日常の移動はトレーニングも兼ねてランか自転車。この日も自宅のシェアハウスから自転車で
ウルトラランナーの飯野航さんが、2020年10月、東海自然歩道を走破した。東京・高尾から大阪・箕面まで、16日17時間27分、総距離1140km、累積標高約30000mに及ぶ壮大な旅だ。
東海自然歩道にはいくつかのルートがあり、さらに現在は台風の被害などで迂回しなければならない箇所もあるため正確な測定は難しいが、現時点で、おそらく国内最速記録といえるだろう。
ゴール間際の階段を駆け下りる飯野さんの足取りは想像以上に軽やかで、とても1140kmを走ってきたようには見えなかった。相当なトレーニングを重ねてきたことがわかる。ゴール直後、飯野さんはこう語っていた。
「しんどいところは今、なにもない。UTMBのスタートに立てと言われたら喜んで立てるくらい。何かが起きたのだと思う」
疲労の影は見えないが、それでも17日間に渡る長い旅の中では辛い時間帯が3回訪れたという。一度は「もう走るのを辞めよう」とさえ思った。
誰に強いられたのでもない、自分で決めた挑戦。辛さを乗り越えて走り続けたのには理由がある。飯野さんにとって東海自然歩道走破は序章に過ぎないのだ。すべてが、本気で成し遂げたい夢のために。
5Lのパックに一回分の着替えと必要装備を詰めて
ーーーあらためて完走おめでとうございます。前回のインタビュー(「いま、心を甘やかさない挑戦がしたい」2020年8月)では、現在のご自身のテーマは「心の底辺を知ること」だとおっしゃっていました。今回の挑戦では、底辺は見えましたか?
飯野:見えましたね(笑)。中盤で見えてしまって「もういいや」とさえ思いました。肉体的な疲れ、睡眠不足、たった一人で走るという孤独、次どこで食べることができるかわからない食事への不安……。
いろいろな要因がありましたけれど、僕の中では孤独が未知だったんだよな。身体の疲れは想定していましたけれど、意外に大丈夫だったんですよね。普段鍛えているのがよかったのか、走り続ける中で、身体がそれなりに早く順応していきました。
ーーー最後、足取りが軽やかで驚きました。
飯野:なんか全然疲れていなくて、めちゃくちゃ元気だったんです。あと1000km走っても、多分変わらないんだろうなとさえ思いました。そういう不思議な体験でしたね。
途中から走るのが生活みたいになっていったんです。本来、動物にとって走るのは自然なことでしょ。走らない方が不自然というか。シマウマとかムーとか、大移動でずっと走り続けている動物とかいるじゃないですか。そういう動物たちはおそらく筋肉痛なんて起きないわけで、ずっとマイペースで移動していると思うんですよ。自分もそういう状況になったというか、走ることに馴染んだ感覚がありました。
予想していかなったのは腹痛です。前半、静岡の茶畑を早朝走っていたときにかなり寒かったこともあって、その後、お腹がギュルンと鳴り、上からも下からも下してしまう時間帯がありました。これは辛かったな。
でも、それ以外はどこも痛いところはなかったんですよ。筋肉という意味では終始、まったく大丈夫でした。乳酸がたまって脚が上がらないといったようなこともなかったです。
ーーー基本的に「サポートや伴走はなし」というスタイルでの挑戦でした。GPSバッテリーの交換のため、スポンサーである明日香野食品のスタッフの方が車で先回りしていらっしゃっいましたね。
