上田瑠偉にとって、これはいくつめの分岐点だろう。
箱根駅伝の常連校である早稲田大学に進学して、陸上エリート集団の「競走部」ではなく「陸上競技同好会」で走ることを決めたとき、佐久長聖時代の恩師・高見澤勝監督はこんな言葉をくれた。
「佐久長聖の生活に比べたら、同好会は緩いと感じてしまうかもしれない。でもイライラしたりせずに、頑張りなさい」
なにごとにも几帳面にとりくむ上田へのエール。上田が同好会を選んだのは、怪我を繰り返し、思うように走れなかった高校時代のスパイラルから抜け出したかったからだ。
たしかにサークル内にはどこかゆったりとした空気が流れていた。まず、練習時間になっても全員が集まらない。佐久長聖では「集合時間5分前の到着」が当たり前だった上田にとって、これはちょっとしたカルチャーショックだった。
「でもよく考えたら、もうチーム競技ではないわけですから。自分の物差しを押しつけるのはよくないかなと思って、自分は自分のやり方でやっていこうという気持ちに変わっていきました。人間って、環境に慣れていくものですね(笑)」
心のどこかに箱根を目指したいという想いは、なかったのだろうか?
「まったくなかったですね。大学時代に箱根駅伝を中継するテレビ局のアルバイトをしたこともあったんです。でも舞台裏を見ても、自分が走りたいとは思わなかったです」
上田には、影響を受けた人物がいた。
佐久長聖時代に怪我をして選手生命が危ぶまれていた先輩が、早大の同好会に入って5000mで同好会記録を打ち立てた。さらに早大卒業後は筑波大学大学院に進学し、関東インカレでも大会新記録も樹立する。彼の活躍から、同好会でも強くなれることを信じていた。
佐久長聖のチームメイト・両角駿さんは上田のことを「特別な嗅覚がある」と表現する。その言葉どおり、上田は大学でも幸せな出会いに恵まれる。自分の限界を引き上げてくれる先輩、そして切磋琢磨できる仲間たち。
「同級生の武田竜馬もそのひとりです」
「大学を卒業したら陸上も卒業と思っていました」(武田竜馬さん)
待ち合わせ場所に訪れた武田さんは、とても律儀そうな印象の青年だった。現在は日本製鉄(旧:新日鐵住金)に勤め、忙しい毎日を送っているという。高校の途中に野球から陸上へと転向し、5000m15分台を記録。早大の同好会では、自己記録の更新を目指して励んでいた。
「新入生歓迎会で出会ったときの瑠偉は、丸坊主でした。出身校を聞いたら佐久長聖だというので驚いたんです。彼はストイックで真面目でした」
Photo: Takuhiro Ogawa
サークルは代々木公園陸上競技場(織田フィールド)を拠点にしていた。週一回夕方に集まり、インターバル、レペテーション、ビルドアップなど刺激系メニューをこなす。
「サークル内にはバリバリに競技志向の人もいれば、ジョギングスタンスの人もいます。僕は競技志向だったので、よく瑠偉と一緒に練習していました。最初は彼とタイムも同じくらいでしたから」
年に7回合宿があり、菅平や妙高高原などに出かけた。
「毎日メニューを決めて練習して、夜はレクリエーション。最終日前日の午後は自由行動なんですけれど、その時間にも瑠偉は自主練していました。まじか、と思って見ていましたね。1年のときには5000mも僕の方が速くて、瑠偉が『来年は勝つ』とか色紙に書いていたんですけれど、いま見ると恥ずかしいです(笑)」
上:同好会時代の二人。武田さんは中長距離ブロック主将を務めていた 下:関東大学クラブ対抗陸上競技大会(提供:早稲田大学陸上競技同好会)
同好会には1500mで『日本陸上競技選手権』に出場した選手もいた。上田も5000mと10000mで『関東クラブ対抗陸上競技大会』に出場する。
「でも瑠偉がいちばん変わったのは柴又100Kに出場してから。あれから、ものすごく変わったと思います」
武田さんも誘われたが、長い距離は苦手だからと出場しなかった。10代最後の記念に参加したこの大会で、上田は5位に入賞する。上田はそのときの心情をこう話していた。
「大学1年の最後に初出場したフルマラソンが2時間41分だったんです。当時の福岡国際の参加基準が2時間42分だったので行けると思っていたら、エントリーの段階になって2時間40分に繰り上げられて。それが悔しくて、よし100kmに出てみようと思いました」(上田)
