長距離レースに強いアスリートは、それぞれ自分なりの方程式を持っている。
レースやトレーニングを重ねながら試行錯誤し、自分には何が必要で何が不要かを見極めていく。さらにそれに微調整を加え、磨き続けられる人間が開花し、輝きを放つのが超長距離の世界だ。
ところが、望月将悟はどうもその枠組みからすり抜けているように見える。人一倍厳しいトレーニングを積んでいることは言うまでもないが、“山人”としての基盤がどこか違うのだ。
望月将悟は、どのようにして「望月将悟」になりえたのか。
源流を辿って、故郷である静岡市北部の井川に向かった。
体と魂をつくってくれる山の恵み
市街の中心部を出発した車が、南アルプス麓にある井川に着いたのは日もとっぷりと暮れた頃。将悟さんとともに望月家を訪ねると、ご両親が笑顔で迎えてくれた。
「さあ、入って入って。ご飯にする、お風呂にする? なにもないけど、座って休んで」と母・仁美さん。
家の中には人なつこい猫が2匹。外には甲斐犬の子犬とヤギ、チャボもいる。部屋の隅に置かれたストーブの上には大きなやかんが乗っていて、父・正人さんがお茶を注いでくれた。
「いらっしゃい。これ、よもぎとかいろんな葉っぱを入れたお茶なんだけど、飲んでみて」
その季節にとれる野草を使ってお茶をつくるのが望月家の日常風景。琥珀色のお茶からは、体を浄化するような豊かな香りがした。仁美さんが心づくしの手料理でもてなしてくれる。
「野菜ばっかりだけど。これはうちで穫れたじゃがいも」
正人さんは井川湖にある渡船乗り場に勤めている。仁美さんは井川に古くから伝わる在来種の作物を栽培しているという。
数年前、お年寄りの家の倉庫から50年以上前の種が見つかった。それをきっかけに、じゃがいも、キュウリ、ヒエ、粟、そばなど数十種類の在来種をつくり始めた。品種改良された作物よりも栽培が難しく収穫量も少ないが、次の世代に繋いでいきたいと丹念に育てている。
望月さんは男三人兄弟の真ん中に生まれた。両親が山でわさびやしいたけを栽培し、林業に携わる間、子どもたちも一緒に山に入って作業小屋で遊んだり、近くを駆け回ったりしていた。
小学校に上がると仕事を手伝うようになる。のこぎりや鎌を持ち、木の横枝を落としたり、切り倒した木にしいたけの菌を植えつけたり。とりわけ、収穫したきのこを入れた大きな籠を背負い、山道を15分ほど下って車まで運ぶ仕事が好きだった。
「15kgくらいあるんですけど、その籠を背負いたくて仕方がなかった。なんだか力がつくような気がして」
季節の野菜や山菜料理をいただいていると、仁美さんが将悟さんにたずねた。
「鹿、食べる?」
「食う、食う」
テーブルにつややかな鹿刺しが運ばれてきた。新鮮でとろりとした赤身肉には、野生動物特有の匂いもなく、とても美味しい。
「僕らは子どもの頃から、肉といえば牛肉じゃなくて鹿肉だったですね。食べ慣れているから、これがいちばん。あとは親父がつくったきのことか野菜とか。ずっとそんな暮らしです」と将悟さんは話す。
TJAR(トランスジャパンアルプスレース)の存在を知ったのも、妻の千登勢さんや二人の娘さんとともに夏休みに井川へ帰省したときだった。
南アルプスを下りてきた選手が、井川を通るのを見かけたのだ。その選手たちが日本海から日本アルプスを縦走し、静岡市の大浜海岸に向かっていることを知り驚いた。そして自分も挑戦したいと思った。初めて出場したのが2010年、もう8年も前のことになる。
遊びはすべて自分たちで考えた
翌朝。朝食のテーブルで、仁美さんが熟成した蜂蜜と一年物の蜂蜜をすすめてくれた。聞けば、将悟さんも地元のおじさんのすすめでミツバチの箱をつくり、崖の上に設置しているという。
「ご飯食べたら、山の方にでも行きますか」
自宅からそれほど遠くない山の中に、子どもの頃よく遊んだという小屋はあった。
「友だちと秘密基地をつくったり、蔓でターザン遊びみたいなことをしたり、カエルをつかまえたりね」
川の上流にあるダムが放流をやめると川の水量が減り、魚がピチピチと浮いてきて、水のある場所を求める。それを狙って魚を捕った。
「カラスや狐が来る前に急いで獲りに行くんです。いまは魚がほとんどいなくなっちゃったからできないけどね。あと僕らは茶畑に飛び込んで遊んだりして、近所のおじさんによく怒られたな(笑)」
