岳耐久レース」優勝(大会新記録・7時間1分13秒)、2016年「スカイランニング世界選手権コンバインド」準優勝、「スカイランニングユース世界選手権U-23スカイレース・コンバインド」優勝、「CCC(UTMB)」準優勝、2017年「日本山岳耐久レース」優勝、「スカイランニングアジア選手権スカイ」優勝など。

Photo:Sho Fujimaki
Text::Yumiko Chiba