新しい価値観をもたらしたブランド「Mountain Marshal Arts」
自分らしいスタイルを求めるトレイルランナーたちの間で、じわじわと人気を高めているブランド「Mountain Martial Arts(以下、MMA)」。アートディレクションとデザインを手がけているのは、自らもトレイルランナーの渋井勇一さんだ。
これまで、機能が最も優先されてきたトレイルランニング・ウェアの世界に ”デザインによる心の満足感“ という新しい価値観をもたらした。2013年春の立ち上げから3シーズンが過ぎ、次回作を心待ちにするコアなファンも多い。
“使う人の顔が見える” という喜び
学生時代、スポーツとはほとんど無縁だった渋井さん。社会に出て、大手セレクトショップのユナイテッドアローズ(以下、UA)に入社する。当初は販売や営業の仕事に携わっていたが、社長に直訴して、グラフィックのセクションをつくってもらったという。グラフィックデザイナーとして勤務した後、2005年に独立。2012年に「RASSLIN’&CO.(ラスリンアンドコー)」として会社を設立した。
オリジナルのコンテンツとして最初に発表したのは、「WAGAMAMA T」というオーダーTシャツのサービスだ。お客さまの依頼を受けて、チーム名や好きなフレーズなどをモチーフにデザインを仕上げていく。
「独立後、たまたまUA時代のお客さまから、柔道部のTシャツをつくってくれないかとのご依頼をいただきました。出来上がったTシャツが思いのほか好評で、部員のモチベーションが上がったと喜んで下さった。実際にそれを着るお客さまの希望に添ってデザインすることで、こんなに満足していただけるのだと、この時に実感しました。使う方とつくり手、お互いの顔が見えるやりとりに魅力を感じ、自社コンテンツとして立ち上げることにしたのです」
オペレーターや学生ではなく、デザインを生業としているプロのデザイナーが、個人やグループ単位のオリジナルTシャツを手がけるというサービスは、これまで非常に少なかったという。
いつしかランナー友だちを介して、市民トレイルランニングチームのTシャツをデザインするようになっていく。渋井さんが生み出す洗練されたロゴと配色は、これまでのチームTシャツのイメージを一新。瞬く間に大会やイベントで注目を集めていった。
TV番組で知ったトレイルランニングの世界
渋井さんがトレイルランニングを始めたのは、あるTV番組がきっかけだった。
格闘技ファンとして古くからの友人であった西岡仁さん(現在、MMAのプロデューサー)に、ドキュメンタリー番組「激走モンブラン!」の録画を頼まれたのだ。
2009年秋にNHK BSで放映されたこの「激走モンブラン!」は、トレイルランナーの間ではある種、伝説的な意味合いを持つ。ヨーロッパの最高峰モンブランで開催される100マイルレース『ウルトラトレイル・デュ・モンブラン』を徹底取材し、トレイルランニングというスポーツに初めてスポットを当てただけでなく、いまや日本を代表するトップアスリートの一人である鏑木毅さんの名前を全国に知らしめた番組だ。
「録画しながらつい見入って、ものすごく感動してしまって。特に第二部に登場するヨーロッパの市民ランナーの方たちの温かいドラマに心を打たれました」
柔術のトレーニングとして取り入れていた西岡さんとともに、いつしか自らもトレイルランニングの世界へ入り込んでいく。
いちばん大切にしているのは「心の満足」
『WAGAMAMA T』の制作を通して、アクティビティにおけるデザインの力を確信していた渋井さんは、2012年、ブランドプロデュース会社を経営する西岡さんとともに『MMA』を誕生させる。
「これまで、トレイルランニングの世界では機能が最優先でした。デザインが第一とか、心の喜びが第一という概念はなかったのです。僕はトレイルランニングが大好きなので、自分の好きなカテゴリーで何か貢献したかった。デザインを軸にした活動なら、お役に立てるかもしれないと思いました」。
当初からウェアやバッグといったアイテムを制作することは決めていたが、実際に商品として完成するまでには数ヶ月の期間を有する。そこで、まずはブランドサイトをオープンし、ブログページをつくって、友人知人にトレイルランニングについて自由に情報発信してもらうことにした。
「いま一般のランナーたちが何を思い、何を感じているかがリアルに伝わればいいなと思いました。ここに登場していただいているのは、ギア好きだったり面白い視点を持っていたりと、自分なりの山の楽しみ方を持っている方たちばかりです」
トレイルランニングを楽しむ中で “より速く、遠くへ” を目標に掲げるランナーは多い。しかし、100人のトレイルランナーがいたら100通りの喜びがあっていいのではないか、と渋井さんは考えている。
「MMAはひとつの“場”みたいなもの。ブロガーの方たち一人ひとりの楽しみ方が伝われば嬉しいですね。他のブランドのことを書いてもらっても全然構いませんし、規制は全くありません。僕が知りたい情報は、みんなも知りたい情報だろうと思っています。もしかしたら、僕が一番の読者かもしれません」
トレイルでも日常でも使えるウェア
