『山物語を紡ぐ人びと』vol.12〜 松本大さん(スカイランナー / ジャパン スカイランニング アソシエーション代表)
上田からスカイランニングを発信する
プロスカイランナーの松本大さんは競技生活と並行して、2013年に『ジャパン スカイランニング アソシエーション(以下JSA)』を立ち上げ、長野県上田市を拠点にスカイランニングの普及活動を行っている。5月3日(日)には、自らプロデュースした『上田バーティカルレース』(日本選手権)も開催。『スカイランナージャパンシリーズ』の盛り上げにも力を入れている。
31歳のいま、人生のすべてをスカイランニングの未来に注ぎ込む松本さんに、地元の里山を案内していただきながら、スカイランニングと上田の町への想いを聞いた。
山に囲まれ、トレーニング環境に恵まれた町
——-活動拠点として、上田を選んだのはなぜですか。
いろいろな理由があるのですが、ひとつは実家(群馬県吾妻郡嬬恋村)に近いことが挙げられます。車で40分くらいの距離なんです。上田市とは生活圏が重なっているので、子どもの頃は週末になると家族で買い物に来て、ご飯を食べていました。だからこの町は、生まれ故郷から峠をひとつ下りてきただけという感覚です。
嬬恋は人口が1万人ほどですが、上田市は15万人もいる。それだけ、アウトドアが好きな人たちも多いのです。バックカントリースキーやマウンテンバイク、マラソン、スノーシューとか。
スカイランニングを広める場として、交通の便もいい。東京から新幹線で1時間30分、インターチェンジもあるし、首都圏の人も訪れやすい場所です。
今年から上田でいくつかの新しい大会やイベントを主催します。以前は嬬恋村で小さなイベントを実施していました。この町での大会も、いきなり大きな打ち上げ花火を上げるのではなく、草の根的にじわじわと盛り上げていこうと思っています。線香花火みたいにね(笑)。この場所なら、スカイランニングというスポーツが突き抜けた存在になれるという可能性を感じています。
練習する山もいくらでもあるので、トレーニング環境としても恵まれています。日頃はあちこちの山に、気の向くままに出かけていきます。このあたりの里山はテクニカル。一番好きなのは激坂のある虚空蔵山ですね。暑くなってきたら烏帽子岳へも行きます。
あと、階段練習も好きです。この階段(下の写真)は市民にもあまり知られていない場所で、507段あり、結構いい練習になります。月に一回は来ていますね。垂直方向=スカイランニングなので、階段を使った練習もレースもありなんです。
——-(スイスイと上っていく松本さん)膝押しはしないのですね?
そうですね、しません。それよりも骨盤で上る感じかな。足のつけ根をしっかり折って、お尻の筋肉や体幹をつかうといいですよ。
僕の尊敬する宮原徹さん(スカイランナーワールドシリーズで日本人唯一の優勝者)も大きなステップで山を登るんです。本当にすごい登りなんですよ。ピッチ走法のように小さくステップを刻む登り方もありますが、僕は大きな動きでも疲れずに速く登れる方法を追求しています。これはヨーロッパのスカイランナーを見て覚えたこと。細かなフォームはトレーナーさんに見てもらっています。
日本は練習方法ひとつとっても、固定観念にとらわれている気がします。ヨーロッパのトップ選手から学んだことを、講習会などを通してみなさんに伝えていくのも僕の役割かなと考えています。
いま、日本選手のレベルがどんどん上がっていますよね。でもそれ以上にヨーロッパの水準も上がっているので、差が縮まらない。頑張らなくてはいけません。
——-ヨーロッパでもスカイランニングの競技人口は増えていますか。
ちょっとしたブームが起きています。ヨーロッパでは、スカイランニングやマウンテンランニングが20年ほど前から競技として存在していました。そういった歴史がある中で、近年になって急速に競技人口が増えたことで、一気にレベルが上がった気がします。
日本にも富士登山競走など歴史ある大会があります。でもまだまだ、それを支える体制が弱いのかなと感じますね。
登山の世界では1970年代にラインホルトメスナーがアルパインスタイルを確立しました。8000mの山に挑むアルパインスタイルの標高を低くして、一般化したのがスカイランニングだと思うのです。ドロミテも富士登山競走も、登って下りるというシンプルなスタイル。登山最速記録を狙うというのがスカイランニングの原点だとすれば、日本にも土壌はあるわけです。
日本人選手がヨーロッパで戦うと、必ずみんなボロボロになって悔しい思いをします。誰もが絶対にそういう経験をする。世界と日本の差を縮めて、オールジャパンで世界に挑むためには、日本でもスカイランニングのフォーマットをつくる必要があると考えています。
世界と戦うための組織づくり
——-スカイランニングとの出会いはいつですか。
スカイランニングという言葉を知ったのは、2006年のこと。第一回『おんたけスカイレース』に出場したのですが、これがスカイランナーワールドシリーズのひとつでした。世界から強い選手が出場していて、日本のレースとは全く次元が違うことを実感しました。
ちょうどこの頃からトレイルランニングという言葉も広まっていくのですが、自分はずっと 「スカイランナーです」と言い続けています。走ることはあまり好きではなくて、山登りが好きだから(笑)。
