「壊れる覚悟で臨んでいた」前回覇者・垣内康介にとっての2日間のTJAR

写真:後藤武久

8月8日(日)午前0時にスタートした『トランスジャパンアルプスレース2020』(TJAR=日本海から静岡まで日本アルプスとロードを踏破する総距離415km、累積標高 約27,000mの山岳レース)は、9日(月)午前7時2分に中止が発表された。

今回の『TJAR2020』は、本来なら昨年開催されるはずだった大会がコロナの影響により延期されたもので、第10回目の記念大会でもあった。

開催前から台風9号の影響が危惧されていたが、スタート地点・富山県魚津市の天候は雨がぱらつく程度で、当初は中止とする状況ではなかったという。その後、8日(日)16時発表の「ヤマテン」によって、「大会中止基準」にあたる予報が発せられたことから、協議の末に中止の判断が下された。

怪我と焦りにもがき苦しんだ3年間

中止が決まったとき、前回の覇者・垣内康介さんは首位の土井陵さんに次ぐ2番手につけていた。

2018年、それまで4連覇を遂げていたTJARの絶対王者・望月将悟さんの後を引き継ぐ形で新王者になった垣内さん。あれから3年が経ち、本大会はどんな気持ちで臨んでいたのか。

ーーこの3年間はどのような時間でしたか。

垣内:とにかく辛かったです。当初、今回は出場する気持ちはありませんでした。3年前「次はない」という覚悟で出場していたからです。それくらいTJARを目指すためにはいろいろなものを犠牲にしなければならないので。

ーー2008年にTJARの存在を知り、10年間憧れ続けて叶った出場だったんですよね。

垣内:そうです。2014年に一度選考会を通過したけれど、出場枠30人に絞る抽選で落ちてしまって。それが本当に悔しくて、やるせなくて。次の2016年はエントリーもしなかったんですけれど、そうしたら一緒に抽選に落ちた渡部祥さんが出場して、3位に入ったんですよ。それを知ったとき、自分はただ逃げていただけなんだと気づかされました。そこから奮起して出場したのが、2018年大会でした。

ーー今回の出場を決意したのはいつ頃ですか。

垣内:2019年の初めです。次の目標をどうしようと考えるなかで、選択肢として出てきました。でも、前回以上の結果はないんですよね。ただあのときは運がよかったという要素が大きかったので、自分は実力的にはトップだなんて全然思っていなかったんです。だから、もう一回出場できたら本物だなと思いました。

かといって完走するだけでは意味がない。もちろんTJARに完走すること自体には価値があるんですけれど、いまの僕にとってはあまり意味がないように思えたんです。ただ完走を目指すなら、他の人が出場した方がいいんじゃないかと。30人しか出られないわけですから。

結局、「もう一度いい結果を残すことが自分を確立する道だ」と思い至ったのですが、それってすごく大変なことなんですよ。これまで以上の練習を積まないと結果が出ないことはわかっていたし、それがどれほど大変なことかもわかっていました。

ーー2019年春に望月将悟さんとの対談でお会いしたとき(文藝春秋『NumberDo vol.34』/望月将悟×垣内康介に掲載)、望月さんが打ち出した大会記録(4日23時間52秒)には25時間以上も差があって、12時間削るところまでは方法論が見えるけれど、あと13時間はどうやって縮めたらいいのか想像がつかないとおっしゃっていました。

垣内:そのとおりです。だから、その答えを見つけるためのトレーニングをしなければならなかった。なのに体がついてこなかったんでよ、怪我をしてしまったんです。はじめはアキレス腱を痛めて、それがちょっと治ったと思ったら今度は疲労骨折や肉離れを起こしてしまって。オーバーワークだということはわかっていたんですけれど、目標を達成するためにはやらざるを得ない。そこからは、怪我を繰り返す悪循環とストレスの日々でした。

写真:茂田羽生


ーー垣内さんのなかで今回の目標は優勝だったのですか。それとも5日切りだったのでしょうか。

垣内:5日切りを目指すのは天候にもよるじゃないですか。かといって優勝を目指すにしても、土井陵君みたいな速い選手が出てくることもあるわけだし、出走メンバーによるところも大きいですよね。もちろん優勝できたら最高ですけれど、本当に自分にとってベストなパフォーマンスができたらいいなという感じでした。明確ではないんだけど、かなり高い漠然とした目標を持っていました。

ありがたい周囲の期待も
ときにはプレッシャーに

ーーー優勝後、周りの方々の反響はどうでしたか。それによるプレッシャーなどは?