飯野:そうなんです。当初は一日一回、GPSバッテリーを交換するタイミングで、コンビニなどで落ち合う予定だったんですけれど、明日香野食品さんがTwitterで随時、近況をアップしてくださることになり、バッテリー交換以外のタイミングでも会う機会がありました。
そうはいっても、基本は自己完結。一回分の着替え一式とレインウエア、スマホ、モバイルバッテリー、ヘッデン、GPS、虫除けスプレー、エマージェンシーヴィヴィ、飲食物といった必要装備はすべて、最初から最後まで自分で背負っています。予想外に寒くて、途中応援に来てくれた友人から借りたミッドレイヤーをそのまま最後まで着ていました。ザックは当初、8Lの予定だったんですけれど、事前に試したら揺れたので5Lにしました。食事は主に行く先々のコンビニで調達しました。
シューズやギアはスポンサーである「さかいやスポーツシューズ館・斎藤勇一さんに相談している。「下りでブレーキをかけた後が見えますね。骨格構造的に誰でもアウトソールの外側は減るものなんですが、それでも飯野さんの場合は少ないですね。ミッドで着地しているのだと思います」と斎藤さん
ーーー今回はレースでないので、ご自身でスタイルやルールを決めておられたわけですよね。自由度の高い中で、飯野さんが何を選択したのか知りたいなと思っていました。
飯野:そうですね、すべて自分なりのルールで進みました。バッテリー交換隊の車に荷物を預けたことはなかったんですけれど、ただ当初決めたことと違ってしまったのは、コンビニでの買い物を2〜3回手伝ってもらったこと。後ろめたさといえば、そこかな。
コンビニがルート上にないことはざらで、片道7kmくらい走っていくことはあったのですが、後半まったくないエリアがあり、何十キロも離れていることもあったので、おにぎりやおせんべいなどを買ってきてもらいました。
なぜそうしたのかといえば、この挑戦でのプライオリティは何かと考えたとき、やっぱりゴールすることがいちばんのプライオリティだと思ったからです。史上最速でゴールするということが。
次に何が大事かと考える中で、食事を買ってきてもらうのは2〜3回ならいいんじゃないかと思ってお願いしました。100点は取れなくても、80点は取れるんじゃないかなと。
東海自然歩道完歩者に発行される記念証
ーーー旅の間はどんな食事を摂っていたのですか。
飯野:前半はずっと補給食としてカロリーメイト系のものを買っていたんですが、飽きてしまって、中盤以降はほとんどおにぎりと魚肉ソーセージを食べていました。魚肉ソーセージはちょっと塩気があっていいんですよ。あとよく食べたのは「堅ぶつせんべい」。これを一日4袋くらい食べていました。
後半はほぼこの3つでしたね。あれだけの距離を走っていると、餅米でもなんでも気兼ねなく食べられるのがよかったかな。ニキビも出来ないし、太らないし(笑)。
ーーーちょっと本題から逸れるかもしれないのですが、木の枝を持って走っておられましよね。あれはどんな意味があったのでしょう。挑戦中、サイトに質問が寄せられたものですから、解明しておこうかと(笑)。
飯野:あれは藪を歩く際の蜘蛛の巣とりの枝です。気に入った枝を持って歩いていたんですけれど、山を下りてコンビに寄ったときに入り口に置くと、ついそのまま忘れてしまって。それで、3〜4代目くらいまで変えたかな。3日くらい同じ枝を持っていたときには、やたらと手に馴染みましたね(笑)。
静岡県の秋葉神社にて Photo:Kozo Okushima
想定タイムよりも徐々に遅れていった理由
ーーーペースは想定通りでしたか?