ヨーロッパにおけるスカイランニングは、いわば “メジャーリーグ” のような存在。日本ではウルトラトレイルの愛好者が多いですが、ヨーロッパではスカイランニングの方が選手層は厚い。40kmを4時間程度で走るレースの場合、トップ選手はわずか10秒差を争ってゴールしてきます。
日本ではまだまだスカイランニングの認知度は低い。本当は自分で組織をつくるつもりはなかったのですが、2006年から世界で戦い始めて、ひとりじゃダメだと気づいたのです。ほかの国の選手たちはみんなチームがあり、エイドにはサポート隊が待機していてピットインみたいに機能している。
たとえばスペインのカタルーニャチームにはコーチがいて、選手ごとに異なる補給メニューが用意されています。それに比べて、僕はエイドに置いてあるものしか食べられない。明らかに戦い方に差があるわけです。これではアスリートとして勝てない、上に上がれない。
誰も組織をつくらないなら自分でつくるしかない、そう思って、2013年にJSAを立ち上げました。
育ちつつある TEAM JAPAN
——-JSAの会員数はいま、どれくらいなのでしょう。
世界レベルで戦えるアスリートを集めたSチームを筆頭に、世界レース出場を目指すAチームから初中級チーム、ファンランチーム、ジュニア、サポーターまで合わせて6カテゴリーあります。全部合わせて400名ほどです。
本当にスカイランニングを理解してくれて、応援してくれる人たちで ”TEAM JAPAN“ をつくっていきたい。イタリアではワインをガブガブ飲んでいるような普通のおじさんも週末になるとスカイレースに出場して、ガンガン登っています。そんな文化が日本でもつくれたらなと思います。
山間部の夏場のスポーツとして、スカイランニングを地域に根づかせたいという想いがあります。子どもたちに「スカイランニングって格好いいな」と思ってもらいたい。スキーのように、山のある地域に育った子どもたちが青春をかけて挑めるようなスポーツに育てたいのです。だからこそ、僕らが頑張らなくてはいけない。
アウトドアスポーツのひとつとして、もっと成長させたいですね。冬はスキー、夏は山登りやクライミング、マウンテンバイクを楽しむように、アウトドアスポーツの一つとしてスカイランニングが存在していければと思っています。だから、スカイランニングでトレイルランニング界を制覇しようなんて気持ちは、全然ないですよ(笑)。
いつかはプロになると決めていた
——-プロになる前は小学校の先生をされていましたが、辞めることに抵抗はありませんでしたか。
もともと、いつかはプロになろうと考えていました。国体の山岳競技で知り合った師匠の鏑木毅さんと、2006年の『スカイレース アンドラ』に出場し、世界のトップ選手の走りを目の当たりにしました。その時、「絶対にこの道に進もう」と決めたのです。
当時はまだ群馬大学大学院の学生だったので、貯金もゼロ。将来が未知数のプロアスリート生活をスタートするにはあまりにリスクが大きかったので、まずは先生になって社会勉強を積んで、ある程度、お金が貯まったらプロになろうと考えました。
本当は今年まで先生を続けるはずだったのですが、ちょっと予定が変わってしまって、受け持っていた子どもたちが6年生で卒業するのと同時に、僕も先生を卒業してしまいました(笑)。
何よりありがたいなと思うのは、両親が反対しなかったことですね。いまもすごく応援してくれています。
スカイランニング不遇の時代
——-松本さんの活動を拝見していると、トップアスリートにも関わらず、ご自身の挑戦だけでなく次世代のことやチームジャパンとしての仲間の後押しなどにも力を入れていらっしゃる。そのエネルギーがすごいなと思います。
日本でウルトラトレイルの人気が出始めた頃、スカイランニングは本当に不遇の時代でした。3年くらい前までは僕や宮原さんが世界で結果を出しても、メディアに全く注目されなかった。ヨーロッパではスカイランニングが主流で選手層も厚いのに、なぜ日本では話題にならないのだろうと嘆きましたね。その頃の想いが、いまの原動力になっている気がします。
もちろんウルトラトレイルの世界観をつくっている方々は、とてもリスペクトしています。ものすごいパワーだと思います。でもそれとは別な形で、僕らはスカイランニングをスポーツとして突出させたいと考えているんです。
ヨーロッパにはマウンテンランニング、スカイランニング、トレイルランニングとレースのカテゴリーがいろいろあって、走る人は自分に合ったスタイルを選べます。それぞれのカテゴリーで頑張るアスリートたちは、相互にリスペクトしています。
一方、日本では30km走れたら50km、その次は100kmと距離を伸ばしていく傾向がありますよね。でもそろそろ、それぞれのカテゴリーで頑張っているアスリートが尊重される空気が芽生え始めたかなという気がしています。やっとスカイランニングが正統に評価してもらえる時代が訪れた気がします。
僕にはスカイランニングをもっと盛り上げて、これまで注目を浴びなかった実力あるアスリートたちが輝ける場をつくっていくという目標があります。
——-わたしたち編集部も、山を走る文化のひとつとしてスカイランニングを応援していきたいと思っています。
ありがとうございます。このスポーツはやり方次第で、野球やサッカーみたいに子どもたちが憧れるスポーツに発展できると考えています。参加者も応援の人もスカイランニングを目的に上田を訪れる、そんな文化がつくれたらいいですね。
——-日本国内で、スカイランニングのワールドシリーズが開催できそうなポテンシャルを持つトレイルはありますか?