垣内:ありました。それをプレッシャーと感じるか応援と感じるか、僕にとっては両方でしたね。応援を力に変えようという部分と、認めたくはないけれどプレッシャーに感じてしまう部分もあって。怪我をしたというのも、いま思うとプレッシャーに負けてしまったというか、自信がないゆえに「やらなければ」という気持ちになっていたところがあったような気がします。

二連覇への期待の声もいただいて、それはとても嬉しいことだから、やっぱりその声に応えたいと思っちゃいますよね。家族もすごく協力してくれましたし、職場も応援してくれました。本当にすみませんという感じです。

ーー前回「ゴールの大浜海岸で死んでもいい」という気持ちで出場したと伺いました。その時点でもかなり心身ともに追い込んでいたと思うのですが、そこから何を足していったのでしょうか。

垣内:出場を決めてからは、さらに過酷な練習量、強度の高いトレーニングを自分に課していました。何十時間も山に入ったり、走るときにもぶっ倒れるくらいまで追い込んだり。でも怪我をし続けて、それでやっと気づいたんですよ、年なんだって。42歳、厄年なんです。

よく厄年には何か起こるとかいいますけれど、信じていなかったんですね。同級生全員が厄年になるわけだから、そんなことないだろうと高をくくっていました。でもこういうことなんですよね、体の変化です。今までは、トレーニングと回復を繰り返してきたけれど、回復が遅くなってきた。それをようやく認めざるを得なくなったわけです。

3年間の後半はとにかくケアに時間を費やしました。ストレッチ、ヨガ、トレーニング後のアイシング、補給面にも気をつけて、練習以外のことに時間を割いて。でも足りなかったんですね。

ーー辛い日々ですね。

垣内:辛い日々でした。今までは夢に近づくためなら、どんなこともあまり辛いと思ったことはなかったんです。辛いことも楽しめたんですけれど、もう楽しめなくなって。だからといって出場を止めようとは思わなかったんですけど。

温かい食べ物が自分には合っていると

ーースタートラインに立ったときはいかがでしたか。

垣内:やっとここまで来られたなという感じでした。ここまで辿り着いたら、あとはやるだけですから。

ーー優勝者は選考会をパスできるわけですが、やはりそれは大きかったですか。

垣内:気持ち的に楽でしたね。選考会はだいたい大会一ヶ月前に実施されるので、そこまで出場できるかわからない。普通なら選考会までは選考会を目指し、それが終わって出場が決まった段階でようやく本番に向けて気持ちが整えられるわけですけど、僕は最初から本番に向けて準備ができたので、そこはとても有利でした。

ーールール変更があり、山小屋での食事や水以外の購入は禁止されましたが、装備で前回と変わった点は?

垣内:食料が増えたくらいですかね。僕は荷物が多い方で、ザックは9〜10キロくらいありました。前半から積極的に火器を使って食事を用意しようと考えていたんです。土井陵君のインタビューを読んだのですが、基本的には火器を使わないと言っていて、とても驚きました。

こう見えて、自分も結構考えて用意しています。台風が近づいていたので、低体温のリスクが高いのではと考えました。低体温になったとき回復するためには着替えと体温を上げるための燃料(食事)が必要です。もちろん、低体温にならないための予防にもそれらは必須です。