飯野:当初、12日くらいでのゴールを目指していました。事前にコンビニや日帰り入浴施設など休憩場所をチェックし、ポイントごとの予想タイムをまとめていたんです。
結果的に16日かかってしまった理由はいくつかありますが、そのひとつは、参考にしていた情報のコースタイム基準が揃っていなかったことが挙げられます。東海自然歩道全体を通した地図はないので、山と高原地図のアプリと、東海自然歩道をエリアごとに紹介した書籍を参考にしていたんです。山と高原地図ではコースタイムの60%を想定していました。多分僕はそれよりも速く走れるだろうなと思っていたので。前半は山と高原地図で対応していたんですけれど、静岡以降は地図に載っていなくて、書籍を参考にしました。
ところが、書籍に掲載されていたコースタイムが予想に反して、山と高原地図の基準(※)より速かったんですよ(笑)。おそらく男性一人で歩いたペースなのだと思います。途中からそのことに気づいて、これは60%は無理だなと(笑)。結果として、徐々にタイムが後ろ倒しになっていったわけです。
(※山と高原地図は40〜60歳の登山経験者、2〜5名のパーティで小屋利用の装備、夏山の晴天時を想定している)
京都・嵐山にて。ゴール前夜、オーナーがトレイルランナーだという「結庵」に立ち寄る。夕食をとってゲストハウスに宿泊 Photo:Yoji Ueno(Monkey Crew)
ーーー睡眠はどれくらい取っていたのですか。
飯野:一日2〜3時間を目安に寝ていました。肉体的なダメージは少なかったけれど、睡眠が足りなかったのがやはり響きましたね。中盤までは、日帰り入浴施設の休憩所などで仮眠していましたが、新型コロナウイルスの影響もあって、どこも営業時間が短くて夜8時くらいまでなんです。ファミレスも時短営業だったので、あまりゆっくりは休憩できない。眠くてどうしようもないときは、公園のベンチなどでも寝ました。
そんな状況ですから、夜は休む場所がなく、必然的に走らなければならなかった。その分、孤独を感じる時間が増えました。何回かはちゃんと宿を取って眠りましたね。
ーーーなるほど。そういう状況だったんですね。
飯野:すべて一人で走っていたかというと、厳密にはまったく一人というわけではなかったんですよ。今回のチャレンジはテレビ局が撮影していたので、ランニングカメラマンと出会うことがありました。カメラマンの姿を見つけると、正直、救われた部分もありました。
三重県大石公園 Photo:Asukafoods
誰かと辛さを共有したかった
飯野:全行程のなかでは3回きつい時間帯がありました。そのうち1回は、もう走ることを辞めたいとさえ思ってしまって。
たとえば、にんじんをぶら下げられた馬って、目の前にご褒美があるから走ろうと思うわけでしょう。そのにんじんがずっと先の見えないところにあったら、走りたいと思わないですよね。
それと同じように、1000km以上先に目標があるというのはやっぱり想像しにくいし、精神的にきついんです。僕はレースのとき、次のエイド、次のエイドと目標を決めて進んでいるんですね。そういう小さな目標が今回はまったくなかった。希望の光がずっと先に存在することだけを信じて進むしかなかった。それが本当にきつかったんです。目標にする光が小さすぎるんですよ。
ーーー前回のインタビューでも、エイドでモチベーションが上がる話をされていました。
飯野:エイドの存在は大きいですね。今回は、もう何も望まないから、ただ知っている人の声が聞きたいと思いました。そういう心境に追い込まれたことが3回あったわけです。
一度目は愛知の新城大野あたりを通過していたとき。この時は同じシェアハウスに住んでいる友人に電話しました。事前に「あまりに辛くなったら電話してしまうかも」と伝えておいたんですね。ランナーではないんだけれど、よく気持ちをわかってくれる子で、出発する際にミサンガをもらいました。
もう本当に、ただただよく知っている人と会話がしたかった。弱音を吐いて同情してもらうとか、そういうことを望んでいたわけではないんだけれど、誰かに辛さを共有してほしかったのかなと思いますね。
二度目はスタートから600km地点、岐阜県の伊自良湖あたりでした。このときは「もう辞めたい」と思って、フラットなロードも数十キロ歩いてしまいました。身体は疲れていなかったのに湖畔でひと休みしました。精神的にかなり追い込まれていたんですよ。これだけ頑張ってまだ600kmなのかと……。
三度目は三重県亀山市の鈴鹿峠です。滋賀県の紫香楽宮跡で応援に来てくれた丹羽薫さんに会う前、ロストしてしまったんです。加太という山中でルートから外れてしまい、1km進むのに5時間ほどかかって、道もなくて分岐も多くて。
新城大野にて Photo:Tatsunori Yamada(Young Castle)
ーーーロストは精神的ダメージが大きいですね。
飯野:ほんとにそう。思い返せば、スタート直後からトラブルがあったんですよ。雨の中スタートしたんですけれど、1日目にスマホが水没しちゃったんです。スマホにルート情報など集約していたこともあって「終わった」と思いました。
途方に暮れていたら、明日香野食品さんのスタッフがスマホを2台持っているからと1台貸してくださって助かりました。事前にダウンロードしておいた山と高原地図はほとんど使えなくなってしまったものの、それで最後まで進むことができました。
ーーーよく心が折れなかったですね。ロストしたときはどんな状況だったのですか?
