山物語を紡ぐ人びとvol.29〜上田瑠偉さん #02「 佐久長聖高校で培ったメンタル」

 

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朋友・両角駿さんが語る佐久長聖時代

今年10月、イタリアで開催された『スカイランナーワールドシリーズ』の最終戦で優勝し、日本人で初めてスカイランニング世界チャンピオンに輝いた上田瑠偉。現在26歳の上田の強さは、何によって育まれたのだろうか。

前回の「#01故郷大町。親子で大会をつくるということ」では、父・智夫さんが主催するローカルレース『鷹狩山トレイルランニングレース』を取材し、ご家族から少年時代の話を伺った。

そのなかで、どうしても像を結び切れなかったのが、高校時代の上田の姿だ。 

「腸脛靱帯、前脛骨筋の炎症、両足の疲労骨折、貧血……。とにかく怪我ばかりで、ほとんど大会には出場できませんでした。もちろん、中学時代の成績を上回ることも」(上田)

入学直後から怪我に悩まされ、3年間、競技らしい競技ができなかった。寮生活をしていた上田は、年に1〜2度の帰省でも家族に弱音を吐かなかったという。母・あずささんは「その頃の瑠偉の気持ちを思うと、辛くなります」とつぶやいた。

希望を胸に進学した駅伝の名門・佐久長聖高校で直面したジレンマと大きな挫折。不思議に感じたのは、そんな状況でも上田がチーム内でリーダーの役割を担っていたことだ。1年次は学年責任者、2年次は副キャプテン、3年次には駅伝部のキャプテンを務めた。 

陸上の強豪校で、競技の成績を出せないままにキャプテンの役割を担うということ。その厳しさや心情を容易に推し量ることは、到底できない。

ただおそらくこの時代に、上田は何かを感受し、将来の礎となる力を蓄えたはずだ。 

そこで、チームメイトだった両角駿さんにお会いすることにした。二人はいまでも連絡を取り合う仲だ。

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ともに長野県出身。中学時代のライバル

現在、両角駿さんは東海大学付属相模高校で陸上競技部長距離ブロック顧問を務めている。東海大学大学院ではスポーツの研究者を志していたが、その後、指導者として若手の育成に取り組むことを決めた。 

二人が佐久長聖に入学した当時、駅伝部の監督を務めていたのは、駿さんの父親である両角速さんだ(現・東海大学陸上競技部駅伝監督)。そして3年次からは、現監督の高見澤勝さんに指導を受ける。

駅伝部の生徒たちは「聖徳館」という寮で寝食を共にする。“密度の濃い”3年間だったに違いない。

 

ーーー両角さんと上田さんとの出会いはいつのことですか?

両角:中学1年、『全日本中学通信陸上競技会』でした。僕はいきなり彼に負けたんです。上田が2位、僕は4位くらいでした。彼は当時から体ががっしりしていて、イノシシのように走る奴だなと思いました。中学時代はライバルで、3年生のときには全国都道府県対抗男子駅伝競走大会に長野県代表として一緒に出場しました。彼が6区で、僕が2区。佐藤悠基さん、村澤明伸さんと襷をつなぎ、長野県が優勝した年(2009年)です。

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中学3年、長野県代表として出場した「全国都道府県対抗男子駅伝」での上田。写真が趣味だった祖父・平瀬貴志さんが撮影し、カレンダーに仕立てた。いまも祖母宅に大切に飾られている
 

ーーー輝かしい成績を胸に、お二人は佐久長聖高校に進学されたわけですね。駅伝部はどのような日常なのでしょう。

両角:練習と寮と学校の3つしかないという生活でした。僕らが1年生の頃には、大迫傑さんが3年生で在籍していました。全員丸坊主で、チーム内の上下関係は厳しかったですね。その頃は“1年生ルール”というのがあって、自販機でジュースを買うことも許されなかったんです。当然、コンビニの寄り道もダメで、外出は月一回、近くのスーパーにシャンプーや洗剤を買いに行くときくらいでした。

朝4時台か5時台に起きて、朝練、朝食、共用スペースの清掃を行います。清掃はとくに重要視していて、一日2回ありました。掃除を徹底するのも健康を考えてのことです。一日のスケジュールがかなりタイトでしたから、歯も急いで磨いかなければいけない。授業の準備も前日にしておかないと、間に合わないような暮らしでした。