2018年大会のとき、レース後半に体力がなくなって、食べた分しか動けなくなったので食料は多めに持ちました。

写真:茂田羽生


ーーご飯やパンが多いですね。

垣内:温かいご飯がいちばん自分に合っているんです。トレーニングではアルファ米を水で戻して食べたりもしましたけど、温かい方が力になるんですよ。同じものを食べても、冷めているか温かいかでエネルギーになる感覚が違います。あくまで僕の感覚ですけど。

おそらく冷たいものを食べても、消化のために体内で温める力を使うと思うんです。そう考えたら、3分くらい時間がかかっても温めて食べた方が結果的にはいいんじゃないかと思って、僕は前半から積極的に温かいものを摂るようにしていました。アルファ米の中にフリーズドライの中華丼とか親子丼なんかを入れて、よりカロリーを高くして食べました。

ーーなるほど。この3年間で自分に合った補給方法の選択に磨きをかけたわけですね。

垣内:体が本当にダメになったときに回復する要素って、睡眠と食料しかないんですよね。レース中に動き続けることも大事ですけれど、回復を左右するのが睡眠と食料だと考えるとそこは削れない。デメリットとして荷物は重くなりますが、遭難や滑落で2〜3日停滞しなければならない可能性もあるので。

もちろん、土井君の方法論もひとつの正解例ですから、否定しているわけじゃないんですよ。彼のように早く危険な箇所を抜けるというのも山ではリスク軽減のひとつの方法ですから。リスクヘッジにはいろんな方法があると思っています。

体調が上がらず
仮眠しながら進んでいた

ーー疲れが溜まってくるのは何日目くらいからですか。

垣内:僕なんか初日から疲れていますね。ただエネルギーが枯渇して食べた分しか動けなくなるのは、南アルプスに入ってからです。

ーー疲れてくると食べられるもの、食べられないものが出てきますか。

垣内:はい。たとえばみんながよく持っていく柿の種とかナッツ類は、カロリーが高くて軽いので非常食としては自分も持ちますけれど、本当に疲れると食べられなくなります。

逆に食べたくなるのはご飯ですね。できれば普通の食事がいいんですけれど、もちろんアルファ米でもいいです。あとアルフォートもいつでも食べられます。

ーー装備にも入っていますね。前半の調子はいかがでしたか。

垣内:スタート直後は調子がよくて土井君についていってみましたけど、10kmくらいで「これはダメだ」と止めました。それで普段よりも汗をかいてしまったからか、その後は調子が悪くて。

もうひとつ調子が上がらなかった原因として風邪気味だったことがあります。レース直前に子どもが風邪を引いて、それがうつってしまい、レース中に疲れが出ていました。剱岳の登りなんか無茶苦茶きつくて。

それで体の回復を信じて、食べて寝てを繰り返しました。まず早月尾根で5分の仮眠を2回して、五色ヶ原で20分昼寝して、夜は薬師峠で1時間寝て。五色ヶ原と薬師峠では、眠る前にご飯を食べました。

日常では寝る前に食事をすると胃腸が休まらないのでしませんが、本当に疲れているときには体に燃料が残っていないことが多いので寝る前に食べるんです。これが本当に回復するんですよ。

ーーご自身のなかで作戦はありましたか。

垣内:本当はもっと調子よく進むはずでしたから、一日目で黒部五郎岳くらいまでは行くつもりでいました。もしかしたら行けたかもしれないですけど、早めに寝ておこうと小まめに寝ました。それでようやく回復してきたところでした。

写真:藤巻翔

中止の知らせを聞いて号泣
壊れる覚悟で臨んでいたから

ーー中止の知らせはどこで?

