ふるさと飯山を愛するアウトドアマン
2015年3月、北陸新幹線の開通により新たな歩みを始めた「飯山」。長野県北部に位置する飯山はウィンターシーズンになると、パウダースノーを求めて国内外からスキーヤーやスノーボーダーが集まってくる。一方、秋には『斑尾フォレスト50km』や『信越五岳トレイルランニングレース』といった大会が開催され、グリーンシーズンの魅力が広く知れ渡ったことで、大会以外でもトレイルランナーたちが訪れるようになった。
そんな飯山には、生まれ故郷の将来を想い、町の力をもっと高めたいと奮闘するアウトドアマンたちがいる。
今回ご紹介する田中淳さんも、その一人だ。
普段は飯山市役所に勤務し、地域PRなどの仕事に県内外を忙しく駆け回る。もう一つの顔は、NPO法人『インサイドアウトスキークラブ(以下、インサイドアウト)』のメンバーだ。地元・飯山に住む人々に向けたアウトドアアクティビティの普及に力を注いでいる。
三大ライフワークは「スキー、野球、ランニング」
ユーモアに溢れ、誰とでもすぐに打ち解けてしまう田中さんは、豪雪地帯として名高いここ飯山でも、特に雪の多い岡山地区で生まれた。本サイトでもお世話になっている山岳写真家の藤巻翔さんとは一歳違いの幼なじみだ。家が近所であったことから、保育園から高校まで一緒、中学からは同じ野球部に所属していたという。「翔とはずっと一緒。兄弟みたいに育ちました」。
かつて飯山の子どもたちの遊びといえば、外遊びばかりだった。夏は砂防ダムの下にある川で遊び、冬はスキー三昧。「いつも近所の“やんども”( “野郎ども”の飯山弁)と自然の中で遊んでいましたね。たまにはファミコンもしましたけれど」。
小学校は全校生徒を合わせても50名ほど。いまはさらに子どもの数が減り、この春から母校は他校と統合された。
飯山を象徴するスポーツといえば、なんといってもクロスカントリースキーだろう。オリンピックや世界選手権などで活躍する数多くのアスリートを輩出してきた。この地域では小学生になると学校でクロスカントリーを習う。かつてスキー選手として輝かしい成績を残し、現在はトレイルランニング界でも活躍する山田琢也さんや山室忠さん、服部正秋さんも飯山エリアの出身だ。
田中さんのお父さまはアルペンスキーの選手だったという。そのため、子どもの頃から親子でよくスキー場に出かけた。中学生になり野球部に入ってからも、積雪でグラウンドが使用できなくなると、田中さんは母校の小学校へ行ってはクロスカントリースキーをした。高校に進学してからも、野球部の部活が半日で終わる休みの日には、午後からゲレンデスキーを楽しんだ。「とにかく滑るのが好き。それならスキー部に入ればよかったのにとよく言われたんですけど、部活では野球がやりたかったんですよね(笑)」。
同じ頃、野球部の活動と駅伝を両立する先輩に憧れて、近所を走るようになった。すると田中さんも駅伝の選手に選ばれ、長野県の中学校駅伝大会ではチーム選で3位に入賞。その後、飯山市代表として長野県縦断駅伝にも出場を果たした。
「自分の三大ライフワークは“スキー、野球、ランニング”です」と言い切る田中さん。3つのスポーツへの愛着は今も昔も変わらない。
「僕のスキーはあくまで遊び。だからこそ、ずっと好きでいられるのかもしれません。飯山では、アルペンもクロスカントリーも競技が主流で、競技をしない人がスキーをするのはちょっと恥ずかしいような空気があるんです。だから、みんな次第にやらなくなってしまうんですよ」。
飯山北高校を経て、大東文化大学へ進学。生活の拠点を埼玉へ移し、軟式野球部に所属しながら、法学部政治学科のゼミで地域づくりや地方自治を学んだ。「ゼミの教授が豪快かつ優しい先生で、大きな影響を受けました。もともと卒業後は地元に帰ろうと思っていたのですが、先生の話を聞くうちに、市役所で仕事をするのもいいなと思い始めました」。
卒業後、地元に戻った田中さんは飯山市役所の採用試験を受ける。ところが筆記試験は通ったものの面接で落ちてしまう。市役所の臨時職員や体育協会の職員を経て、3年目に試験に合格し、晴れて役所勤めがスタートした。
「試験に合格するまでの2年間、スポーツ関連の人たちとたくさん関わることができました。振り返ると、とてもいい経験をさせてもらったなと思います」。
アウトドアは必ず地域観光の柱になる
市役所に入職後、スポーツ振興係でランニング大会やスキー大会の運営、スポーツ施設の管理を担当し、2011年から現在の商工観光課に着任した。「アウトドアの魅力が溢れる飯山で、自分には一体何ができるのだろうかとワクワクしましたね」。
しかし、同年3月の東日本大震災直後に長野県北部でも大きな地震が発生し、スキー場に暗い影を落とすことになる。長い期間、多くの施設で営業できない状態が続いた。