たくさんあると思います。日本のトレイルは基本的にスカイランニング向きです。とはいうものの、2006年に『おんたけスカイレース』がスカイランナーワールドシリーズの一戦になった頃といまとでは状況が異なります。この数年で世界のスカイランニングはブランド化し、簡単に誘致できなくなっています。
具体的なことを言えば資金面ですね。たとえば2月に香港で開催されたアジア選手権では、運営に2,000万円かかっています。それ以外にもメディアへの対応や招待ランナーの交通費、宿泊費が必要です。選手とメディアで50〜60名いますから、その費用を用意できるかどうか。
おそらくアウトドアブランドだけのサポートでは難しいでしょう。香港の場合は大手銀行や大手スーパー、流通系企業など20社ほどが支援していました。日本でそれができるかどうかです。
地域の人びとが燃える大会をつくりたい
——-大会づくりについては、どんなビジョンを持っていますか。
僕が目指しているのは、地域が燃える大会です。たとえばイタリアのスカイランニングレースを見ると、地元の人たちが本当にワクワクしながら開催を待ち望んでいる。5月17日にスペインのゼガマでヨーロッパ選手権が開催されるのですが、この村は人口がわずか2,000人ほど。それでも大会期間中は何倍もの観客が押し寄せます。みんなキリアン・ジョルネの大ファンで、ものすごく盛り上がります。
参加者は400名くらいなのですが、エリート枠のほかに毎回出場している地元選手も多くて、一般の新規参加者の募集は250名程度。そこに応募が殺到して38倍くらいの競争率になるんです。なかなか出られない人気レースなわけですよ。日本でも、そんな大会ができたらいいですね。
鏑木さんがつくった地層に、僕が次の層を重ねていく
——-ジュニアの育成にも力を入れていらっしゃいますね。
短い距離のレースなら子どもたちも出場できます。長い距離だとどうしてもエントリーフィーが高くなる。高いエントリーフィーでは、子どもは出られないわけです。だから、僕が主催する大会は短い距離がメイン。もちろん参加者数が減ったら町にとって開催する意味がなくなってしまいますから、そのあたりのバランスは大事にしています。
僕はこれまで、たくさんの人にお世話になってきました。恩返ししなくてはならない人がたくさんいるのです。その一人が鏑木さんです。いつか鏑木さんがこう話してくれたことがありました。「自分が見られなかった世界を、松本には見てもらいたい」と。この言葉は本当に嬉しかった。
生まれた時代の違いや、15歳という年の差によって、鏑木さんが見たくても見られなかった世界というものがあると思う。僕自身も、たとえばテニスの錦織圭選手みたいに小さな頃から海外で戦うというような世界は見ることができなかった。だからこそ、鏑木さんがつくってくれた地層の上に、僕が次の世代のために新しい地層を重ねる。それが役目だと思っています。
「自分さえよければいい」という思いは、全くありません。次の世代のアスリートたちが挑みやすい環境を整えてあげることが、アスリートである自分の役割だから。
おそらくいまの小中学生くらいが成長して、世界に羽ばたいていく世代になるでしょう。新潟の松永紘明さんや長野の山田琢也さんといったトレイルランナーたちも、かなり前から子どもたちの育成に力を入れています。いま実際にそういった活動をしているのは30歳代ですよね。僕らの世代が、基礎をつくる世代なのかなと思っています。
僕には明るい未来がなんとなく見えているんですよ。
——-アスリートとして勢いのある時期に、自分の競技生活以外の活動にも視野を広げていらっしゃる。そこに共感している方々は多いと思います。
いまの自分に影響を与えてくれたのは、鏑木さんのほかにもう一人いるんです。僕の父です。父も昔は富士登山競走に出るような市民ランナーで、地元の子どもたちにずっとクロスカントリースキーを教えていました。もともと父もプレイヤーだったわけですが、自分が楽しいと思ったことを子どもたちにも伝えたいという想いが根底にあったのだと思います。
僕はそんな父の背中を小さい頃から見ていた。