垣内:槍ヶ岳でした。槍ヶ岳山荘がチェックポイントになっているので山荘に行ったら、スタッフの方が軒先に案内してくれて「中止です」と。

ーーどんな気持ちでしたか。

垣内:ショックでしたね。「ほんとですか?」と確かめました。スタッフが冗談言うわけはないんですけれど。そこからは恥ずかしながら、顔を伏せて泣きました。

自分でいうのもなんですけれど、相当な覚悟で臨んでいたんです。ただ台風が来ていたから、ひょっとしたら中止になるかもしれないとは考えていました。

ーー前回もすごい覚悟でしたが、今回はどんな覚悟だったのでしょう。

垣内:前回は「人生終わってもいい」くらいのつもりで臨んでいましたけれど、今回はそれ以上で。それ以上があるのかって感じなんですけれど。

怪我が治っていなかったですから、体が壊れることは目に見えていましたし、そうなることは覚悟していました。最後は歩けなくなってもいいかなと。

ーー完走したら競技ができない体になるかもしれない、という意味ですか。

垣内:その可能性は充分ありましたね。こんな言い方をしたらいけないかもしれないですけれど、本当に死ぬ気で出場していたんです。だから、競技はできなくなったかもしれないですね。

ーーそこまでできるのは、なぜなんでしょう。

垣内:なんなんでしょうね。TJARはそこまでする価値があるんじゃないかと思っているのかな。たかがレースですけど。

ちょっと話が逸れてしまうんですけど、いいですか。今年のオリンピックの柔道で連覇した大野将平選手の言葉が印象的だったんです。オリンピック選手と僕を同じ土俵で見てしまうのは本当に失礼なんですけれど、大野選手は「次を目指しますか?」という記者からの質問に対して「これまで自分を殺すような稽古をしてきた。だから次のオリンピックも目指すとなると心が持たないかもしれない」と言ったんですね。

その言葉がすごいなと思って。

ーーすごい話ですね。

垣内:命を賭けてきたというか。彼は世界トップの選手だし、自分は仕事をしながらレースを目指している立場だからレベルは全然違うんですけれど、賭けてきた想いは似ているなと感じました。

ーーそれはTJARだからできることなのでしょうか。

垣内:そうかもしれないですね。

ーーほかのものには代えられないと。

垣内:僕がTJARを目指してきたからなんですけどね。ただ今回中止になって、自然という不可抗力でレースが終わってしまったことで、僕のなかで何というか……いくばくかの変化はありました。

もちろん、今回の中止の判断は当然だったと思います。レースを存続させるという意味では、事故を未然に防がなければいけないわけですから英断だったと思っています。

ただ、僕は行けた……。こんなこと言っていいのかわからないんですけど、それに対応するだけのトレーニングを積んでいましたし、準備もしていました。

不可抗力ゆえの虚脱感

ーー中止を告げられた後はどうしましたか。

垣内:僕が泣き終わるまでスタッフの方が黙って待っていてくれて、その対応に救われました。「わかりました」とだけ答えました。

その頃、貝瀬淳選手と馬場誠選手が槍ヶ岳に向かっていたので二人を待つ間、スタッフの方とメールなどをチェックして情報を収集しました。確かに雨風は強くなっていて、天候は悪化してきているなと。

二人が槍ヶ岳山荘に到着し、他の選手たちも各所で下山準備を始めていることを確認してから、三人で麓へ下りました。

ーー何か話をしましたか。

垣内:当然みんな凹んでいるんですけれど、二人のお陰で気丈に振る舞えたところがありましたね。上高地のバスターミナルまで結構長いじゃないですか。貝瀬君は「次のバスに乗りたいから」と急いでいたので、登山口まで下りたところで別れたんです。馬場さんもほどなくして、バスに間に合うように急いで行ったんですけれど、僕は完全にスイッチが切れてしまって。

一人になったら牛歩のごとく全然動けないし、眠いし、蛇行しながら時間をかけて歩きました。それで平湯温泉まで行き、家族に迎えに来てもらいました。

ーーご家族は?

