谷允弥さんのトルデジアン330km「10年という節目の挑戦」

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これからの活躍が期待される若手山岳ランナー・谷允弥(たにのぶや)さんは、静岡市消防局に所属する消防士。南アルプスを管轄とする山岳救助隊員でもある。『甲州アルプスオートルートチャレンジ』優勝や『伊豆トレイルジャーニー』4位、『日光マウンテンランニング』4位などの戦績を収めており、地元静岡のファンも多い。

谷さんが勤務する千代田消防署しずはた出張所の先輩には、トランスジャパンアルプスレース(TJRA)の覇者・望月将悟さんがいる。休日に静岡の山々でトレイルランの楽しさを教えてくれたのは望月さんで、二人は師弟のような間柄だ。

そんな谷さんが、2019年9月、人生で最長記録となるイタリアのレース『Tor des Geants(トルデジアン/330km/獲得標高24000m)』にひとり挑戦した。

いつも穏やかな笑みを絶やさず、周りを明るくしてしまう谷さんだが、この挑戦には自分のなかで、あるひとつの意味があった。

高校時代、医師から「もうスポーツはできない」と

伊豆で生まれ育った谷さんは高校生のとき、「ネフローゼ症候群」という腎臓病に罹患する。尿から大量のたんぱくが漏出し、血液中のたんぱくが減少する病気だ。

体の異変に気づいたのは、野球部に所属し、キャッチャーとして副キャプテンを務めていた高校2年の8月のこと。突然、背中に傷みを感じ、それは徐々に強くなって全身を覆っていった。

ひとつめに診てもらった病院では原因がわからず、次に受診した大きな病院で病名が明らかになり、3ヶ月の入院を言い渡される。11月には退院することができたが、医師からは「もうスポーツはできないよ」と告げられる。

「それまで野球しかしてこなかったんです。自分からスポーツを取ったら、もう何も残らないと思いました」

退院後は運動を制限し、投薬や食事療法をしながら療養に努めた。

その甲斐あって、少しずつ体は回復し、高校3年生最後の大会にはファーストのポジションで出場することが叶う。それでも、小学生の頃からずっと憧れていた消防士になる夢は、どこかで諦めていた。

東京の大学に進学してからも調子を見ながら体を鍛え、徐々に体力を戻していく。次第に強度の高い運動にも耐えられるまでに回復していった。

アルバイト先のスポーツジムの仲間と山登りを始めたのは、ちょうどその頃だ。高尾や陣馬、丹沢といった東京近郊の山に登っているうち、トレイルランレースで活躍する地元アスリート・望月さんの噂を耳にする。消防士として伊豆で働く兄からも、「静岡消防局にはすごい人がいるんだよ」と度々、聞かされていた。

「消防士、山岳救助隊員として、望月さんと同じ職場で働きたい」

子どもの頃からの夢に再び火がつく。そして、静岡消防局を受験して見事合格。入局後は幸運にも望月さんと同じ職場に配属された。

「10代の頃、一度は何もかも諦めかけました。それから自分の体と真剣に向き合い、病気を克服して、いまの仕事に就くことができたんです。2019年は病気を治してからちょうど10年目。ひとつの区切りの意味も込めて、何かに挑戦してみようと思いました」

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夏だと聞いていたのに、現地は大雪

———なぜ挑戦の舞台として、トルデジアンを選んだのですか?

谷:海外レースの中でもとくに雰囲気がいいと聞いていたからです。速い選手だけが尊敬されるのではなく、完走したすべての選手が褒め称えられる大会だと。自分は2018年にUTMFに出場したものの捻挫でリタイアしてしまい、まだ100マイルを完走していなかったので、長いレースに出てみたいという気持ちもありました。練習では120kmまで走ったことはあります。

それで、トルデジアンに応募したところ、当選してしまって。当初は将悟さんと二人で出場する予定でしたが、仕事の関係でひとりでの出場になりました。

現地に入って強く感じたのは、準備段階でしっかりと高い山を経験しておかなければダメだなということ。スタートのクールマイヨールですでに標高1300mくらいあり、空気が薄いんです。山岳救助隊は7月、8月が忙しいこともあって、レース前には高い山に登っていませんでした。