スポーツの喜びというのは、自分だけの楽しみで50%、自分も楽しくてさらにそれをみんなに伝えることで50%のような気がするのです。人に楽しみを伝えて共有すること、それがスポーツの本当の喜びなのかなというのが、父を見ていて自分なりに辿り着いた結論です。
だからいまの活動は自分にとって当たり前のこと。決して特別なことではないし、名前を残そうと思って行っているわけでもない。ごく当たり前に、この時代に生まれた当然の役割としてやっているだけなんですよ。
ほかの人がやらないから自分がやっている、という部分もあります。そういう意味では、父にすごく感謝しています。
アスリートという安定していない仕事をしていても、父は全く反対しません。どんどんやれと応援してくれる。いつまでも親って、少し上から見守っていてくれる存在なんですよね。
アスリートの姿としては鏑木さん、次の世代のことを考えるという意味では父親から学んだ。この二人の想いを受け継いで、いまの自分があると思っています。
——-以前うかがったお話(※昨年のトークイベント)では、松本さんが子どもの頃、お父さまは山に一緒に登ると必ず最初に松本さんに頂上を踏ませてくださったそうですね。
そう、頂上はいつも僕が先に踏んでいました。一番であることが、本当に嬉しくて。僕も子どもができたら、そんな親父になりたいですね。熱い麦茶とゆで卵と大きなおにぎりを持って、子どもと山に登る日が来たらいいなと思います。まあ、この分だと40歳代になってからかな(笑)。
山は隔てるものではなく、町と町をつなぐもの
——-嬬恋については、どんな想いを抱いておられますか。
上田はこのエリアの玄関口。だからここに人を集めれば、嬬恋村へも橋渡しができると思っています。
県境はたいてい山にありますけれど、山って地域と地域を結ぶものだと思うのです。山を使えば少し遠くの地域でも簡単に行ける。そういう意味では、ここから嬬恋村に人を連れていくこともできるわけですよ。
山に囲まれた盆地に暮らしているとどうしても“山は隔てるもの”というイメージがありますけれど、本当は山で繋がっている。山が町と町、人と人を繋いでいるんです。
——-かつては山道が唯一の物資を運ぶルートであり、山に入れる人だけが遠い町まで行ける時代もありました。
僕の実家はもともと林業を営んでいました。鉄道や車がなかった時代、善光寺と江戸を結ぶ最短ルートは、上田の町ではなくて山の中にあったそうです。僕にはきっと山で暮らしてきた人びとのDNAが刻まれているんでしょうね。
——-スカイランニングを広めること、その先の夢は?
スカイランニングの普及は僕にとってあくまでプロセスです。その先には、ここ上田の町をアウトドアの首都にしたいという大きな夢があります。
【profile】
松本大さん
1983年、群馬県吾妻郡嬬恋村生まれ。
お父さまに連れられて3歳から山登りやスキーを始める。小学校と中学校ではクロスカントリースキー部に所属。群馬県立前橋高等学校では山岳部に所属し、国体に出場する。その後、群馬大学教育学部に進学。この頃、師匠である鏑木毅さんと出会い、日本各地の山で練習を始める。群馬大学大学院に進み、スカイランナーワールドシリーズで日本人初の入賞を果たす。群馬県内にて小学校の教員を4年間勤め、2012年3月に退職してプロのスカイランナーに。2013年『ジャパンスカイランニングアソシエーション(JSA)』を自らの手で立ち上げ、以後、国内におけるスカイランニングの普及とジャパンチームの発展に尽力する。
主な戦績は、2013年 スカイランナー・アジアシリーズ・チャンピオン、2014年 富士登山競走2連覇、スカイランナー・ジャパンシリーズ総合優勝、スカイランナー・アジアシリーズで二連覇を達成。2015年2月、香港にてスカイランニング・アジア選手権優勝。
上田バーティカルレース(太郎山登山競走)
http://skyrunning.jimdo.com
ジャパン スカイランニング アソシエーション
http://skyrunning.jp/index.html
place:UEDA,NAGANO
photograph:Takuhiro OGAWA
special thanks to Sho FUJIMAKI