飯野:この頃はさすがに身体もボロボロでした。関節がどうこうとかじゃなくて、いばらや藪漕ぎがすごくて、擦り傷がひどかったんです。尾根沿いなのに、踏み跡がない藪ばかりで、これは道を間違えているなと思ったんですけれど、ルートが曖昧で。エスケープして、尾根よりも少し下をトラバースしたら、ロストしてしまいました。
東海自然歩道は県によってかなり印象が異なります。道や道標が明確なところと、そうでないところと。東京、神奈川、静岡、愛知と西へ進むに従って、だんだん道が荒くなっていきましたね。通行止めや迂回箇所もあって、このままこういう状態が続くのかなと思っていたら、岐阜県に入った途端に進みやすくなり、これは行けるかなと思っていたら、また三重県が大変なルートで。
一回目に辛かったときは電話で救われたといいましたよね。二回目は夜、華厳寺で宿泊した立花屋さんという宿で、宿の方とお話することで救われたんです。振り返ってみると、人と話して救われたことが多かったですね。誰かと会話することで、揺れていた心が落ち着いた部分がありました。
三回目に辛かったときは、明日香野食品さんのスタッフの方との会話に救われました。ロストして5時間さまよった後、麓の余野公園で合流して話ができたときにはほっとしました。そういえば明日香野さんには2回、洗濯をしてもらったこともあったな。僕が銭湯に入っている間に、コインランドリーで洗っておいてくれたんです。結構、甘えていますね(苦笑)。
ーーー いちばんの辛さはやはり孤独なんですね。
飯野:ですかね……。僕は普段から一人で山に行くことも多いし、2〜3泊の縦走もするので、一人でいることはそれほど辛くないんですけれど、これだけ長い日数が続くときついのかな。
人間て、やっぱり一人じゃ生きていけないんですよね。地球上に自分一人しかいなかったら、僕ら人間は死んでしまうんですかね? それとも、たった一人でも生き抜こうと思うのかな。どう思います? もし食べるものがあって、この世に自分以外の人間も動物もいなかったとしたら。
ーーー生きる喜びは感じられないですね、きっと。
飯野:ですよね。やっぱり誰かと何かを共有するから、生きている意味があるのかなと思うんです。本当に自分一人だけだったら、なんのために誰のために生きているんだろうって思ってしまうんじゃないかな。世の中に自分しかいなくて1000km走ってもね、あれっ、ていう感じですよね(笑)。
ーーー「この世に誰もいなかったら1000kmは走れない」。名言ですね。
滋賀県の紫香楽宮跡にて。丹羽薫さんや友人たちが応援に駆けつけ笑顔に
Photo:Kaori Niwa
無意識に疲労をコントロールしている
ーーー次の挑戦に向けて、反省点や改善点があれば教えてください。
飯野:まずはお腹を冷やさないこと、あとはルートをもっとしっかり調べておくべきでしたね。お腹を冷やさなければあと2日、道に迷わなければあと1日速くゴールできたと思うので。それとコンビニの場所も。富士のあたりでは一旦、山を下ってコンビニまで行きましたから。
ーーー内蔵も含めた身体疲労についてはいかがでしたか。
飯野:スピードを抑えていたし、乳酸が出るような登り下りも少なかったので、身体にはあまり負荷がかからなかったようです。ゴール翌日に血液検査をしたんですけれど、全体的に軽い疲労の数値でした。
CK値(クレアチンキナーゼ/筋肉細胞のエネルギー代謝に必要な酵素)というのがあって、男性の正常値は100U/L前後らしいんですけれど、検査をしてくれたランナーで医師の知人がUTMBに出場したときには疲労が蓄積していて、2000〜2500U/Lまで上がったそうなんですね。僕は600U/Lだったので、負荷が低かったのかなと思います。
