『山物語を紡ぐ人びと』vol.35〜 夫の想いを受け継いで3年。「RUN-WALK Style 」オーナー三浦佐知子さん


大阪城近くにあるランニングショップ「RUN-WALK Style」。2006年4月1日に創業し、この春に17周年を迎えた同店は名古屋にも支店を構え、ロードランナーやトレイルランナーに愛され続けている。

社長として、2つの店舗を切り盛りするのが三浦佐知子さんだ。夫でオーナー店長だった三浦誠司さんが、六甲山でのトレイルランニング中に水難事故で亡くなったのは2020年7月のこと。

その後、三浦さんが長年心を込めて育ててきた店を引き継いだ。2013年に三浦さんと結婚してから店を手伝うようになったという佐知子さんは、「まさか自分が経営者になるとは想像もしていなかった」と話す。

人一倍、正義感が強く、トレイルランを愛して止まなかった三浦さんは、大阪エリアのランニングコミュニティにおける中心人物の一人だった。選手としての活躍もめざましく、「信越五岳トレイルランニングレース」や「スパトレイル」「奥三河パワートレイル」など、さまざまな大会で好成績を収めた。

各地のレースでエイド運営も担い、選手目線のおもてなしが評判だった。とりわけ多くのランナーの心に深く刻まれているのは店のオリジナルキャラクター「ガンバフンバくん」に扮した姿だろう。等身大のガンバフンバくんはいつも熱く選手たちを励ましていた。

そんな「走ること、山を楽しむこと」に人生を賭け、心を尽くしてきた三浦さんの遺志を受け継ぎながら、いま、佐知子さんはひたむきに走り続けている。

少し手伝うつもりが
気づけば毎日店に立っていた

ーーお店のキャッチコピー「走ることが楽しくなる商店」はランウォークスタイルを見事に表現している言葉ですね。

佐知子:店長は「走ることが楽しくなることを形にしたい」という想いが強くて、ずっとそれをコンセプトに活動していました。このコピーはコロナ禍の自粛期間中に時間に余裕ができ、それまでなかなか着手できなかったECサイトのリニューアルを行うタイミングで生まれたんです。いきなり言い張ったんですよ、店長が。「走ることが楽しくなる商店にしよう」って(笑)。彼はそういう言葉がすーっと出てくるタイプでした。

物事って、なんでも言葉にすると動いていくものなんですね。このコピーが決まったことで、私自身もより店のあり方について考えるようになりました。

店の中央には神棚があり、三浦さんが表紙を飾った雑誌や手がけた詩など思い出の品が飾られている

ーークオリティの高い着ぐるみのガンバフンバくんが登場したときには驚きました。トレイルラン会場でガンバフンバくんに会うと嬉しくなりますね。

佐知子:イラストだったガンバフンバくんを3D化すると聞いたとき、私が一番反対したんです(笑)。すでに店長が専門業者さんに依頼した後だったんですけど、結構な費用だったので。でもいまでは、私がいちばん可愛がっています。

店では「信越五岳トレイルランレース」100マイルカテゴリーのアパリゾート上越妙高エイドを担当。深夜、ガンバフンバくんが選手を激励する

最初に友人にイラストを描いてもらったのは2016年頃で、3D化したのは2018年の名古屋ウィメンズマラソンの頃でした。ちょうど私も出場する予定だったので、「名古屋まで新幹線で運んで応援する」というのを目標に制作を始めました。出来上がったのが大会直前で、店まで配達してもらうと間に合わないからと、運送会社の倉庫まで引き取りに行きました。

それ以来、福知山マラソンや神戸マラソンなど関西エリアのマラソン大会にはこの姿のまま電車に乗車しています。もちろん運賃を払って(笑)。

ーーそのまま電車に乗れるんですね(笑)。〝走っても揺れにくい” をコンセプトにしたオリジナルポーチ「YURENIKUI」や、そこから発展したオリジナルザック「ZAINO」「SETARO」など、三浦さんは実にいろいろアイデアを具現化してしまう方でした。