その時に感じたのは、スポーツ事業と観光事業の違いだ。観光業ではスポーツ以上にしっかりとした利益が求められることを痛感したという。それでも田中さんは「アウトドアスポーツはいずれ絶対に地域観光の柱になる」と確信していた。
「観光は目的ではなく手段である、という言葉があります。たくさんのお客さまに来ていただいて経済が潤うことは大切だけれど、それは最終目的ではない。本当の目的は地域を元気にし、盛り上げること。観光はその手段なんです」。
飯山に生まれ育ち、学校を卒業すると同時に故郷から離れてしまう人は多い。定住者を増やすことは課題だが、それだけが大事なのではないと田中さんは考えている。たとえば観光で飯山を訪れた人たちと交流が生まれ、それまでなかったアイデアが育てば、町の活性化に繋がるはずだと期待している。
「この“森の家”もそうした基盤のひとつです。いまここで働くスタッフで飯山出身は一人だけ。あとはみんな移住してきたスタッフです。なべくら高原を訪れ、この環境を気に入ってくれて働こうと決めたわけですね。この森の家という場所が、出会いをもたらしてくれたんです」。
溢れる想いや面白いアイデアを持っていても、それを一つの形として世に出すまでには時間が必要だ。新幹線が開通して1年。ようやく田中さんの周りでも、具体的な動きが見え始めてきたという。
「焦っても仕方がない。自分は専門的な知識は持っていませんが、この地にはバイタリティ溢れる人たちがたくさんいる。キーマンやスペシャリストを繋げていくこと、それが僕の役割だという気がしています」。
縁の下で地元を支える田中さんのそばには、想いを同じにするエネルギッシュな人たちがいる。みんなで未来への小さな種をまき続けているのだ。
今年3月、田中さんは仲間とともに『若ショック!』というイベントを開催した。飯山市在住の30代が中心となって結成する飯山市若者会議と行政が協力して開催したトークイベント。今年オープンした文化交流館『なちゅら』を舞台に、幅広い世代の人々が集まり、自由な意見交換を行った。「町のために何が出来るかわからないけれど、とにかく動いてみる。みんなで手探りしながら見つけていけばいいと思うんですよ」。
「斑尾=トレイルラン」のイメージを生み出した大会
2006年、開通したばかりの”信越トレイル”で、プロトレイルランナー石川弘樹さんによりトレイルランのイベント『ハッピートレイル』が行われた。信越トレイルは走ることを想定してつくられていない。そのため、実証実験の意味も併せ持つイベントだったという。そこに田中さんも参加した。
「ハッピートレイルに参加したことは、自分にとってトレイルランと深く関わる大きなきっかけになりました。一緒に参加した人たちとは、いまでも交流が続いています」。
翌2007年、斑尾高原で第1回『斑尾フォレスト50km』が開催される。既存の“山岳マラソン”とは一線を画す、全く新しいタイプのトレイルラン大会。ブナの森に囲まれた美しいトレイル、大会の前日に周辺のペンションやホテルに宿泊するスタイル、応援者や家族も参加できるウェルカムパーティ、地元の名物である笹寿司などを取り入れた選手目線のエイド、コース場に設置された応援コメントの看板など、この大会で初めて取り入れられた運営手法は多い。
田中さんは初回からずっとスイーパーを務めてきた。その『斑尾フォレスト50km』は今年の秋、10周年を迎える。
「いまでは“斑尾高原=トレイルラン”というイメージが定着しつつありますよね。斑尾高原の観光業はそれまでグリーンシーズンは苦戦していたんです。スキーを滑るところであって、グリーンシーズンのイメージはテニスかグラススキーぐらいしかなかった。そこに石川さんがトレイルランの魅力を運んできてくれた。トレイルランを通して、斑尾高原に新たなスポットライトを当ててくれたわけです」。
大会開催後、「こんなに走りやすいトレイルはない」という参加者からもらった言葉がとても嬉しかったという。回を重ねるごとにファンを増やし、いまではエントリーが困難な人気大会として知られている。
「本来、斑尾高原のトレイルも信越トレイルと同様にトレッキングを想定したものであって、トレイルランを想定したものではありません。しかし、ここのトレイルは地元の観光協会の皆さんが自分たちで管理しているので、大会開催が可能なんです。長い時間をかけ、歩いて楽しいトレイルを目指して整備を続けてきました。だからこそ、トレイルランナーにとっても気持ちよく走れる場所なんだと思います。トレイルを開拓し、維持し続けてくださっていることに、僕も感謝しながら走っています」。