ーーー疲労のコントロールが上手なんでしょうね。
飯野:僕ね、歩くと女性より遅いんですよ。人間は歩くと心拍がある程度上がりますけれど、僕の場合はほとんど上がらないんじゃないかな。無意識に心拍を上げないようにして歩いているから、みんなより遅いのだと思います。坂道ダッシュでも女性に勝てないんです。血糖値もわりと安定しているタイプらしくて。
ーーー全行程どれくらいのペースで走っていたのでしょう。
飯野:平地も山も含めて平均は20分/kmくらいです。歩くペースよりちょっと速いくらいですね。中盤以降はずっと12分/km〜20分/km。ただその間には、下りや平地など4分/km程度で走っている時間がだいぶ入っています。とくにラストはかなり飛ばしました。
ーーー超長距離では睡眠の取り方が難しいとよく聞きますが、リズムは上手く掴めましたか。
飯野:今回気づいたのは、これくらいの長い挑戦の場合、睡眠は「仮眠2回、睡眠1回」というサイクルがベストなのかなということ。仮眠2時間、しっかりとした睡眠5時間くらいがよいと感じました。
地面とかで寝ることもあったんです。山からようやく麓に下りたところに電柱があって、寄りかかりながら座ってウトウトしていたら、犬におしっこをかけられて(苦笑)。あとは、昼間に公園のベンチや山中で寝たりもしましたね。
約718km地点の岐阜県揖斐郡・久瀬橋にて。コンビニで食料を調達する
Photo:Asukafoods
海外レースに出場するうち、世界一周の夢が
ーーー飯野さんご自身は、なぜここまで長い距離を走るのだと思われますか?
飯野:そうだな、今回について言えば、近い将来に実現したい夢があって、そのトレーニングの意味で走りました。1〜2年のうちに「世界一周を走りたい」という目標があるんです。新型コロナウイルスの影響で今年は難しいので、2022年かなと思っています。突き詰めていくと、誰かに伝えることがあるから走っているのかなとも思いますね。
ーーー伝えることですか。
飯野:僕はプロランナーじゃないから、本来の仕事で食べていけばいいわけで、とくに走る必要なんてないんです。でもやるんですよね。それは自分のためでもあるんだけれど、周り回って誰かのためになったらいいなと思っているのかも。いろんな意味でね。
今回こんなことがありました。静岡県清水の「やませみの湯」で休憩していたとき、あるご家族が応援に来てくれたんです。お手製の応援内輪までつくってきてくれて。そのとき出会った子どもたちが、5年、10年経ったとき「あの時、自分はこんな人に会っていたんだ!」と自慢できるような、そんなふうになったらいいなと思うんです。つまり僕自身が、子どもたちに自慢してもらえるような人にならなきゃいけないということ。
子どもたちは親御さんに言われて応援に来てくれたわけですよね。でも大きくなったとき「あのときあの人に会えてよかったな。いまじゃ会えないから」と感じてくれたら嬉しいなと思うんですよ。
ーーー「世界一周走破」を想い描いたのは、いつ頃のことだったのですか。
飯野:はっきりとは覚えていないんですけれど、2年くらい前ですかね。じわじわと。海外レースに頻繁に出場するうち、自分のなかで芽生えていきました。その夢を形にするには、もっといろんな価値観の人と出会わなければいけないと思い、2019年、15年勤めていた自動車会社を辞めました。いまはトレイルランニングツアーなどを企画するフィールドオンアースで仕事をしています。
ーーーなぜ「世界一周」なんでしょう?