佐知子:発想力がすごいというか、一緒にいると「またそんなことを言い出して」と思うことがよくありました。何気なく私が発した言葉をキャッチして、それを昇華させていくことも多かったですね。誠司さんは伝わりやすい言葉として発信する力を持っていましたし、影響力も大きかったと思います。

生前、三浦さんが開発を進めていたザック「SETARO」。事故の後、佐知子さんが発売することを決めた

乗鞍で蕎麦店を開業したのち
大阪でランニングショップを立ち上げる

ーー佐知子さんはご結婚後にお店を手伝うようになったとか。

佐知子:そうです。それまでは福祉の相談員をしていたので、いまのようにお金のことを直接考える仕事ではありませんでした。当時とてもいい仕事をさせてもらっているなと思っていました。ただちょっと疲れたなと感じた時期があって、「休みたいな」と誠司さんに言ったんです。そうしたら「しめた!」と思ったみたいで、「辞めたらいいよ。忙しいときだけ店を手伝ってくれたらいいから」と嬉しそうに言ってきて。それが2016年です。当初はちょっと手伝うだけのつもりだったんですけど、気づけば毎日店に出るようになっていました。

ーーお二人の出会いのきっかけは?

佐知子:私が緩くロードランニングを始めた頃、お客さんとして店を訪ねるようになって知り合いました。2013年に結婚したんですけど、古くからのお客さまによれば、それ以前の店長はトゲトゲしていて怖かったそうなんです。彼は前妻の千代さんを病気で亡くしていて。「結婚してから落ち着いて優しくなった」とみんなに言われていました。

UTMBのカテゴリーのひとつ「OCC」にて。フィニッシュゲートに向かう三浦さん

ーー三浦さんのことをあらためて教えていただけますか。

佐知子:誠司さんは神戸出身で、高校のときからトレーニングで六甲山を走っていました。トレイルランという言葉が一般的になる前から自然に山走りをしていたそうです。最初に就職したのは飲食業界で、次に東急ハンズで働いて、それからアートスポーツの大阪店に勤務しました。大阪のアートスポーツが閉店することになって、それから長野県の乗鞍高原へ行きました。

もともと20代のうちに起業したいと思っていたらしくて、「乗鞍で山を走って案内しながら店を経営する」というのをひとつの目標にしたようです。修行として大阪の料理屋さんで働いたり、乗鞍のペンションで働いたりした後に、乗鞍で「おくどはん」というお蕎麦屋さんを開業しました。お蕎麦を職人さんに打ってもらい、誠司さんが一品料理をつくるというスタイルで結構人気店だったらしいです。

味はもちろんですけど、誠司さんは見た目にもすごくこだわる人で、野菜の切り方なんかもうるさかったんですね。「おくどはん」では、地元野菜を美しく見せながら美味しく食べてもらうことに注力したところ評判を呼んだらしいです。

前妻の千代さんとは乗鞍の休暇村で働いているときに出会って結婚したと言っていました。二人で「おくどはん」を5年間切り盛りし、大阪でランニングショップを開くために店を閉めて、屋号をそのまま会社名にして「ラン・ウォークスタイル」を立ち上げました。

私は千代さんが亡くなって5年後に結婚したので、会ったことはないんです。もともと私自身は結婚についてとくに考えてもいなかったんですけれど、お店を訪れるうちに声をかけられて……。

店内には東京五輪に出場した田中希美選手の写真も。希美さんが子どもの頃から家族ぐるみのお付き合い。陸上選手として第一線で活躍するようになってからも三浦さんは影ながら応援し、田中選手から〝第二の父” として慕われていた