地元の人たちの変わらぬ熱意によって『斑尾フィレスト50km』は大切に育てられてきたのだ。
2009年には、斑尾高原スキー場をスタート地点として信越エリアのトレイルを走り抜く『信越五岳トレイルランニングレース』が登場する。ここでも田中さんは運営スタッフとして働いてきた。
「地域を盛り上げるため、そしてトレイルランの健全な普及のために、ずっと大会運営に関わってきましたし、これからも携わっていきたいと思っています」。
地域の人たちの大きな協力があってこそ、トレイルランの大会は存在できる。そして、地道に回を重ねていくことで、その場所を訪れる人と地域との関係性は少しずつ醸成されていく。
「この2つの大会は、地元に住んでいる僕らのメリットまできちんと考えてつくられています。地域の認知度を高め、経済効果を生み出してきました。競技性以上に、アウトドアとして楽しめるトレイルランを提案していきたいという想いが根底にあって、それが形になっている大会。地元の宝だと思っています」。
奇跡のような集まり。それが「インサイドアウトスキークラブ」
もうひとつ“情熱”が集まる場所がある。
『インサイドアウトスキークラブ』は、飯山の中において不思議な存在感を放つ集まりだ。
斑尾フォレストが誕生した翌年、2008年にNPO法人『インサイドアウトスキークラブ』は産声を上げた。次の年からスタートした『信越五岳〜』には、立ち上げ当初からメンバーのほとんどが関わってきた。
学生時代にスキー競技にのめり込んだ多くの選手が、その後、ある種の“燃え尽き症候群”に陥り、スキーから遠ざかってしまう。インサイドアウトでも長年、スキー競技に人生をかけてきたメンバーが多い。
しかし彼らは他のアウトドアスポーツを行いながら、今でもスキーで国体に出場したり、地元の子どもたちを指導したり、トレイルランナーにクロスカントリースキーの魅力を広めたりしている。スキーとともに生きているのだ。
その姿からは、「一生、クロスカントリースキーを楽しんでいきたい」という静かな意志のようなものを感じる。そして「スキーが大好きだ」という揺るぎない想いも。
「インサイドアウトのメンバーは、ある意味、奇跡のような人たちなんです。普通、学生時代に競技に一生懸命に取り組んで、汗と涙にまみれれば、スキーを嫌いになっても仕方がない。それなのに、みんなスキーを嫌いになっていない。大人になってからも、スキーの良さをもっとたくさんの人に知ってもらいたいと活動している。僕から見ても、すごく珍しいケースだなと思います」。
クラブの活動目的は、クロスカントリースキーやウォーキングといったノルディックスポーツを中心に、地域資源を生かしていくことにある。さらに面白いのは、それらを切り口にしながらもスポーツの枠を超えて、地域の歴史や文化にまで目を向けていることだ。
たとえばその一つに、イベント『さかのぼる』がある。
実はここ飯山は、長野県内で初めてスキーが行われた場所。日本におけるスキーの歴史は、1911年(明治44年)に越後高田でオーストリア=ハンガリー帝国の軍人であるレルヒ少佐がスキー技術を伝授したのが始まりと言われている。学校の先生も務めていた愛宕町の妙専寺第17世住職の市川達譲氏がレルヒ少佐から一本杖スキーを習い、飯山に普及させた。
それから100周年にあたる2012年1月23日、市川達譲氏が下ったと言われる妙専寺の参道を、クロスカントリースキーで“のぼる”イベントを企画した。
「長野県で最初にシュプールが刻まれたのが、ここ妙専寺の参道です。“さかのぼる”では現在のご住職に参道を滑り下りてもらい、オープニングセレモニーを行いました。みんなで参道をのぼることで、100年の歴史をさかのぼる。自分が100年前に伝えたスキーを、今こうして町の人たちが楽しんでくれている。達譲さんもきっと嬉しかったと思います」。除雪してあるお寺の参道にわざわざ雪を入れ、イベント後は再び皆で深夜までかけて除雪を行ったという。
もうひとつ、印象的なイベントを開催している。
2015年3月9日に行われた『かけ橋る』だ。
千曲川にかかる中央橋の架け替えに際して、使われなくなった旧中央橋にお別れを言おうというイベント。子どもから大人まで、たくさんの人たちがクロスカントリースキーを履いて、橋を渡った。
「新しい橋ができたとき、渡り初めのイベントが開催されました。それなのに、これまでお世話になった旧中央橋へ感謝の気持ちを伝えるイベントがなかった。中学時代に毎日、中央橋を渡っていたメンバーの一人が『それなら自分たちで企画しよう』と発案し、プロジェクトを立ち上げました」。
旧中央橋は長野県が管理している。通常、使わなくなった橋は人が立ち入ることを想定していないため、県としても当初はどんな許可を出してよいかわからなかったという。その後、やりとりを重ね、安全対策を施すことで使用許可が下りた。