ベテランランナーが多いウルトラマラソンの大会で、大学生の入賞は際だっていた。この日をきっかけにして、次第に上田の表情は変化していく。
「何かが吹っ切れたというか。僕は自信だと思うんです。長距離は自分が勝負できる世界だと、気づいたんじゃないですかね。競技の視点が高くなった気がしました。だんだん彼の練習についていけなくなり、ちょっとスピードが落ちると『落ちるな!』って尻をたたかれるようになって(笑)。その頃から瑠偉は、ひとりでもキツイ練習をするようになりましたね。もともとそういうことができるタイプだったのだと思いました」
ゴール会場でアウトドアメーカー・コロンビアスポーツから誘われ、トレイルランの世界へと入っていく。
「スポンサー契約をしたと聞いたときは本当に驚きました。トレイルを走るようになってからはトラックのタイムも上がって、トレイルランの効果ってすごいんだなと。もう異次元の人になっちゃったなと感じていました。日常はまったく変わらなかったですけどね(笑)」
4年生のとき、就職活動を始めた武田さんに、上田はこう話す。「就職活動をせずに、トレイルランで勝負することにした」と。上田は卒業後、コロンビアスポーツに契約社員として所属することが決まっていた。マラソンでいう実業団選手のような形でアスリート活動を続けることになる。
「語弊があるかもしれませんけれど、早稲田を卒業して、普通の就職をしないっていう選択をしたことがすごいなと。サラリーマンをしながら市民ランナーとして走ることもできるのに、それを選ばなかったんですよね、瑠偉は。僕自身は大学で陸上は辞めて、卒業後は先生かサラリーマンになろうと考えていましたから。彼は将来を見据えて、英語も勉強していましたね。そう、今日はぜひお話したいと思っていることがあるんです」
そういって、武田さんは少しあらたまった。
「僕がいちばんカッコいいと思った上田瑠偉のことを話していいですか。大学3年の秋、陸上同好会主催の競技会『挑戦会』のときのことです」
味の素スタジアムの隣にあるAGFフォールドに、同好会メンバーが一堂に会した。
「その日は大雨で全くタイムを狙えない状況で、僕もすっかり諦めていたんです。そんな中、瑠偉が出場する3000mが始まった。そうしたら彼は最初から独走して、当時の同好会記録を更新してしまいました。ざんざんぶりの雨のなか、ひとりで走って、8分30秒くらいだったかな。あれには感動しました」
誰もが記録を諦めていた激しい雨のトラックで、黙々と走る上田。それまで、上田が独走するようなシーンはあったのだろうか。
「なかったですね。最初から独走はなかった。瑠偉はもともと突っ込むタイプで、1年のときは最後まで粘れないパターンが多かったんです。でもこの競技会では最後まで走りきった、雨の中を。このときの走りは、いまでも鮮明に心に残っています」
大学卒業と同時に、ほとんどの仲間は競技の世界から卒業する。大学時代のように練習できなければベストはもう出せない。それではつまらないからと、武田さんは走ることを辞めた。
「瑠偉は本当に走るのが好きなんです。そうじゃなければ高校時代にとっくにくさっていたはずですよ。瑠偉を見ていると思うんです。覚悟が決まっているなと。体ひとつで食っていくというね」
関東大学クラブ対抗陸上競技大会にて
「ひとりの人間として尊敬している」(妻・美帆さん)
妻の美帆さんとも同好会で知り合った。高校時代は長距離や競歩に取り組んでいたという美帆さんは、女子大で栄養士の資格を取得し、いまは都心にある大手食品会社に勤めている。
「大学時代はサークル仲間という間柄でしたけれど、卒業して社会人になって再会したとき、あらためて尊敬できる人だなと感じました。日常生活も含めてです」
それはどんなところなのだろう。
故郷・大町で父・智夫さんが主催する『鷹狩山トレイルランレース』。美帆さんもスタッフとして手伝う
「彼は自制心が強いんです。私なんて、すぐに日常でも気が緩んでしまったりするんですけれど、彼は自分で考えて決めたことを着実に進めていく。そういうことって、実はとても難しくないですか? 仕事で優秀な人でも、日常生活まで尊敬できる人というのはなかなかいないと思うんです。自分で自分の道を切り開いていくところもすごいなと思っています」
家で美帆さんに弱音を吐いたりすることは?