中学からの帰り道、暗闇をはしる
自宅から10km離れた場所にある母校・井川中学校(現:井川小中学校)。当時、生徒はスクールバスで通っていたが、中学3年になると将悟さんだけバスに乗らなくなった。
「弟に鞄を預けて、ひとりで走るんですよ。集落と集落の間は2kmくらい離れていて、ポツンポツンと電灯が1個か2個あるだけ。先生に危ないぞって怒られたけど、それでも続けてましたね」
月明かりを頼りに走る。
「ときどき暗闇からカサカサッとか獣の音がして。もう、恐いから急いで走ってね」
中学時代の恩師である小長谷忍先生は、いま近くにある『南アルプスユネスコパーク 井川自然の家』の所長を務めている。眼下に井川湖が望めるこの施設には、キャンプ場のほかに将悟さんが監修した初心者向けのトレイルランニングコースも設置されている。
小長谷さんは、こう振り返る。
「将悟君は中学に入って野球部に入部したんだけれど、残念ながら、彼が一年のときにその部が廃部になってしまったんです。その後、中学校体育連盟の陸上競技の試合に出ることになりました。彼は競技場より、山道を走る方が得意でしたね」
陸上部顧問の経験があった小長谷先生から、個人的にインターバルなどの練習方法を教えてもらったという。
「将悟君もそうだけど、井川の子どもたちは本当に速い子が多かったんです。学校全体で出場した市の駅伝大会では一位になりました。ほかの学校の先生たちがびっくりしていたんですよ。井川にはこんな速い子どもたちが集まっているのかと」
大会会場が遠かったため、小長谷先生の家に泊まって出場した。
「夏の学校行事で、茶臼岳を歩く“親子清掃登山”というのがあったんです。そこでも彼は重い荷物を背負ってホイホイ登っていました。先に登って下りてきたりとか、ものすごく速かったですね。生徒会長にもなったんですよ。他国との交流会があり、学校代表でオーストラリアにも行きました」
もう、親に迷惑はかけられない
勉強は嫌いだったが学校は好きだったという望月さん。反抗期のようなものはあったのだろうか。
「とくにないけど、高校の頃にはちょっとやんちゃになったかな。高校が好きすぎて4年間通ったんですよ(笑)。まぁ、実質は3年なんですけど」
2年生のとき、どうしても気の合わない生徒がいて、授業中に売られたけんかを買ってしまった。ほかにもいろんなやんちゃが問題になり、高校を退学することになる。
「当時の先生がいい人で、自分が辞めるとき『やり直す気があるなら誠意を見せてみろ』っていってくれたんです。頑張るなら、もう一回、試験を受けさてやるからと」
通っていた工業高校は「結構荒れていた」らしく、1年次に40名在籍していた生徒が次々に退学して2年次には30人に減っていた。入学当初、陸上部に誘ってくれた先生もいたが、部活の雰囲気が合わなくて一ヶ月ほどで辞めてしまった。
「それよりもっと魅力的なものがあったんですよ、その頃は。先輩たちのヤンキー風なスタイルとか、そういうのに憧れて」
髪は脱色して茶色、制服のズボンも太め。けんかはした。でも、たばこも吸わなかったしお酒も飲まなかった。
ただただまっすぐだった。まっすぐさゆえに行き場を失ったエネルギーの発露だったのかもしれない。
工業高校を退学した望月さんは一年間、自動車整備工場に見習いとして働く。家族経営の工場で、とてもよくしてもらった。
「そのとき、思ったんですよ。もう両親には絶対に迷惑はかけられないって。だから頑張ろうって」
理由があった。将悟さんの兄も高校時代に“やんちゃ”で、両親はとても心配していた。井川の子どものほとんどは、離れた街中の高校に通うため寮に入るが、兄弟の行く末を案じた両親はひととき井川を離れ、家族みんなで町場(市街地)で暮らすことに決める。
「両親は新聞配達をしていたので、卒業するまで僕も手伝っていました。団地担当で、5階くらいまである建物を20棟以上配るんです。朝、配達をしてから学校へ行くんですけど、急げば1時間かからないで終わりました」
休日に友だちと遊んでいても、夜明け前の午前2時頃になると自転車で自宅に戻って必ず配達をした。元の工業高校に復学してからも、卒業するまで新聞配達は続けた。
10代を振り返って、やり残したことは?