飯野:日本人では誰もできないことだと思うからです。自分しかできないんじゃないかと。走力だけではなくて、言語力とかコミュニケーション力とか、人との繋がりなども含めて。もちろん、実現に向けた準備はまだまだ進行中なんですけれど、僕は楽観的なところがあるから、もうできるんじゃないかなと思っています。
以前は本当に走り切れるのか肉体的不安もありましたけれど、東海自然歩道を終えたいまはないですね。現時点では。
ーーー以前「走ることはそれほど好きではない」とおっしゃっていましたが、飯野さんにとって「走ること」とは何ですか。
飯野:いろいろありますけれど、小さな目的でいえばダイエット(笑)。あとは、人との繋がりかな。走ることでいろんな人と知り合って、知り合った人同士がまた知り合って。輪がどんどん大きくなるんですよね。あとは応援してもらえるということもありますね。
たとえばサッカーなら、プレーしている最中にアドレナリンが出て楽しいじゃないですか。でもランニングにはそれがない。ランナーズハイとかありますけれど、それが100kmも続くわけではないし、そこに面白さは見いだせないんです。ただ疲れるだけで、ランニングそのものでアドレナリンが出るとは、僕は思えないんですよね。
奥三河の四谷千枚田にて Photo:Asukafoods
ーーー超長距離走が身体にフィットしている分、達成感や満足感も一般の人より高い位置にあるのかもしれないですね。
飯野:確かに。シェアハウスの仲間に「ちょっと20km走ってきた」とか言うと「そんなに走って筋肉痛にならないの?」と引かれてしまうんですよ(笑)。感覚がもうずれているのかな。
だから世界一周も僕にとっては現実味があるけれど、他の人からしたら、ぽかーんとなってしまうことなのかもしれないな。いま自分にとって、世界はすごく近く感じるんですよね。最初はぼんやりしたイメージだったんだけれど、徐々に色がついてきて、はっきりと絵が浮かんでくるようになった。だから自分にしか出来ないと思うのかもしれないです。
誰かの記憶の中に残るということ
ーーー前職ではドイツやインドなどに駐在されていましたし、世界各地のレースに出場されて、どんな場所にも順応されているように感じます。
飯野:そうですね、僕もどこでも生きていけるような気がしています(笑)。
『トルデジアン』(イタリア/330km)で寒い吹雪のところへも行ったし、『エベレストマラソン』(ネパール/標高5364mエベレストベースキャンプから標高3440mナムチェバザールまでのフルマラソン)では高地に順応もしたし、『バッドウォーター135』(米国カリフォルニア州デスバレー/216km)では灼熱の中を走ったし、『ナミブデザートレース』(ナミビア)では砂漠も行ったし。
結果論ですけれど、いろんな環境に対応してきたなとは思います。これはもうどこでも行けるだろうと。
ーーー柔軟性や適応力といったものを、知らない間に準備していたのかもしれませんね。
飯野:もちろん、世界にはまだ行ったことがない場所はたくさんありますよ。紛争地域に行ったら、自分もどうなるかわからないですし。ただ、世界一周を走り終えるまで僕は死ねないんです。逆にそれをやり遂げたら、人生の中でやるべきことは一通り終えたのかなと思います。
死ぬのが怖い人って、自分がやりたいことがやり切れていないから怖いと思うらしいじゃないですか。そういう意味でいえば、世界一周の挑戦を果たしたら、いつ死んでも怖くないのかなと自分自身は思うんです。家族や子どもができたら、また変わってくるのかもしれないけれど。
ーーー冒険家も家族ができると無意識に守りに入るといいますね。すごく失礼な質問なのですが、有名になりたいといったようなお気持ちはあったりしますか?