ーーーレース中、ネットでトラッキングを拝見していたら、前半かなり攻めたペースで、後半大きくペースダウンしていたため、厳しい道のりだったのではと想像していました。

谷:そうなんです。スタートして80kmの地点で捻挫をしてしまって。40kmから80kmまでの間にピークが3つあって、ロソン峠という3つめのピークはこのレースの最高地点(3299m)なんですね。そのピークを登り切ったら安心してしまい、次のライフベース(仮眠施設の整った大エイド)に向かって軽快に下っている途中で、岩と岩の間に足を挟んでグキッと捻り、アキレス腱を痛めてしまいました。それからは、エイドごとにメディカルに診てもらいながら進みました。

怪我をしてしまったのは、1日目の夜中3時くらいだったと思います。寒波が来ていたので、気温はマイナス15℃。夏だと聞いていたのに、スタートから大雪でした。かつてトルデジアンでは雪でレースが中止になったこともあったらしいんですけれど、数年前からクラムボンが必携装備になり、雪が降ってもほぼレースが中止になることはなくなりました。

走りはじめてすぐに帽子に雪が積もっていきました。普段から愛用しているテムレス(透湿防水機能のポリウレタン手袋)の下にアンダーグローブをしていましたが、とにかく手が冷たくて。

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———装備に関しては、どんな準備を?

谷:まずこのレースのために、blooper backpacksの植田徹さんにザックをつくってもらいました。とても使いやすくて、本当に助かりました。

補給食に関しては、レース中に和食が食べたくなると聞いていたので、デポバッグにアルファ米や味噌汁、梅干しなどを用意しておいたんです。でもほとんどエイドのものだけ食べていましたね。サラミ、生ハム、チーズといったお酒のつまみみたなものと、あとはパスタ。どのエイドもほぼ同じメニューでしたけれど、胃もたれすることもなく、持参していた胃薬も使いませんでした。

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上)このレースのために制作してもらったblooperbackpacksのザック。「330kmの距離をともにする相棒なので、植田さんにはいろいろわがままを聞いてもらいました」 下)黄色の大型バックは大会から支給されるデポバッグ。サポートなしのため、必要なものはすべてこの中に詰め込んだ。スタート時のウエアとシューズ、愛用のニューハレテーピング、シナノのポールなど。

———なにがいちばん不安でしたか。

谷:やはり、足がもつのかどうかです。何もかも未知の世界でしたから。自分の場合、普段のレースではわりときっちり通過タイムを割り出しておくタイプなんですけれど、今回は何も考えないで走ったので怖かったんです。

あと胃腸をやられてしまう選手が多いと聞いていたので、事前に補給のプロフェッショナルである齋藤通生さん(通称:ベスパ齋藤さん)に、いろいろ教えていただきました。とにかく水分の摂り方に気をつけろと。胃腸がダメになる選手は、だいたい水の摂り方を失敗して胃を壊しているらしいんです。水分は多すぎても少なすぎでもダメで、それぞれに適量があると。

それで、レースの数ヶ月前からトレーニングの前後に体重計に乗って、汗の量を量りました。運動前に塩タブレットをひとつとって、どれだけ汗が出たか計測したり。それが功を奏したのか、レース中も内臓トラブルはありませんでした。

———トレーニング時の体重の変化はどれくらいだったのでしょう。

谷:自分の場合、1時間程度走ると、ランニング前後で1.8kg〜2kgも体重が落ちていました。普通の人よりも汗をかきやすいことがわかったので、水分の摂り方を失敗すると脱水状態になりやすくなる。それで、レース中も意識して水分補給を行いました。

現地は乾燥していて、汗をかいても気づきにくいので、ちょっと油断すると水を飲み忘れてしまいます。1時間につき300-400mlの水分補給を意識して、塩タブレットもスタートしてしばらくは2時間に1個程度採るようにしました。

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隣にチェックの服を着た老夫婦が現れて……

———どのようなレース模様でした? 

谷: コースは一面真っ白な銀世界で、黄色いフラッグのマーキングがずっとついているので、コースアウトはそうそうないと思って進んでいました。ただ牛がたくさんいて、ときどき黄色いフラッグを食べてしまうらしいんですね。

それで僕も夜、160km地点の林道を通過していたときにマーキングを見失って、同じ場所を何度も行ったり来たり30分くらい彷徨いました。すでに40時間くらい寝ていなかったので、頭がぼーっとしていたんです。

ひとつ前の小さなエイドで仮眠しようとしたんですけれど、ビーチベッドに毛布一枚で寒くてとても眠れなくて、ここじゃダメだと出発したところでした。横になったので体の疲れは少し回復していましたが、頭が働いていない状態で。そうしたら、幻覚が見えてきました。

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———これまでにレースで幻覚の経験は?