「弱い部分を見せることは、ほとんどないです。それは多分、彼が楽観的だからですね。逆に私の方が将来のことを心配してしまうくらいで……(笑)」
美帆さんは東京近郊にある家から毎日1時間ほどかけて会社に通勤している。上田はランやパーソナルトレーニング、コンディショニングのスケジュールを組み、月に数回は所属するコロンビアに出社する。ほかにも大会のゲストランナーやイベント、取材の仕事をこなす。
二人揃っての休日にはよく登山に出かける。美帆さんが初めてリクエストしたクリスマスプレゼントはピッケルだった。二人のときにはゆっくり歩きながら山の時間を味わう。
2020年春からはフランスへ移住することを決めている。少なくとも4年間は帰らない。会社を退職して渡仏する美帆さんは、やりがいのある仕事から離れてしまうこと、そしてダブルインカムでなくなってしまうことに少しだけ不安を抱く。
「いま勤めている会社はスポーツと食を総合的に提案する企業で、仕事もとても好きなんです。フランスでは彼をサポートできるように、語学も学んでいきたいなと思っています。正直、いろいろな心配ごとや葛藤もあるのですけれど、そんなことを話すといつも彼は『なんとかなるよ!』と(笑)。そう言ってくれるのはやっぱり心強いですね」
一つひとつ言葉を選びながら、自分の思いを率直に話してくれる美帆さん。二人のエピソードについて、こちらが驚くほどまっすぐ笑顔で話してくれた。その誠実でひたむきな様子はどこか上田と重なる。
二人にとって全く新しい生活が、まもなく始まろうとしている。
「トレイルランの顔になれる選手だなと」(平松美幸さん)
初のウルトラマラソン『柴又100K』のゴール会場で、ひとりの女性が上田に話しかけてきた。
当時、コロンビアのマーケティング部に所属し、「モントレイル」や「マウンテンハードウェア」などのブランドを担当していた平松美幸さんだ。
2000年代初頭からモントレイルにはトレイルランのパイオニア・石川弘樹さんが所属していたが、国内でさらにトレイルランを普及させるため、新しいサポートアスリートを探していた。
コロンビア退職後、平松さんがオープンしたクラフトビールの店『PDX TAPROOM』を訪ねた。ビール好きだけでなく、アウトドア関係者やトレイルランナー、アドベンチャーレーサーも集う
「スカウトが目的で会場にいたわけではないんです。たまたまモントレイルに所属する海外選手が出場していたので行ってみたら、大学生が入賞して興味がわいて。ちょっと話を聞いてみたくなりました」
上田は早稲田のユニフォームを着ていた。平松さんが名刺を差し出し、トレイルランに興味があるかと尋ねると「ある」という。ベストセラー書籍『BORN TO RUN』(クリストファー・マクドゥーガル著)を読んだことがあると答えた。
「もし興味があるなら連絡してと言って別れました。2週間くらい音沙汰がなく、連絡先を聞いておかなかったことを後悔していた頃にメールが届きました。それがとてもしっかりとした文面で、ちゃんと考えて返事をくれたんだなと感じましたね」
平松さんはほかにも奥宮俊祐さんや山田琢也さん、大塚浩司さん、三浦裕一さんを見いだしている。
コロンビアとのサポート契約が決まった上田は、山田さんと大塚さんをスペシャルコーチに、秋に開催されるハセツネ(日本山岳耐久レース)のコースを試走した。大学生と聞き、軽い気持ちで臨んだ二人からは「結構速いよ」という感想が返ってきた。
上:「柴又100k」のゴールシーン。この入賞が上田の人生を変えることになる 下:2013年ハセツネ試走にて人。左から山田琢也さん、上田、大塚浩司さん
その後、奥宮さんが主催する『三原白竜湖』(広島)に出場し、見事、優勝してしまう。
当時、平松さんはどんな基準でスカウトしていたのだろう。
「山田琢也さんは“八海山トレイルラン”で出会いました。登りで『頑張ってね』と声をかけたら『ありがとうございます!』と爽やかな返事が返ってきて、いいなと思ったのがきっかけです。スカウトの基準は人間としてキチンとしている人かどうか。みんなから可愛がってもらえるような選手を選んでいましたね」
その理由は、メーカーの顔としての役割だけでなく、トレイルランの顔も担うからだと平松さんはいう。速いだけの選手は少し違うなと。
「柴又100Kのとき、瑠偉君はサポートしてくれた仲間に、とても丁寧にお礼を言っていました。人とのコミュニケーションは選手として活躍するようになってからも重要だと思うんです。彼を見ていて、ブランドやトレイルランについてちゃんと理解して発信できる人だと感じました」