飯野:人間にはお金持ちになりたいとか、女性にモテたいとか、いろんな欲望がありますよね。そういう一連の欲望の中でいえば「誇れるような人でありたい」というのはあるかもしれないです。
ただそれはゴールじゃないんですよ。名声を得て大きな家を買いたいとか、そういう気持ちは全然なくて。先ほども少し話しましたけれど、子どもたちが「この人に会えてうれしい!」とか思ってくれたらいいなというかね。自分はしょぼい人間だから、贅沢したいとかはそんなに思っていないです。誰かに還元できればいいなと思うんですよね。
たとえば自分が死んだとき、誰にも覚えていてもらえないより、誰かに覚えていて欲しい。歴史に名前は刻めなくても、人の記憶の中に残っていればいいなと思うんです。少しでも長くね。
スタートから5日目。新城大野にて Photo:Tatsunori Yamada(Young Castle)
子ども時代に傷ついた言葉と、生きている証
飯野:少し個人的な話になってしまうんですけれど、いいですか。僕は親友がいないんです。人間はおおまかに分けて、アボカドタイプと椰子の実タイプに分けられるらしいんですね。アボカドは、人当たりはいいけれど自分の内側は見せないタイプ。椰子の実は一見、人見知りだけれど打ち解けると親友になれるタイプ。僕はアボカドタイプなので、土足で自分の内側に入られるのが嫌で、広く浅く付き合うのが好き。子どものとき、少し辛い記憶があって、それが要因していると思っています。
僕には姉がいて二人姉弟です。子どもの頃、母は癇癪持ちで、感情的になると「お姉ちゃんは望んで生んだけれど、お前は望んで生んだわけじゃない。お父さんが産んでくれといったから生んだんだ。あんたなんて生まれてこなければよかった」と僕に言いました。いま思えば、武器のような言葉なんですけれど。
そういう環境で育ったんだけれど、打ち明けられる友人もいなかったし、学校ではいつも笑顔をつくっていました。本当は泣きたいんだけれど、心をごまかすために笑顔をつくっていたんです。大人になってからも、よくみなさんから「飯野さんはいつも笑顔ですね」と言われるんですけれど、それは子ども時代から変わらない習慣なんですよ。
だからといって母を恨んでいるかというと、そういうことではないんです。ちゃんと育ててくれたことに感謝しています。父はとても常識的で、世の中のこともわかっている人でしたしね。
ーーーいまお母様は飯野さんの生き方について、どうおっしゃっていますか。
飯野:母は潔癖症なんで「山に行くなんて、ばい菌ばっかりじゃない?」とは言いますね(笑)。「そんな危険なことをして」とも。母も悪気はない人なんですよ。
ーーーそうした過去の記憶と、いまこれほどの距離を走っていることには何か関係があると思われますか?
飯野:いまも自分の中にあの頃と同じ感覚があるのかな。人間、芯の部分て変わらないものですよね、きっと。人と出会うことによって変化していく部分もありますけれど、変わらない部分もあるわけで。
当時、母から「あんたなんて生まれてこなければよかった」と言われると、自分を否定されているような感じがして、なんのために生まれてきたんだろうと自問して、よく泣いていました。だから、何か自分に残せるものはないか。生きている証とでもいうんですかね。そういうものが欲しいなとは子どもの頃から感じていて、いまも続いていると思います。
自分が死んだ後にも何かが残るようにという思いは、その頃の記憶の延長線上にあるのかもしれないですね。
ーーー 辛い記憶はもう昇華しつつあるのではないですか。飯野さんが走ることで、すでにたくさんの方が影響を受けているわけですから。
飯野:そうかもしれないですね。走ることで、いま自分自身も立つことが出来ているわけですしね。 そんな僕の姿が、誰かのためになればいいなと思うんですよ。世界一周を走りたいのも、そこかもしれませんね。
〈プロフィール〉
飯野 航 / Wataru Iino
ウルトラランナー、アドベンチャーランナー
東京都出身。自動車設計技師としてドイツに駐在していた30歳のとき、ダイエットのためにランニングを始める。その後、国内外のウルトラレース、トレイルランレース、局地レースに出場し、輝かしい戦績を残す。現在はトレイルランやトライアスロンなどスポーツイベントを目的とする旅行代理店フィールドオンアースに勤務。神田さかいやスポーツ・サポートアスリート。
〈主な戦績〉
チャレンジ富士五湖ウルトラマラソン優勝(112km/2014〜15年連覇)、いわて銀河100kmチャレンジマラソン優勝、マダガスカルレース250km 2位、大江戸小江戸230km優勝、ナミブデザートレース優勝(250km)、ウルトラトレイルコー・チャン優勝(100km/タイ)、バッドウォーター135優勝(217km/米国)、エベレストマラソン7位(65km/ネパール)、ゴーンナッツ101優勝(101km/タスマニア) 、UTMB for the Planet 優勝
Photo::Takuhiro Ogawa、Kozo Okushima、Tatsunori Yamada(Young Castle)、Kaori Niwa、
Yoji Ueno(Monkey Crew)、Asukafoods
Special Thanks:Yuichi Saito(Sakaiya Sports)、Musubi-an / Arashiyama
Interview & Text:Yumiko Chiba