携帯も禁止されていて、家族との連絡は寮にある電話だけ。外部の情報はほとんど入ってこなかったのですが、ライバル校の大会結果が張り出されるとモチベーションが上がりましたね。テレビは食堂に1台あって、ご飯を食べるときに見るくらい。でも1年生の席は振り返らないと見えない場所なので、実質見られないんです(笑)。食事は栄養バランスがよく考えられていて一日4000〜5000kcal程度あるため、故障者はお米を抜くなどして体重が増えないように調整していました。 

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_D4_1212上田が長年記している「生活・練習日誌」。高校時代の日誌には一日のスケジュールや練習メニュー、体調の記録、その日の感想などが几帳面に記されている。ときおり、両角監督や高見澤コーチからの返信コメントも見える

 

日常も時間にシビアでなければ勝てない

ーーーほとんどチームメイトと一緒という生活ですね。

両角:そうですね。寮には高見澤コーチ(のちに監督)も住んでおられたので、練習以外の時間も緊張感がありました。意識の高い選手たちは、寮の学食でお昼ご飯を食べた後、昼休みに体育館で腹筋や背筋などの補強をするんです。30人中10人くらいが行っていて、僕も上田もやっていました。

ーーーストイックですね。

両角:僕らは監督からこう言われていたんです。「100分の1秒まで争う競技をしているのだから、時間にシビアでなければいけない。日常も同じで、そこがおろそかになっていると、レースでも1秒、2秒を大切にできない」と。生活すべてが走るための時間でした。それくらい厳しかったものですから、寮から脱走する生徒や部を辞める生徒もいました。

ーーー上田さんは怪我が多かったとか。両角さんは、どのように見ておられましたか?

両角:上田は入学してすぐに故障してしまい、うまくスタートが切れず、それを3年間引きずってしまったように思います。佐久長聖に入学してくる選手はかなりレベルが高いので、1〜2ヶ月出遅れてしまうと焦りが募ります。置いていかれないように、多少足が痛くても無理して練習していたのではないかと思うんです。

_D4_1202佐久長聖時代の写真。集合写真には両角駿さんの姿も

 

最後の都大路での涙

両角さんはチームのエースだった。高校1年のとき国体の3000mで2位を記録。同年の都大路では7区のアンカーを走って区間2位となり、佐久長聖高校は全国4位になる。1年生で出場したのは両角さんだけで、そのとき付き添い役をしてくれたのが上田だったという。

その後、両角さんは大迫傑選手とともに『世界クロスカントリー選手権大会』に日本代表として選ばれ、出場を果たす。しかし練習中に怪我をしてしまい、2年次のシーズンをほぼ棒に振ってしまう。

 

ーーー両角さんご自身も怪我で辛い想いを経験されたと。

両角:僕も3年間のうち半分は故障していました。怪我を繰り返していた3年の秋、都大路に向けた県駅伝で思いのほか調子がよく、つい無理をしてしまい、大腿骨骨折という大怪我をしてしまいます。その結果、高校最後の都大路には出場できず、チームは歴代最下位の21位に終わりました。 

エースとして自分自身も悔しかったですし、チームにも本当に申し訳なかったという想いがいまでもあります。上田は出場できなかったのですが、それでもキャプテンとして、チームを一生懸命取りまとめていました。 

中学で上田と競い合っていたときには、一緒に強くなっていくんだろうなと思っていたんです。でも上田は3年間ほぼ故障していましたし、僕も最後に大きな怪我をしてしまった。なかなか上手くいかなかったですね。 

 

【佐久長聖高校3年 上田瑠偉ー生活・練習日誌 】
平成23年12月25日(日)晴れのち曇り
第62回全国高校駅伝

Small Win……最高のサポートをした
Small loss……それでも足りなかった
Condition……

この3年間の全てをサポートでも出し尽くした。しかし、それでも入賞に遠く及ばず、それどころか21位という過去最低の結果となってしまった。はるばる京都まで応援に駆けつけて下さった方々、自分たちの活躍を期待していて下さった方々にとても申しわけなく思う。そして、先輩方が築いて下さった伝統をも崩してしまった。だが、これが今年のチームの力の全てであったと思う。

どんな言葉を述べても悔しさは尽きない。やはり高見澤先生がおっしゃったように前を向いて未来に向けて前進していくしかない。今回感じた悔しさ、責任は決して忘れられないし、消えないであろう。これらを背負って今後生きていかなくてはならない。そしてこの悔しさ、責任をはねのけ成長することで、今日が意味のあるものになるはずだ。

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 上田の生まれ故郷、長野県大町の夜。北アルプスに囲まれたこの地は、いまも上田にとって大切な場所だ