「ないね、やりきってますね。常にやりきっている(笑)」
朗らかな表情で、きっぱりと言い切った。
「富士山を眺めれば、現在地がわかるんです」
「母方の祖父は鉄砲打ちなんです。母のいちばん上の兄さんは薬草をとったり、サルの腰掛けをとったりして生計を立ててました。井川に住むおじさんたちは地図とか見ないのが普通。僕に遠くの斜面のてっぺんを指さして、『あの木の下にきのこがあるから採ってこい』っていうんです」
大人たちからそう言われ、獣道があるかないかの急な斜面を将悟さんは一気に登っていった。すると、木の根元には必ずきのこがあった。
「昔は僕も地図なんて見なかったですよ。反対側の山を見て、自分の位置を感覚で覚えるんです。雨が降って周囲が見えなくなったら、高い木に登って上から見る。地図読みを覚えたのは山岳救助隊に入ってから。そうしたら今度は安心感が強くなった。地図を見れば頭の中に山の形が見えてきて、世界がどんどん広がっていったんです」
静岡はどこからでも富士山がよく見え、いまいる場所が感覚的に把握しやすいという。
山で危険な目にあったこともある。
「10年くら前に滑落したことがありますね、サルの腰掛けを担いでいて。自衛隊で働く弟と山に入ったときです。仕事で疲れていたのか、なんちゃないとこで5mくらい滑落して、目の前にどんどん尖ったものが近づいてきたんですよ。これは顔にささると思って手でよけたら、ばーっと切れて」
街まで下りるのに5時間かかる。弟さんがヨモギを摘んで水で洗い、「これをつけておけ」と手渡してくれた。ヨモギには止血効果がある。草を傷口につけて、タオルでグルグル巻きにして山から下りた。
病院の待合室に並んで待っていると、怪我の様子を見た看護師さんに「なんでもっと早くいわなかったんですか!」と驚かれ、すぐに手術台へ。30針縫った。
「それがね、俺が怪我したとき、弟は平然と落としたきのこを拾ってるんですよ。せっかく拾ったんだから持っていくよって。怪我を見ても全然驚かないんです。子どもの頃から沢に落ちたりしていたし、両親やおじさんたちから薬草のことを習っていたから、慣れたもんですよ」
大人たちから、山ではどんなものが食べられるかも教えられた。
「まむしの心臓とか飲まされましたね。いまは寄生虫が怖いから飲まないけど。スズメバチの幼虫もとってました。井川の食べ方は食べやすいよ。から煎りみたいな感じで、トロミがないからね。トロミがあるのは僕もダメです(笑)」
スズメバチの巣を見つけると、地元の人たちは喜んで集まる。
「宴会して、みんなで食べる。ハチの子をネタにお酒を飲むというのが、田舎の楽しみだから。湧き水もよく飲みますよ。飲む場所は決まっていて、見極めて飲みます。川みたいなところはダメだよ。岩の間から細くチョロチョロ流れているようなところの水だけね。一年中、枯れない場所とかもあるんですよ」
話をしていると、山の先輩から受け継いだ教えに自らの体験を重ねて、生きる知恵を蓄積しているのがわかる。
「僕なんかあまちゃん。井川のおじさんたちはもっと知っているから。その人たちが元気なうちに、もっと聞いておこうと思ってね。それでよく帰るんです」
井川に暮らす人たちはいろんな仕事をする。茶畑の手入れをしてきのこを採り、鉄砲で鹿を打つ。漬け物をつけ、冬になるとつるで籠をつくる。
「僕は鉄砲はやらないかな。だってかわいそうだもん。一頭撃ったら全部処理して食べてあげないとかわいそうだからね」
山の中で過ごす時間のなかで、いちばん好きなのはどんな時間か訪ねてみた。
「そうだね。走るのも好きだけど、本当に好きなのはきのこを採ったり、木の実を拾ったり、川で魚を捕ったりしているとき。食物をとっているときが本当はいちばん好きなんだよね」
そう話しながら、近くの木立にコシアブラを見つけると、さーっと分け入っていく。
「あっ、そこオオバラのトゲとかあるから気をつけてね」
山が好きな理由って、なんだろう?