ーー三浦さんに見初められたわけですね。

佐知子:なんというか、誠司さんは持っていくのが上手いんですよ(笑)。たとえば私はすごく手ぬぐいが好きなんですけど、プレゼントに手ぬぐいをくれたり、岡本太郎の太陽の塔にはまっていたときには「太陽の塔にプロジェクションマッピングをするイベントがあるから行かない?」と誘ってくれたり。きっと人の気持ちを動かすのが上手な人なんだと思います。

ーー相手がどういったものが好きか丁寧に見ていらっしゃるんでしょうね。

佐知子:そうなんでしょうね。それで心が動いてしまったんです(笑)。結婚した当初、みんなから「大変でしょう?」と言われたんですけど、その大変さは全然わかっていなかった。結局、大変なことになりましたけど。

二人で出場したステージレース
「トランスアルパイン」での洗礼

佐知子:それまで緩く走っていたんですけれど、2017年にいきなり誠司さんから「ヨーロッパを7日間走るトランスアルパインというステージレースに出るぞ!」と言われて、ペアで出場することになりました。それが本当にしんどくて。

ーートレイルランナーの奧宮俊祐さんと山田琢也さんがペアで出場し、NHK番組でも放送されたレースですよね?

佐知子:そう、それです。山田琢也さんにレース後にお店に来ていただいて、お話を伺ったら、誠司さんが「絶対出たい!」と言い出して。彼は国内レースで入賞経験が豊富なので順位が気になる人なんですね。一方で私はまだそこまでガッツリ走っていなかった時期なのでモチベーションの温度差が大きくて。

しかも標高の高い山を走るレースで、私は2300mくらいから一気に身体が動かなくなってしまい、スタート4日目には険悪な空気になりました。毎日ゴール後にパスタパーティが開かれて、選手はそこで夕食をとるんですけど、4日目の夜はゴールしてお風呂に入って洗濯したら、二人とも疲れて寝てしまって、起きたらパスタパーティが終わっていたんです。結局、ホテルのレストランでなんとか夕食をとることができて、一言も話さずに食べて寝ました。

夫婦で出場した「トランスアルパイン」。標高の高い山を7日間走り続けた

でもステージレースって面白いもので、翌日になると気持ちが切り替わるんですよね。あんなに険悪だったのに寝たら忘れるというか。しかも5日目は私が結構走れたので、誠司さんが喜んでしまって(笑)。

ーー佐知子さんはそれまで長距離レースの経験はあったのですか。

佐知子:「奥三河パワートレイル(約70km)」を完走した年でしたが、まだまだ長距離を踏んでいたわけではなくて、このレースがきっかけで走れるようになりました。

ーー荒療治ですね(笑)。

佐知子:荒療治ですよね(笑)。大会中の7日間は高地合宿みたいでした。レース終了後の一ヶ月後に「斑尾フォレスト50km」が控えていたんです。それでレース6日目に「一ヶ月後に50kmなんて、疲労が抜け切れないから走れないな」と私が走りながら言ったところ、誠司さんが「帰国したら毎日5kmジョグをしておけば大丈夫だよ!」と慰めのつもりで言ってきて。私はその言葉を聞いて、バチ切れしてしまったんです。「この瞬間もレースで一杯いっぱいなのにまだ走らせるのか」と(笑)。 

それで「もうこの人と一瞬たりとも一緒に走りたくない!」と思って、「巻いてやろう!」みたいな意気込みで猛スピードで先に走っていったんですよ。そうしたら、その日は速くゴールできてしまって、ABCランクのうちBランクでゴールしたんです。Bランクだと翌日スタート位置が前方になるので、速い選手の様子を見られるんですね。誠司さんはすごく嬉しかったみたいです。

そんなわけで「トランスアルパイン」は私の中では大きな転機になりました。帰国後は一歩も走らず、斑尾フォレストに出場しました。そうしたら、まさかの入賞というおまけまでついてきて。懐かしいな(笑)。