谷:ありません、初めてでした。道ばたの石ころがカントリーマアムに見えるんです、美味しそうで(笑)。こんなに寝ないレースは経験したことがなかったんですけれど、苦しいというよりも「こんな自分がいるんだ」と発見したというか、「これがTJAR出場者がよく口にする幻覚症状か!」と思って(笑)。そのときの自分は幽体離脱して、第三者的な視線で自分を見ている状態でした。

———なかなか込み入った幻覚ですね(笑)。

谷:動いているのは自分なのに、頭のすぐ横にもう1人の小さな自分がいて、進む自分を見ているんです。そのうち、チェックのシャツを着てザックを背負った老夫婦がそばに現れました。小柄でむちゃくちゃ山に強い感じのおばあさんと、大柄でお腹がでていて体力がなさそうなおじいさん。

その老夫婦が僕の横で一緒に登っているんです。体力のあるおばあさんと自分のペースが同じくらいだと、そのまま進めるんですけれど、おばあさんが少し前に出ておじいさんを置いていこうとすると、自分の頭の中で「はやいよ」という声が聞こえてくる。

きっと僕自身がオーバーペースだったんでしょうね、別の自分が心のなかで「もう少しゆっくり」と言っていたのかもしれません。しばらくはリトル自分、老夫婦、走っている自分の3つが存在する状態で、進み続けました。でもその時間帯は、比較的楽に進めましたよ(笑)。

92時間でのゴールがひとつの目標だった

———いちばん辛かったのはどのあたりですか。

谷:グレッソネイという200km地点のライフベースからですね。捻挫した右足首の腫れ方が尋常じゃなくなってきて、テーピングをし直したんですけれど、それでも痛くて。

日本のレースと違って、下りも斜度があってなかなか脚を休ませられないんです。それで捻挫した足首への負担が蓄積していました。明らかに自分のペースが落ちていることがわかって、「この先まだ100マイル近くも残っているのに、本当に行けるのか?」と弱気になりました。

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そんなとき、相前後するアメリカの選手が引っ張ってくれたり、イギリスの選手が痛み止めを分けてくれたりして、もう本当に励まされました。

日が昇ると気持ちが上がってくるものなんですけれど、3日目くらいになると、朝になっても気持ちが上がらなくなってきて。脚の痛みに引きづられて情緒も不安定になっていたのだと思います。

前を見ると、これから行く山がずーっと見えるんですよ。本当に辿り着けるのかという不安から、地図を確認する回数も増えていきました。なんでこんなに辛いんだろう、自分でやると決めて始めたことなのにって。

———辛いなかで、いちばん背中を押してくれたものはなんだったのでしょう。 

谷:いまやめたら、なんのために時間もお金も費やしてここまでやってきたんだろうと思ったからですね。自分ではもっと行けるはずだという気持ちがあって、ものすごく情けなかった。当初は、最低でも92時間以内でゴールしようと決めていたんです。3日台で完走しようと。

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———目標タイムの設定にはなにか理由があったのですか。

谷:今回、静岡第一テレビが出発前から取材をしてくれていたんです。それで、94時間以内でゴールできたら、夕方のニュース番組で完走を報告できる予定でした。少し余裕をもって、92時間でゴールできたら、番組までに2時間余裕があるなと。

とにかく地元をあげて応援してくれていたので、それに応えたいという気持ちが強くありました。テレビだけでなく、いつもお世話になっているスポーツショップ・アラジンのトレラン部が壮行会を開いてくれたり、職場の先輩からも「がんばれよ」と餞別をもらったりして。

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静岡のスポーツショップ「アラジン」トレラン部が開いてくれた壮行会

だから辛い時間帯、歩きながらいろんな人の顔が浮かんできました。想定よりだいぶ遅れてしまったけれど、ここでゴールしなかったら何のためにイタリアまで来たんだと。何も得られないままでは帰れない。せめてゴールして次につなげることができれば、ここまで来た意味もあるのかなと、途中から徐々に気持ちを切り替えていきました。

———レースを通して、とくに印象に残ったことは? 