 

故障者はチームの世話係を 

ーーー競技で結果が出せないなか、リーダーやキャプテンを務めるのには強いメンタルが必要ではないかと思うのですが。

両角:本当にそう思います。陸上競技は走れているから結果が出せるものです。これだけ厳しい生活をしていて、競技で結果が出せないというのは相当辛かったと思いますね。それにも関わらず3年間、耐え抜いたという精神的な強さが、いまの上田の成功に繋がっているように思います。 

彼は僕よりもずっときつい3年間だったはずなんです。チームでは弱音を吐くことも許されなかったですから。僕から見ても、上田は追い込めるタイプでしたので、追い込み過ぎて怪我を繰り返してしまったのかもしれません。

それに上田はリーダーとして、チームの責任を背負いこんでいたところがありました。勉強も優秀で、クラスで1番だったんです。駅伝部で勉強する時間が限られるなかでの1番。それで早稲田大学の指定校推薦をもらいました。

自分にも仲間にも厳しく、生活や競技の面で、下級生にも同級生にも言わなければいけないことはきちんと言うという姿勢が、リーダーに向いていたのだと思いますね。キャプテンはミーティングや合宿など、みんなの前で話す機会が多いので、しっかり意見を述べる能力も求められます。

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ーーーチームメイトが練習している時間、故障している選手はどんなことをしているのですか?

両角:夏はグラウンドの草取りです。クロスカントリーコースがあって、そこは雨が降ると川のように路面が荒れてしまうので、それをトンボで直します。冬は雪かきです。 

もちろん、グラウンド整備をみんなで行う日もあります。でも基本は、故障者が先に行ってやる。こうした雑用的なことをいろいろとやらされるんです。僕も結構やりましたけれど、やはり精神的にはキツイものです。 

ーーー走れている選手と故障している選手で、気を遣い合うことはないのでしょうか。

両角:多少ギクシャクするというか、駅伝はチーム競技ですから、「故障者がいると士気が下がる」といったムードは確かにありました。だからこそ、チームとしてもなるべく故障者を減らしたい。僕らが2年の頃から練習量が減り、故障者に対して「頑張れ」と励ます空気があったと思います。 

寮生活も含めて、僕らほど苦しい生活を送っている高校生は全国にいないという自負がありましたので、「大会に行ったら絶対に負けない!」と全員が思っていました。修行僧のような生活でした。 

ーーー佐久長聖ではエースとキャプテンは常に別なのですか。

両角:そうですね。エースとキャプテンは別がいいという考え方でした。歴代のエース、たとえば大迫さんも村澤さんもキャプテンではなかったです。佐久長聖のエースというのは全国でもトップに立つので、競技に集中するのがいいというスタンスです。いまもそうだと思います。

ーーー上田さんについて、印象に残っているエピソードはありますか?

両角:上田との思い出でよく覚えているのは、平尾山という山を4時間から10時間かけて歩く練習のこと。乳酸がパーッと出るような急坂をグルグル歩き続ける持久練習です。とてつもなくきついコースなんですけれど、彼は強かったですね。やはり、山に向いていたんですね。実は一緒に練習した記憶はそれくらいしかないんです。彼はほとんど故障していましたので。

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上田は類い希な「嗅覚」を持っている

ーーー上田さんはどんな選手だと思いますか?

両角:上田には嗅覚があります。佐久長聖では怪我で泣かされたけれど、その後、トレイルランに出合った。それは嗅覚があるからです。

高校時代も、怪我を繰り返していたにも関わらず悲愴感はなくて、その状況の中で何かを探すという姿勢を感じました。いろいろなところに治療に行ったり、本を読んで勉強したり。

佐久長聖は突きぬけたチームで、中途半端じゃない人が多いんですよ。フィジカルだけではなくて、考え方も。だから上田が、早稲田大学の陸上同好会仲間と『柴又100K』(上田が10代最後の記念に初挑戦した100kmのロードマラソン)を走ろうと思ったのも、そんなところにあるのかなと思います。山に強い、持久力がある、走り込みが好きというすべての要素が、いまのトレイルランでの活躍に繋がっていったように感じます。

ーーー両角さんご自身にとって、佐久長聖はどのような場所でしたか。 

両角:父が佐久長聖の駅伝部の基礎をつくったのですが、徹底管理というか、とても厳しい学校でした。非常に目標が高く、細部までこだわって追求していくんです。「ここまでやるんだ」という高い目標と、それに向かう粘り強い姿勢を学んだ気がします。それはいまの仕事にも活きています。 