思い出深い「トランスアルパイン」のゼッケンと完走メダル

わたしが本格的に走り始めたとき
「これからはお前が頑張れ」と

ーーフルマラソンの国際レース出場資格(3時間7分以内)もお持ちですね。

佐知子:はい、最初に取得したのは2018年(2020年まで3時間10分)です。ちょうどその頃から誠司さんは足の不調で走れなくなっていたんですね。彼は2015年に「比叡山トレイルラン」や「信越五岳トレイルランレース」で入賞しているんですけれど、その頃から膝やアキレス腱の痛みを抱え始め、2016年には「選手として区切りをつける」と言い出しました。

2018年頃、私がタイムを意識して本格的に走るようになったときに「これからはスタッフサチコの時代だから、お前が頑張れ」と言われたんです。彼は勘が働く人だったので、これからは女性を前に出すことが必要だと考えていたようでした。

ーー時代の空気を読むことに長けていたんですね。

佐知子:本当にそうなんです。情報のキャッチ力が全然違うというか、同じようにテレビを見ていても、私が気にも留めていないようなことに注目したりしていました。

誠司さんは学生時代に陸上部だったので結果を求めて走るタイプなんですけれど、その反面、ランニングの楽しさはそれだけじゃないこともわかっている人でした。でも自分が走るとなると、やっぱり結果を求めたくなってしまうんでしょうね。

さまざまな商品POPにもガンバフンバくんが登場。もはやなくてはならない存在

ーー速いランナーだけでなく、ビギナーにも寄り添う方でしたね。私自身トレイルランを始めて間もない頃にお店で接客していただき、そう感じました。

佐知子:やはり完全な競技志向ではなかったのだと思います。「楽しく走るためにはトレーニングしないとただ苦しいだけのスポーツになってしまう。だからトレーニングが必要なんだ」と言っていました。「練習もせずにレースに出るのは失礼なことで、ちゃんとトレーニングをした上で全力で楽しむのがレースであり、レースは表現する場なんだ」と。

人を喜ばせるのも好きで、走り終わった後にみんなに焼きそばをふるまったりもしていました。いろんな大会でエイドをお手伝いしましたけど、どう運営するか、もてなすかを考えるのがすごく好きでしたね。

いつも誠司さんに見守られている気がする

佐知子:一般的に「大阪の人はケチだ」とよく言われますけれど、情に脆いところがあるんですね。自分も含めてなんですけれど、商品を買うことでそのお店を応援しようという感覚の人が多い気がします。店長がこんなことになって、よりそれを感じるようになりました。

これまでも店のファンだったけれど、ファンだとは言えなかった方たちが応援してくれるんです。店長は強面だったので、「俺がいると人が店に来ない」とよく言っていて(笑)。本当はお店が好きなんだけれど、店長が怖くて近寄れなかったお客さんも結構多かったので、そういう意味ではいまは入りやすくなったかもしれません。

私がオーナーになって、女性ということもあり不安な面もあったんですけれど杞憂でした。うちはお店を大事にしてくれるお客さんが本当に多いんです。それになんだか守られている気がするんですよ。すごい力で守られているのがわかるんです、私。

ーーというのは?

佐知子:誠司さんからです。生きているときも彼はパワーに溢れた人でしたけど、亡くなってからもすごくて。不思議なこともよく起こるし、いつも見守ってくれている気がするんです。

ーーたとえば、なにげなく良い状況に転じるとかですか?