山を走り始めて15年以上になる。いまのトレイルランシーンを望月さんはどう見ているのか。
「僕らがトレイルランを始めた頃とはずいぶん雰囲気が変わってきたなと思います。スポーツとして捉える人が増えてきているというか。昔は山を走ること自体が珍しかったけど、いまは珍しくなくなって “速いが偉い” になってきているのかなと。それがね、ちょっと残念です」
山を “勝負の場” のように捉えている人が増えている気がする、と望月さんはいう。
「もちろん、それもいいと思うんです。でも、山が好きな理由が勝負だけだとしたら、寂しいトレイルランだなって思うんですよ。僕はものすごく大きな木を見つけたり、誰も知らないような場所から見る景色を探したりするのが好き。だいたい大きな木の下にはきのこがあるからね、マイタケとか(笑)」
井川の山々でどんぐりを見つけると、子どもたちのお土産にリュックに入れて帰る。それを家にポイッと放っておくと、春になっていくつか芽が出て苗木になる。再び井川に持ち帰って、山に植える。
「TJARに出るまでは、南アルプス以外の山を知らなかった。でもTJARをきっかけに北アルプスや中央アルプスにも行くようになって、逆に地元の山に対する想いも深くなりました。ここにしかないものを自負できるようになったというかね」
いまのような軽量な装備がなかった時代に山に登っていた先輩たちの話を聞くのも好きだ。
「テレビで山番組が放送されたりするでしょ。そのとき、『いまはもう行けないけど、俺も昔はいったんだよ』って話になる。違う世代の人たちと、山を通して同じ話ができるのが本当に嬉しいんですよね、僕は」
いまの自分が、本当に求めるもの
イタリアで開催される330kmの超長距離レース『トルデジアン』。これまで4回出場し、完走したのは一度だけだ。
今年、そのトルデジアンの出走資格を得た。TJARの三週間後に開催されるその大会に、当初は出るつもりでいた。
「完走者がものすごく讃えられるんです。どんなに遅くても完走した人は“勝者” 。そのスピリッツがとても好きだから、もう一度行きたくて」
なぜ、出場を見送ったのだろう。
「体力的なことより、いまの僕の心境で出たら “勝負” になってしまうと思ったから。トルデジアンで誰かに勝った負けたという走りをするのは、いまの自分には辛いんです。トルデジアンそのものを楽しめなくなっちゃうんですねよ」
昨年から、ある心の変化が起こっているのだという。
「レースも好きだけれど、もっと違う山との向き合い方があるんじゃないかと思い始めています。頑張って練習の成果が出たとか、頑張ってこの人を抜いたとか、これまでは山に対して “動” の部分が自分の中で大きかったんですけど、そうじゃなくて、静かに山に登ったり、人とゆっくり話をしたり、いまはそういうことがしてみたい。そういう旅をしたくなっています」
そしてこう続けた。
「生きていく中で、スポーツとしての速さより、井川に住むおじさんたちのような山に生きる術を身につけたい。ずっとそんなおじさんたちに憧れがあるんです。しっかりと生きる術を持ちながらも、急ぐわけでもなく、ほんわかしているおじさんたちに」
新しい山との関わり方のひとつとして、昨年の夏、総距離235kmの静岡市境をひとりで一周する『AROUND SHIZUOKA ZERO』に挑戦した。
これから少しずつ、これまでやりたくても出来なかったことを試していきたい。
「もしかしたら心の奥に、勝てなくなってきたのではという迷いのようなものがあるのかもしれない。たとえそうだとしても、それだけじゃないんです。いまの自分は本当は山とどう向き合いたいのか。その心の動きに正直でありたという気持ちが強くなっています」
さまざまな想いが、静かに交差する。
もうすぐ望月将悟にとって5回目のTJARが始まる。
Profile
望月将悟 Shogo Mochizuki
1977年、静岡県葵区井川生まれ。静岡市消防局に勤務し、山岳救助隊としても活動する。日本海側の富山県魚津市から日本アルプスを縦断して、太平洋側の静岡市までをテント泊で8日以内に走り抜けるレース「トランスジャパンアルプスレース(TJAR)」で4連覇。2016年は自ら自己ベストを上回り4日23時間52分でゴール。2018年のTJARにも出場予定。
■主な戦績、挑戦
2006年北丹沢12時間耐久レース優勝、2009年おんたけ100で2位、OSJシリーズ戦優勝、日本山岳耐久レース4位、2010年道志村トレイルラン優勝、2012年UTMF4位、2014年〜2016年OSJ新城トレイルダブル64K優勝、2017年奥三河パワートレイル3位、2018年6位など。フルマラソンのベストタイムは2時間35分、ほかに2015年東京マラソンでは40ポンド(18.1kg)の荷物を背負って3時間06分16秒というギネス記録を樹立。2017年夏には約235kmの静岡県境を一周するチャレンジ『AROUND SHIZUOKA ZERO』(累積標高差/約2万3000m)を4日間20時間28分で達成。海外レースへの挑戦は2011年トルデジアン13位、2017年レシャップベル5位など。
Photo:Sho Fujimaki
Interview&Text:Yumiko Chiba
◆ Sports Graphic Number Web(文藝春秋)にて、2018年トランスジャパンアルプスレースにおける望月将悟さんのドキュメンタリー記事を執筆しました。ぜひ、併せてご覧ください。
Number Ex
日本一過酷な山岳レースJTARで、絶対王者の消防士が挑む「無補給」
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体重2.8kg減、ザック重量5.1kg減。TJAR「無補給」の末に見えたもの
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