谷:ボランティアやメディカルの人がとても親切だったことです。僕の前後はサポートをつけた選手ばかりで、ひとりで参加しているランナーは少なかったんですけれど、エイドでボランティアの方が絶え間なく応援してくれて、サポートしてくれました。それがいちばん、力になりましたね。見ず知らずの自分に、ここまでしてくれるのかと。

足首の腫れがひどかったので、ドクターストップを出すこともできたはずなんですけれど、メディカルスタッフは「どうする?」と聞いてくれて、自分が行きたいと伝えると、「おまえは強いな!」と励まして、しっかり送り出してくれました。

後半のエイドでは、ボランティアをしていた日本人の友人と会い、久しぶりに日本語で話ができて、元気をもらいました。

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オロモントのライフベースにて。山小屋でボランティアスタッフをしていた友人・鶴橋さんの声援が励みに

———長いレースを終えた瞬間、どんな気持ちでしたか。

谷:意外に、何の感情も沸き起こらなかったんですよ。とりあえず、ほっとしたというのが正直なところです。

ただ最後の大きな登り、マラトラ峠を越えたところで「やっとこの苦しみから解放される」とは思いましたね。嬉しいというか、やっと終わるというか、でも終わりたくないというか。あれだけ辛かったはずなのに、また来年来たいなと思ったり。不思議です(笑)。

———振り返ってみて、 “やりのこした感” はありますか?

谷:次にチャレンジしたら、もっとできるはずという気持ちはあります。でも今回は完走以上は求めていなかったので、人生で初めて自分を褒めてあげたいくらいの気持ちです。

出発前には、旅も含めてすべてひとりで解決しなければならないという不安がありました。でも人間やってみればなんとかなるんだなと。追い込まれても、なんとかなるものなんですね(笑)。

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はじめての旅を終えて、見えてきたもの

———ご自身のなかで、次への課題は見えてきましたか。

谷: はい、今回はやはり経験値が足りなかったなと感じました。日本の山容とは全く違う壮大なスケールで、「本当にここを行くのか?」と途中、何度も思いました。どこまで自分ができるかわからないまま思い切って突っ走ったので、未知の世界に挑戦したという意味では失敗ではなかったと思っています。思い通りのレースにはならなかったけれど、だからこそ見えてきたこともたくさんありました。

当初は20位くらいでゴールできるかもしれないと思っていたんですね。でも実際には予想をはるかに超えることが起こって、ペースダウンしてしまった。おそらく過去の自分だったら、途中で諦めて止めていたとも思います。

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上)レース後半で一緒に走ったイアン選手(スイス)とセレモニー会場で記念撮影。長い旅で苦楽をともにした選手との友情はなによりの財産だ 下)フィニッシャーのみがサインできるトルデジアンのフラッグに名前を記す

———進んでいくなかで、心のうちに変化が生まれてきたわけですね。

谷:そうですね。レースというよりも、途中からは旅になっていました。スタート前は完走タイムを設定して、そのとおりに行ければいいと思っていたんですが、トルデジアンはそれだけじゃないんだなと実感しました。

そう思ったのは、日本で応援してくれている人たちのことを何度も思い出したからなんです。330kmを走るということは、決してひとりの挑戦ではないんだなと。本当にいろんな人の顔が浮かんできたんですよ。その方たちの応援を思い出したら、ここで止めるわけには絶対にいかない。その想いだけで、進むことができました。

一歩いっぽ進むなかで、現地の人たちや一緒に挑戦している選手の優しさに触れ、本当に救われました。何度も何度も、感謝の気持ちがわき上がりました。

この旅を通して、これまで見えなかった自分という人間も見えた気がします。弱さも意外な強さも含めて。

山は、偉大ですね。簡単には超えさせてくれないんですよ、山は。これまで仕事でもトレイルランでも、きっちりと山に向き合ってきたつもりでいましたけれど、まだまだ自分は甘かった。

そして、自分はどこにいても消防士であり山岳救助隊員なんです。レースを終えて帰国したとき、仕事に支障をきたすわけにはいきませんから、常にそのことをどこかで意識ながら進んでいました。

完走して元気に日常生活に戻ることが、自分の使命なのだと。

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Photo:Takuhiro Ogawa
Text:Yumiko Chiba