佐知子:そうですね。なんでもいい方向に転ぶことが多い気がします。たとえば、誠司さんがアートスポーツに勤務していた頃に東京店に勤めていたトレイルランナーの石川弘樹さんとは長年の友人で、誠司さんは石川さんのことが大好きだったんです。だから一周忌に石川さんが店に来てくださったときには、ずっと誠司さんが石川さんの横にくっついている気配がしました。そうしたら、ちょっと不思議なことも起こって。

2015年、石川夫妻とともにアメリカ旅行へ石川弘樹さん(右)と妻の枝里子さん(中央右)。かつてインタビューで三浦さんは石川さんについて「道なき道を歩いてきた同志」と語っていた


店で石川さんと話しているとき、「GU(スポーツ用補給食)のグミが好き」という話になったんですね。うちでもGUを扱い始めていましたけれど、グミは置いていなかったんです。そうしたら、いきなりドアが開いて店に入ってきたのが、GUの代理店をしているパワースポーツ社長の滝川次郎さんでした。「ごめんね、一年も経ってしまって」と言いながら。

滝川さんとも古くからのお付き合いなんですけれど、コロナ禍もあって、誠司さんが亡くなってからまだお店に来ておられなかったんです。滝川さんはそれをずっと気にされていたんですけど、「実は夢に三浦さんが出てきたんだよ。ちょっと店に行ってくれって」と言うんです。それで、わざわざいらしてくれたと。さっそくグミも納品してもらいました。

ーー不思議な偶然ですね、それは。

佐知子:見えないところで誠司さんが動いてくれているみたいな気がします。たとえば私がちょっと困ったり、売上が悪くて落ち込んでいたりすると、次の日には神様みたいなお客さまが店に来られるんですよ。そして帰り際に「数年前に三浦さんにお世話になったんです」と言いはったりする。落ち込んだ次の日には、必ず神様が現れます。

誠司さんはね、夢でよく私に謝るんです。夢の中ではいつも私が怒っていて、誠司さんが謝っていて。日常でもよくそういうことはありました。家庭ではどちらかといえば私が優位で、誠司さんにはよく「そんなガミガミ怒らんといて」と言われました。一見、彼の方が強いイメージがありましたけれど、旦那さんとしてすごくよくできた人でした。

台湾へのトレイルトリップ。石川弘樹さん(左)、パタゴニアの八木康裕さん(中央)、三浦さん(右)


ーーいま三浦さんに代わって社長を務められているわけですよね。2店舗も切り盛りされていて、本当にすごいと思います。

佐知子:そう社長なんです、私(笑)。誠司さんはもともと自分のことを社長というのが嫌いで「俺は店長だ」と言っていました。常に現場にいる、という意味だと思うんですけど。なので、これからも「店長」はずっと誠司さんのままにしていこうと思っていて、私はいまも「スタッフサチコ」です。社長業は代わりにやってあげているくらいに思っています。それくらいの方が気が楽ですから。

お金のことも含めて苦手なことばかりで、自分でも本当によくやっているなと思います。いろんな人が助けてくれるんですね。それは店長がこれまで培ってきた信頼関係という基盤があるからだなと彼に感謝しています。

ーーお店もだんだん佐知子さんならではの色が生まれているように感じます。

佐知子:私は和歌山出身なんですけれど、近くに桃山町という町があり、”あら川の桃”というブランド桃が有名なんです。高校の友だちが桃農家をやっていて、その子の実家が大きな農家さんで自然栽培の野菜もつくっているので、月一回、店舗前でマルシェを開いています。健康に関わることで地域に何かできたらいいなと思って始めました。誠司さんもそういう価値観は一緒だったので、すぐに「いいよ」と言って好きにやらせてもらっていました。

最初は不定期でしたが、いまは第一土曜日が定例になっていて、もう5年以上続けています。肥料も農薬も使っていない野菜はエネルギーを蓄えているのか痛みにくく、ファンも多いので、ご近所さんもすごく楽しみにしてくれています。

ーー「落ちないピアス」を取り扱っておられるのもいいですね。

佐知子:ピアスは気持ちを持ち上げるのにすごくいいアイテムですよね。知人から紹介してもらい、取り扱うようになりました。スイスの時計技術を使っていて、キャッチが取れないつくりなので、走っていても落ちなくていいんです。