これから発展していくであろうトレイルランのイメージも背負えるアスリートとして、上田に期待した。平松さんの予感は的中し、すぐに先輩アスリートたちからも可愛がられた。
「トレイルランシーンはもうメーカーの想いだけで引っ張っていく時代ではない。だからこそ、中長期で付き合っていける選手と出会いたかったのです。たとえリザルトが出せなくても、その後の人生まで一緒に考えていける人、トレイルランを広く知って欲しいというこちらの想いを体現できる人と……」
学生時代を米国オレゴン州ポートランドで過ごした平松さん。コロンビアの本社もこの地にある
潜在能力は高いものの、大学生の上田がどこまで本気で取り組むかは、正直、未知数だった。その真剣さを受け止めたのは、初出場したハセツネで見事6位で帰ってきたときだ。
「彼はレースプランをしっかり組み立ててレースに臨んでいました。若い選手は最初に突っ込んでつぶれしまうことが多いので、ちゃんとゴールできるかなと思っていたんです。ゴール手前で近藤敬仁さんに抜かれ、数秒差で負けてしまうんですね。近藤さんはヘッドライトを消して、追い抜くチャンスをうかがっていたらしくて。それを知り、瑠偉君は悔しがって泣いていました」
この頃にはもう上田の中で何かが変化し始めていた。トレイルランを始めてからトラックの記録も伸び、大学2年の冬には5000mが14分35秒。高校時代の自己ベストが16分01秒だから、その成長ぶりがよくわかる。ハセツネで初優勝した大学3年冬には14分26秒まで伸び、10000mでも29分57秒を記録した。
長野県大町の実家にて。自室に並べたトロフィーには、一つひとつに思い出がある
手にしたひとつめの世界頂点。その先にあるものは……
2014年、上田はハセツネでコースレコード(7時間01分13秒)を打ち出し、初優勝を飾る。コロンビアを退職した平松さんは翌年、ポートランドのクラフトビールを提供する『PDX TAPROOM』をオープンした。
「彼には自分に合ったものを選ぶ力があります。そして向上心も強い。メディアに対する対応もちゃんとしている。正直、ここまで早くにトレイルランの顔になるとは思っていませんでしたね」
いまも上田とは交流を重ねている。山岳ランナーになる前の姿を知る平松さんは、厳しいプロの道を歩む上田にとって、気兼ねなく話せる相談相手だ。
「彼は弱いところは見せたがらないんですよ。そして結果をとても大事にしているように私には感じます。たとえば2016年、ハセツネでリタイアするんですけれど、彼はリタイアバスから笑顔で降りてきました。それを見たとき、私は少しだけ思うところがありました。トップアスリートとして、記録を残せなくてもゴールを目指す姿を見せて欲しかったなと……」
では、彼の強みは何だろう。
「それはやはり “走ることが好き” ということです。だからこそ、職業に選んだ。山岳ランニングを広めていきたいという想いがあって、記録はそのための表現でもあるわけですよね。彼は自分の道を切り開くだけではなく、彼の後に続く後輩たちのための道でもあることまで自覚しています。そこが本当にすごいところです」
2019年秋、上田はスカイランニング世界王者となった。この先の道はさらに険しいだろう。世界中の山岳アスリートが、上田を目標に挑んでくる。
「これからも柔軟でいてほしいなと思います。彼はとても真面目で、思い込みやすいところもあるので、自分の経験だけに学ぶのではなくて、いろんなことに目を向けてチャンスを掴んでほしい。彼の魅力は素直さ、どんなことにも真摯に取り組む姿勢です。その美点を伸ばして、ひとつひとつのレースや出来事に丁寧に向き合ってほしいなと思っています」
上田がトレイルランと出合って、6年あまり。その間、周囲の想像をはるかに上回る速さで世界の頂点へと駆け上がった。上田のスピードに、はたして日本の山岳ランニングシーンは追いついているだろうか。文化は広く豊かに醸成しているだろうか。
上田を長年近くで見てきたフォトグラファー藤巻翔は言う。「瑠偉の表情や目は、刻一刻と変化している」。だからこそ逃さず、撮り続ける……、言葉の隙間から二人の絆が見えた。常に高い次元で共鳴し合う藤巻もまた、上田が引き寄せたかけがえのない存在だ。
2020年、上田は何に出会い、何を選びとっていくのだろう。
Photo: Sho Fujimaki
Text: Yumiko Chiba