MMAが手がけるウェアは “OFF” と “ON&OFF” 、そして “ON” の3テーマに分かれている。
“OFF” はトレイルランナーの日常生活をイメージし、機能性も取り入れたデイリーウェア。“ON&OFF” はアクティビティとデイリーがコンセプトだ。
「アクティビティだけでなく、日常でも気軽に着られるデザインと色を意識しています。加えて、トレイルで格好いいトレイルランナーには、ぜひ普段着も格好よくあってほしいとの願いも込めています」
そして “ON” は、アクティビティ専用のウェアだ。
「最初に ”ON&OFF” の展開を始めたところ、予想に反してロングレースで着て下さる方が出てきました。これはアクティビティに特化したウェアもつくらねばと思い、この春夏からリリースしています」
吸水速乾性の高い素材を用いて、ジェルやゴミなどが収納できるポケットをつけたシャツやパンツを展開している。
常にMMAらしさを大切にしている渋井さん。
「光沢のある生地や原色はあまり使いません。いまトレイルランの世界は、30歳〜50歳代の方々がメイン。自分自身もそうなのですが、派手な色は普段あまり着ませんよね。どの世代が着ても違和感のない色合いを目指しています」
格闘技から得たインスピレーション
実は、MMAの活動はものづくりに留まらない。最近では地図読みのイベントや、元アルピニストのトレイルランナーを講師に迎えた山のスキルアップ講座「蚊取り線香塾」などを開催している。
「蚊取り線香さん(ニックネーム)はUTMBを完走した中国在住のトレイルランナーです。本名でなくニックネームで呼んでいるのは、プロレスが元ネタになっています。ほら、“海外から幻の強豪プロレスラーが参戦”とかあるでしょう。本名でご登場いただくより、謎めいた方が面白いかなと思って(笑)」
渋井さんの発想はとにかく自由だ。アウトドアの世界観に、デザインや格闘技など自分の好きな要素を、垣根を超えて軽々と取り込んでしまう。それを見る私たちは毎回驚されたり、新しい気づきを得たりする。
「僕はアウトドアの業界にいたことがないので、他のカテゴリーのものを何のためらいもなく持ってこられるのかもしれません。とにかく楽しもうという気持ちを大切にしています。それが、MMAの根底に流れる考え方でもあるのです」
もちろん、新しい切り口を提案しているからといって、既存の手法や他のアプローチを否定しているわけではない。
「欧米に目を向けると、小規模で面白いことをしているアウトドアのブランドがたくさんあります。そういう自由な環境がすごく羨ましいし、MMAも同じカテゴリーにいたいと思っています」
大会のアートディレクションをしてみたい
これからやってみたいことはと尋ねると、「いろいろあります」と渋井さんは微笑んだ。
「一つ目は、大会のアートディレクション。 “○○大会 designed by MMA” みたいな活動をしてみたいですね。MMAをアパレルブランドや情報発信サイトと思っている方が多いのですが、僕らはトレイルランニングを楽しむためのツールを集めた場所だと考えています。その最大の武器がデザインということです」。
ロゴや参加賞、パンフレットなどをMMAがデザインする大会が近い将来、実現するかもしれない。
もう一つは、先に挙げた「蚊取り線香塾」のパワーアップだ。
「トップランナーが走り方のノウハウを教えてくれるセミナーはたくさんあるけれど、歩いてもいいからギリギリでロングトレイルレースを完走しようというセミナーは世の中にはないと思う。蚊取り線香塾の講習会では夜間走の練習をしたり、ボッカ練をしたり。参加者のみなさんは、蚊取り線香さんの考え方に賛同して集まってくださっています。いずれ目標レースを決めて、塾生のみんなでツアーを組んで行ってみたいですね」
“トレイルランニング=山を走るレース” だと考えている人は多い。しかしそれだけを楽しみと捉えるならば、いつか目新しいアクティビティが登場した時、そちらへ流れてしまうだろう。山は本来、もっと楽しいものなのではないか。
「SNSでさまざまな情報が簡単に手に入るようになり、誰もが成果を急いでいる気がします。次はこのウルトラレース、その次はこれといった具合にね。でも、そんなに急がなくてもいいんじゃないかな。かつて“スローライフ”という言葉が流行りましたが、もっとスローにアクティビティと向き合っていってもいいのではと思っています」
ご自身のトレイルランナーとしての夢は、トレイルランニングを始めるきっかけにもなったUTMBの完走だ。当時見た番組には、入賞者を始めとする多くの人たちが見守る中、ゴールに滑り込んでくる最終ランナーの姿が映し出されていた。彼は65歳だった。
「いくつになってもチャレンジはできる。僕も65歳とは言わなくても、10年後くらいを目標に完走できればなと思っています。MMAもトレイルランニングも、身の丈に合ったペースで少しずつ成長していけたらいいですね」。
そこには競争も焦燥もない。渋井さんらしい、清々しい言葉が響いた。
■Mountain Martial Arts 公式サイト
http://mountain-ma.com
Photo: Takuhiro Ogawa / Text: Yumiko Chiba