思いがけず走ることになった
100マイル「「BAMBI100」

ーー昨年は〝誰でも走りやすい100マイル” をコンセプトに掲げた「BAMBI100」(奈良県)で初100マイルに挑戦し、見事完走されました。

佐知子:すごくいい大会でした。主催者の一人であるトレイルランナーの土井陵さんは、女性に走ってもらいたいという想いがすごくあったらしくて。

完走者にはバックルがいただけることになっていたんです。レースは周回コースを4周走る形式で、私はエイドやペーサーなどたくさんの人にサポートしてもらったので、みんなに何かお礼がしたいと思って、これをつくってもらいました。BAMBIの完走バックルと同じデザインのアイシングクッキーです。

ーーすごく可愛いですね。

佐知子:ちょうどこのお店(インタビューでお邪魔したCAFE icoi)でつくってもらったんですよ。


ーー大切な方たちと一緒に走ったと伺っています。

佐知子:BAMBIはペーサーをつけることができると聞いたので、どうしても一緒に走りたいと思っていた大切な友人たちにペーサーを頼みました。同じ想いや苦しみを共有している大事な人たちです。みんな快く引き受けてくれて、素晴らしい時間を過ごすことができました。

BAMBIでは2周目まで一人で走って、3周目からペーサーがつけられるルールなんです。3周目は2人のペーサー、4周目は3人のペーサーにお願いしました。4人の友人がエイドでサポートしてくれて、ほかにもたくさんの仲間が応援に来てくれました。

ーーBAMBIじゃなかったら100マイルは走らなかったのでしょうか?

佐知子:私はもともと100マイルにまったく興味がなかったんです。実は誠司さんも100マイルレースには興味がなかったんですよ。UTMF第一回目と、亡くなる2年前にフィヨルドの絶景に憧れてノルウェーの100マイルレースに出場したのですが、完走はしていません。

私がなぜいままで100マイルに興味がなかったかというと、夜を越えるからなんです。私は夜ちゃんとお布団で寝たいタイプで、どんなに酔っていてもソファで寝るのも好きじゃないんです。だから寝ずに走るなんて、しんどいだけだと思っていました。

でもBAMBIはペーサーを1周につき3名つけることができる。それでどうしても一緒に走りたい人がいたので、走りました。

こんなに幸せな時間はなかった
もう一生100マイルは走らなくていい

ーー出場選手それぞれが走りたい理由を明確にして走るレースだそうですね。

佐知子:エントリーするときに、なぜ走りたいかを書くんです。出場者35名それぞれの理由は詳しく知らないんですけれど、みんな何か理由があってこのレースを選んでいる。ボランティアやスタッフの皆さんも、そうした出走者の想いを共有している感じが伝わってきて、とてもいい雰囲気でした。参加者同士も応援し合っていて。


ーー走っている間はどんなことを感じましたか?

佐知子:私は誠司さんを亡くしてからの2年間、本当にいろんな人に支えられたんですけど、それを体現したようなレースでした。とにかく幸せで幸せで、守られている感覚が半端なくて、幸福感がすごかったんです。いま思い出しても幸せな気落ちが溢れるくらい。

もちろん100マイルを走るのはしんどいですけど、走っていてこんなに幸せを感じることはもうないと思うくらい幸せでした。だからもう100マイルは一生走らなくていい。

自分だけの100マイルだったら、走りたいとは思わなかったんですけど、自分が走ることでみんなとゴールを目指せることに魅力を感じて走りました。みんなと繋がりを感じられたことが本当に幸せな経験でした。

このCAFE icoiさんもそうですけど、2年間いろんな人に支えてもらって、なんとかやってこられた。だからいつも感謝の気持ちがあります。

大切な仲間たちとのゴール

ーー温かい方たちに見守られていますね。

佐知子:ほんとうに。たとえばニューハレテーピングの社長・芥田晃志さんもそのお一人です。芥田さんとも長いお付き合いなので、本当なら芥田さんは葬儀に列席したいと思っていたはずなんです。でも芥田さんや他のメーカーの皆さんたちは、誠司さんが亡くなったとき、名古屋店に駆けつけてくれました。ちょうど名古屋店が移転オープンする直前で、お葬式よりもそっちを手伝わなければならないという感じで駆けつけてくださって。