イベント当日は、インサイドアウトのメンバーの後輩であり、インターハイの選手でもある女子高生たちが、制服姿でクロスカントリースキーを滑るなどして会場を盛り上げてくれた。
舞台となった旧中央橋は、いま解体工事が進められている。
さらなる上を追い続けて
「インサイドアウトで活動していてすごいなと思うのは、『まあ、いいか』と思う水準がものすごく高いこと。普通、誰でも『これくらいでいいかな』という基準がありますよね。それがインサイドアウトの場合、すごく上の方にある。多くのメンバーが競技で追い込んだ経験を持つからか、『もっとできるのではないか』と追求していく力がすごい。妥協点が高いんですよ」。
企画力、実行力、交渉力、事務処理能力など、さまざまな得意分野を持つメンバーの集合体。だからこそ、次々にアイデアを具現化することが可能になるのだ。さまざまな許可申請からロゴづくり、チラシやポスターのデザインやPR活動など、それぞれが持てる力を発揮している。
飯山には豊かな自然という得がたい資源がある。それにも関わらず、地元の人たちはそれらを十分に享受していないと田中さんたちは感じている。「観光業に関わる人たちも含めて、もっと地域の人たちにアウトドアを楽しんでもらいたい。その環境を僕らでつくっていきたいんです」。
子どもたちには、競技という側面だけでないクロスカントリースキーのおもしろさ、アウトドアの喜びを伝えたいという。
毎年5月には、木島平にある高社山を舞台にしたトレイルランレース『たかやしろトレイルランニングレース』を開催している。クロスカントリースキーの選手は夏場になるとトレーニングとして山に登る。それを世代を超えて楽しめるレースとして形づくったのが、この大会だ。例年、地元の小中学生、高校生が数多く参加する。記念すべき10回目となる今年は、トレイルランニング界のトップアスリートたちも参戦し、大会を盛り上げてくれるという。
ほかにも定期的な活動として、毎週、平日の夜にノルディックウォーキングのサークル活動を行っている。ノルディックウォーキングはクロスカントリースキーのトレーニング目的で生まれたスポーツ。全身運動で、年齢を問わず楽しめる。
DNAに組み込まれた雪国の心
田中さんの中で、市役所での仕事とインサイドアウトの活動はどのような位置づけなのだろう。「観光課の仕事は県外の人たちに飯山の魅力を知ってもらうことが目標。一方でインサイドアウトは地元の人たちの支援が目標。車の両輪みたいなものですね。どちらが欠けてもダメなんです」。
市役所の仕事では、新幹線開通後の飯山の可能性を最大限に引きだそうと模索している。そしてインサイドアウトの活動では、生まれ育った故郷の基盤となる地域の人たちの支援を進めている。
「インサイドアウトは決して仲良しクラブではないんです。普段はそれぞれ別の仕事をして、何か一緒にやる時だけ集まる。インサイドアウトがあるからこそ、幅広いチャレンジができるんです」。
田中さんのお話からは、飯山における“人と人との繋がり”を強く感じる。人と人とが多大に力を合わせている地域は、もちろん全国にたくさんあるだろう。飯山ではそこに「みんなが楽しんでいる」というキーワードも加わるような気がするのだ。
「雪深い地域なので、一人では生きていけないんですね。どこかで協力しなければ生きていけない。その事実が、僕らの遺伝子の中に組み込まれているのかなと思いますよ(笑)」。
愛する飯山で、これからやりたいことは、どんなことなのだろう。
「そうですね。やっぱり、アウトドアスポーツで地域をもっと元気にしたいですね。この場所に来るとなんだか落ち着く、もう一度来てみたい、あの場所に行けばあの人に会える—-。そんなふうに複数の要素が重なっていったらいいですね。飯山全体がいま、少しずつ変わり始めていると感じています」。
田中淳さんおすすめの飯山はこちら。『local&culture〜飯山』
インサイドアウトスキークラブ Instagram
https://www.instagram.com/insideoutskiclub/?hl=ja
イベント『さかのぼる』映像
https://www.youtube.com/watch?v=zSteqUHQHUg
イベント『かけ橋る』映像
https://www.youtube.com/watch?v=SymoXADgcss
たかやしろトレイルランニングレース
https://kosha.jp
Photo by Shimpei Koseki
Special Thanks to Sho Fujimaki
Place:Morinoie, Iiyama,Nagano