垣内:「お疲れさま」という感じでしたね。

ーー大会終了から1ヶ月経って、少し気持ちの整理はつきましたか。

垣内:ついたようなついていないような感じですね。全然走りたいとか山に行きたいとか思えなくて。つい先日試しに山に行ってみたんですよ。でも全然楽しくなくて、走っても疲れたらすぐに歩いちゃうし、頑張ろうとも思えない。立ち直るには時間がかかりそうな感じですね。

次の目標がいつ見つかるのかはわからないですけれど、いまは抜け殻です。

ーーこれまで同じような経験をしたことはありましたか。

垣内:2014年に抽選で落ちたときもいまのような感じでしたね。あとは2019年中国のゴビ砂漠のレースに出場予定だったのに開催直前に大会が中止になったときも。

そういう経験をしてきたからか、いまレースに想いを賭けることに対して気持ちが変わってきています。レースを目指すこと自体が、ちょっとわからなくなってきたという感じなんです。

ーー魂を込めて練習してきても、不可抗力によってゼロになってしまうということに対してですね。

垣内:不可抗力……そうですね。ただ大会という舞台を用意してもらえるから注目してもらえるわけですよね。TJARという舞台だからこそ輝ける。だからみんな目指すわけで。その分、失うとショックは大きいですけど。

写真:後藤武久


全力を賭けてきたものが
突然なくなる怖さ

ーーTJARの魅力とは何なのでしょう。

垣内:やっぱり舞台として最高だと思うんですよ。30人という限られた人数でスケールもでかい。一人で目標を定めて行う挑戦ももちろん素晴らしいけれど、やっぱりTJARには夢があるんですよね。

ーー私たちにとっては異次元の世界なわけですが、年々憧れる人が増え続けることで、さらに舞台の輝きは強まっているようにも感じます。

垣内:そこにどれだけの覚悟をもっていくかにもよると思うんですよ。どんな大会でも出場するのは楽しいわけで、僕はTJARにすべてを注ぎ込み過ぎたのかな。

以前の対談で望月さんが言っていた言葉が、いますごく心に響いています。僕はひとつの目標を決めたら、それに向かって全力を賭けるタイプですけれど、それに対して望月さんは「自分はいつも次のことを考えている」と。「目標を決めて努力して、それがダメになったときに立ち直れないから」と言っていたんですよね。まさにいまの僕というか。

望月さんがトップであり続ける理由はそういう姿勢にあるのかなと、だからずっとトップを走っていられるのかなといまになって思いますね。

ーー私もその言葉はすごく記憶に残っています。望月さんは「目の前のものに全力を注ぐことが怖い」とおっしゃっていました。

垣内:望月さんが望月さんであり続ける理由がちょっとわかったというか。心の余裕というかね。

ーーそれくらい、いまは心がポキッと折れてしまった状態なんですね。

垣内:そうですね、完全に折れてます(笑)。もちろん落ち込んでいても仕方がないとはわかっているんですけれど、これは時間が経たないと解決しないでしょうね。

ーー抽選会で落ちてしまったときも2年後には奮起されましたよね。

垣内:でも、そのときも2年かかったんですよ。僕もそう若くないので、レースに出場してトップを狙うというのは、これから年齢的に厳しくなってくると思うんです。次の目標がいつ見つかるかわからないし、気持ちがレースに向かないかもしれないし、まだわからないですね。

ーーこれまでトレーニングしていた時間がぽっかり空いてしまったと思うのですが、どう過ごしておられるのですか。

垣内:いまはずっと我慢していたアルコールと甘い物を解禁しています(笑)。本当は甘いもの大好きなんですけれど控えていて、半年前からは完全に食べないようにしていましたので。アルコールは嗜む程度に楽しんでいます。あとはボケーッとしている時間が多くなりました。

ーー垣内さんのことですから時間が解決すると思います。かつて世界放浪中のパキスタンで宝石を掘っていたときに、山走りの楽しさ(トレイルラン)に目覚めた方ですからね。

垣内:そうですね(笑)。そんなこともありました。これまでトレーニングに明け暮れていて、家族と過ごす時間が少なかったので、これから子どもたちとキャンプとかしたいですね。

写真:後藤武久

ーー最後に伝えておきたいメッセージはありますか。

垣内:本当は読んでくださる人にポジティブなメッセージを伝えたいんですけれど、いまの僕にはないんで……。ないんですよ。

だから、ただ待ちます。なにかを。

     
インタビュー&テキスト:千葉弓子