ーー皆さんがお店の内装をお手伝いされているのを写真で拝見しました。

佐知子:石川さんも事故後すぐに大阪に駆けつけてくださって、3日くらいこちらに居てくださいました。そして家族だけの葬儀にすることをお知らせしたら、その足で名古屋店の移転準備を手伝ってくださったんです。ほんとうに今でも感謝しています。


長いお付き合いのパワースポーツ滝川次郎さん(中央)、ニューハレ芥田晃志さん(右)と

いつか、少しだけビールが飲める店に

ーー店舗経営はやることがたくさんありますね。商品セレクトや発注、実店舗での販売だけでなくオンラインショップやSNSのアップもありますし。

佐知子:だから全然回っていないんですよ。巻き込まれたなと思っています(笑)。人生って、不思議ですね。本当に何が起こるかわからないですよね。

ーーこれからのことを少し聞かせてください。

佐知子:あまり先のことを考えると不安にもなるんですけど。代わりにやってあげようかみたいな気持ちでいまはやっているので……。そうですね、自分は店が好きなので、できるだけ長く続けたいなと思う反面、年齢を重ねたら私自身が店に立つのはどうかなとも思っています。いつか人に譲るかもしれませんね、まだわかりませんけど。

ロマンティストだった三浦さんは作詞作曲も手がけた。写真は「僕らの道しるべ」という曲の譜面。「辛抱は辛さを抱いて信じる望み、心棒(しんぼう=心の棒)をたたいて前に進もう」と謳った


ーー確かにそういう選択肢もありますね。店舗の切り盛りはどなたかに任せるという。

佐知子:時代に合わせたこともやっていきたいと思いますし。店長もそんなことを話していました。「だんだん自分は走れなくなるから、そうしたら”YURENIKUI” を売って、店の奥のバーカウンターでクラフトビールが飲めるお店をやりたい」と昔から言っていました。

ーーすでに奥にバーカウンターとスペースがありますね(笑)。

佐知子:そうなんですよ(笑)。以前うちで働いていたスタッフがブリューワリーを始めて、いま瓶ビールを店で販売しているんです。私と一緒に店を切り盛りしている義弟のタケシさんもビールが大好きなので、タケシさんにビールを出してもらうお店もいいかなって。私は表に出ずに。

ーー「ランウォーク&ビア」になるわけですね?

佐知子:そう、ほんとそうです(笑)。そんなふうに形態を変えながらできることと、やりたいことをやっていけばいいのかなって。でもやっぱりランニングには携わっていたいので、ランニングとちょっとビールが飲めるような小さなお店。いろんな人が集える場所にしていきたいです。ちょっとギアがあって、ビールが飲めるようなお店になったらいいな。

・・・・・・・・・

佐知子さんとの対話はとても穏やかな時間だった。笑ったり泣いたりしながら、三浦さんとの思い出、そしてご自身のことをまっすぐに語ってくださった。

大阪からの帰り道、新幹線のなかで雨上がりの空のような清々しさを覚えた。それは佐知子さんが手渡してくださった力が、心の奥に広がってきたからだ。いまを真剣に生きるということ。それ以外に大切なことなんて、私たちにあるのだろうか。


■RUN-WALK Style
大阪市中央区森ノ宮中央1-3-1
HP=http://www.run-walk.jp
ONLINE SHOP=https://www.shop-rws.jp
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■Special thanks:
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大阪市中央区森ノ宮中央1丁目22-4
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写真提供:三浦佐知子
撮影:小川拓洋
インタビュー&文:千葉弓子