きついこと、人が嫌だと思うことを高校時代にたっぷりとやってきたので、他の人が苦しいと思うことでも「それくらいならできるよ」と感じるんです。佐久長聖の生徒は、みんなそうじゃないですかね。いまだにそんなことを、上田や同級生たちと話すことがあります。 

社会に出ると、みんながみんな佐久長聖マインドではないことに気づかされますね。当たり前なんですけれど(笑)。上田も大学でいろいろな仲間と出会って、心がリフレッシュして、走ることを純粋に愉しめるようになったんじゃないでしょうか。もちろん、僕の勝手な想像ですけれどね(笑)。

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ーーー両角さんはなぜ指導者の道を選んだのですか。

両角:怪我が原因で大学2年で陸上を引退し、しばらくはやりたいことが見つかりませんでした。それで『ハセツネ30K』に出場したりもしたんです。トレイルランについて何の予備知識もなく走ったので、なかなか大変な目に遭いましたけれど(笑)。

そんなとき大学の先生が「スポーツは自分がするだけじゃない。見る、する、研究する、支えるがある」と言ってくださって、大学院への進学を勧めてくれました。当初は研究者を志していたのですが、大学院3年のときに、自分は指導者の方が向いているんじゃないかと思ったのです。ちょうど大学院を修了するタイミングで附属高校の指導枠に空きがあり、いまの仕事に就きました。 

ーーー「スポーツはやるだけじゃない」というのはいい言葉ですね。上田さんが選んだ道を、両角さんはどのように捉えておられますか。

両角:上田はとても頭がいい。考えながら進む人間です。闇雲に突き進むのではなくて、ちゃんとビジョンを持って、先を見据えて行動している。だから、上田は一生この道で食べていけると僕は思っています。 

陸上はサッカーや野球などのチームスポーツと違って、ある意味、「静かな情熱」のスポーツなんです。すぐには結果が出なくても、淡々と目標に向かって進める人が向いている。ものごとを突き詰めて、レイコンマ何秒を削っていくところに妙味があります。だから競技を追求すればするほど、他人ではなくて、自分にベクトルが向いていく。 

山の世界も、そういうものじゃないですか? 僕も高校時代によく山を走りましたが、山はいいですね。本能的なものが刺激される。目に見えないエネルギーが充満していく気がします。

 

【佐久長聖高校3年 上田瑠偉 ー生活・練習日誌】
平成23年11月25日(金)晴れ

これまで故障が多くて不完全燃焼だったというのは、故障を言い訳にしているだけ。いろいろな場面でもっと自分を追い込めたはず、と今さら後悔しても遅い。過去を悔やんでもしようがない。今、そして未来をいかにして生きるか。もっともっと死にもの狂いで一心不乱になる必要がある。

たまに「一生懸命とは何か」と思うときがある。確かにその時点においては必死にやっていたのだけれど、終わってから思い返すと「まだまだ足りない。もっと追い込めたはずだ」という気持ちになる。一生懸命や必死といった強い言葉は、確かにその時点ではあてはまるのかもしれないが、終えてしまえば、ただその言葉が虚しく響く。

目標と現実は重ならない。目標を達成するためにとことんやれているか。もう一度、問い直していくべきだ。

本日、早稲田大学の合格通知が届いた。これからが始まりである。佐久長聖の代表として進学するわけだから、それに恥じない取り組みをし、プレッシャーを力に代えていきたい。 

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丁寧に言葉を選んで綴られている、高校時代の上田の「生活・練習日誌」。そこには、自らの怪我と向き合いながら、キャプテンとしてチームのために力を尽くしたいと懸命に模索する姿が映し出されていた。

そして両角駿さんの話から、二人がかつて同じ高みを目指した同志であり、いまなおリスペクトしあう間柄であることが伝わってきた。

両角さんがいう上田の“嗅覚” 。それが、これから先の彼を新たな道へと導いていくことになる。

〈続く……〉

 Photo:Sho Fujimaki
Text&Interview:Yumiko Chiba

※スカイランナーワールドシリーズ優勝について、NumberWeb(文藝春秋)に記事をまとめています。併せてご高覧ください。

●上田瑠偉、「12秒差」の逆転劇。スカイランニング世界王者の誕生。
https://number.bunshun.jp/articles/-/841425
●山岳レースをラグビーのように。世界王者・上田瑠偉が描く未来図。
https://number.bunshun.jp/articles/-/841426