久保信人さんのUTMB 、20年憧れた欧州の舞台で見たもの

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トレイルランやスカイランニングの海外レースツアーを企画する「フィールズ・オン・アース」で、選手をサポートし続けている久保信人さん。2017年の「山物語を紡ぐ人びと vol.24」では、自転車競技に人生をかけていた10代から30代までのお話を伺った。世界最高峰の自転車ロードレース「ツール・ド・フランス」への出場を目指していたものの、指導するチームはあとわずかというところで手が届かず終わった。そして、自転車競技の世界を離れる。自らのアイデンティティを失い、絶望の日々を過ごしていたときに出合ったのがトレイルランだ。「僕はトレイルランに生かされた」と久保さんは言う。

自転車競技の時代に夢見ていたヨーロッパの舞台。その夢が、トレイルランに姿を変えて、この夏に叶った。長年夢見てきたスタートラインに立ち、久保さんは何を感じたのだろう。

UTMBに向けて、坂を繋げた30kmで練習

ーーー昨年のインタビュー直後に「グランレイド・レユニオン」で初100マイルを完走されました。今回のUTMBは3回目の100マイルレースと伺っています。自転車競技時代から、フランスの山で開催されるレースには並々ならぬ想いがあったそうですね。 

久保:実業団で「ツール・ド・フランス」を目指していました。選手としては遠く及ばなかったものの、チーム指導者やスタッフとしてはあともうひと息というところまで行きました。でも結局、辿り着かずに挫折したので、世界最高峰のレースに出場することへの思い入れがすごくあったんです。でも、まさか自分の足でヨーロッパの山を走ることになるとは思ってもいませんでしたね。スタートラインに立ったときは、感無量でした。

ーーーUTMBにはどんなトレーニングをして臨んだのですか?

久保:海外出張が多く、走る時間が少なかったので、レース前に二度、南アルプスに行きました。南アルプスの麓にある赤沢宿に泊まって、白峰三山に登りました。ちょうどレースの4週間前と3週間前です。白峰三山はいちばん好きな山なんです。おそらく、日本で稜線として走れるいちばん高い山じゃないかと思います。富士山は独立峰なので、おはち巡りしか出来ないですけど、北岳、間ノ岳、農鳥岳の白峰三山はずっと走り続けられる長い稜線です。UTMBのコースは路面が固くて下りが長いので、下りが走れるような足づくりを意識しました。

———平日はどんな練習を?

久保:家の周りの急坂を組み合わせた30kmほどのコースがあって、「レユニオンロード」と名づけています。初100マイルのレユニオン前にこのコースを3回走って力をつけたことから、この名前をつけました。階段も入れて18箇所くらい坂が入っていて、後半になるほどきつい坂になるように設定してあります。このコースで中盤わざとオーバーペースに走って、最後は出し切る感じで終わるんです。仕事の後だと長い時間は練習できないので、中盤をオーバーペースにすることで、長時間練習したのと同じような状態を3時間でつくってしまおうという狙いです。

ーーーそうした練習方法は自転車競技のノウハウですか?

久保:当時から自分は量よりも、どれだけ少ない練習量で効率よく強くなるかに重きを置いていたんですね。量は限界がくるけれど、質の高い練習を短い時間で行うことができれば、その回数を増やしていくことはできます。基本的に練習がそれほど好きではないんで(笑)。

「レユニオンロード」では毎回タイムを計るんですが、UTMB前にはいままで一番速く2時間40分くらいで走れました。初回は3時間切るのもきついんですけど、回を重ねていくことで楽に走れるようになっていく。自分の体を知るバロメーターですね。あとはリカバリーに時間を割きました。

35時間というタイムリミット 

ーーーUTMBでの調子はいかがでしたか?

久保;いままでのラン人生で最大のゾーンに入りました。痛みもなにも感じなくなった時間帯があったんです。100kmあたりにあるコルフェレの山中でグロッキーになってものすごく減速してしまい、110kmのエイド、ラフーリーに下ったときにはレースを辞めようかと思うくらい体調が悪くなりました。。

ところが、エイドに入って椅子に倒れ込んでいたら、聞き覚えのある声が聞こえてきたんです。このエイド宛に応援者から30秒の映像が送れるシステムがあって、選手がエイドに入ると、自動で画面に映像メッセージが流れる仕組みになっています。映像を見ていたら、子どもたちと奥さんがシャモニーの原っぱででんぐり返しをしながら画面に近づいてきて「がんばれ!」と応援してくれていた。それを見たら、ここでは辞められないと思いました。

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ーーー今回、個人的なタイムリミットがあったとか?

久保:そうなんです。家族はたまたま見つけた安いチケットで来ていたので、僕が35時間でゴールしないと帰りの飛行機に間に合わない状態だったんですね。それを越えてしまったら、もう一緒にゴールできない。だから、歩いてでも速く進まなければ、という気持ちがありました。

家族でゴールするのは、長年の夢だったんです。足はかなり痛かったけれど、もう走るしかない。それで走り出したら、だんだん痛みがひいて、そのうち全く感じなくなって。どんどん楽になっていっったので、124km地点シャンペのエイドに向かう登り口までは全部走りました。

ーーーなにがきっかけでゾーンに?

久保:やっぱり、ラフーリーで家族の映像を見たことですね。あの後にゾーンに入った気がします。あとはタイムリミットの存在。35時間という制限時間がなかったら、とぼとぼ歩いていたと思います。

過去2回の100マイルの経験で、必ず2回辛い時間帯が訪れて、その後に2回ゾーンが来ることがわかっていました。だから、2回は落ちても復活できると思っていたんです。前半にも辛い時間帯があって、そこでペースダウンしたことが、後から考えるとよかったのかもしれません。体力が温存できたというか。

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上)クールマイヨールのエイドで、同僚のジョーダンと息子さんと  下)すべてのソフトフラスコにお子さんたちからの応援メッセージが書かれている。6歳の息子さんはキッズレースに出場した

ーーー復活してからはどうでしたか?

久保:124km地点シャンペのエイドでは、家族が一生懸命サポートしてくれました。復活してペースが上がってきたので、選手の到着時刻を予想するライブトレイルの予時刻よりも速く着いて、息子が「もう来たよ」と言うのが聞こえて。娘が急いでおかゆを用意してくれました。ぬるくないかとか、もっと食べるかとか気を遣ってくれて、頑張ってサポートしてくれていることがすごく嬉しかった。100マイルを目指す日本人ランナーにとっておかゆはスーパーフード。胃がちゃんと吸収していることがわかりました。

その後はランニングハイの状態になって、面白いように選手を抜くことができました。最後のエイド到着は夜中だったので、妻が一人おかゆをつくって待っていてくれました。このまま睡魔に襲われなければ35時間以内にゴールできるなと確信したので、カフェインが入った栄養ドリンクを飲んで備えました。

ーーーとても詳細に覚えておられますね。

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久保:元気だったからです。100マイルのラスト50kmであんなに元気だったのは初めての経験です。だからすごく楽しかった。結果、32時間でゴールして、211位でした。いま自分はUTMBのオフィシャルツアーの責任者という立場ですから、選手としてレースを走るからには「この人のツアーなら大丈夫だ」と思ってもらえる走りをしたい。ボロボロでようやく完走……ではなくて、できることなら「さすが」と思ってもらえる走りをしたい。レース中も、ずっとそう思っていました。
フィールズオンアースのUTMBツアー参加者の皆さんと

スタートラインに立ち
そこ至るまでの時間の素晴らしさに気づいた 

ーーー久保さんが見たUTMBは、どんな世界でしたか?

久保:自転車競技で夢が実現できなかったので、トレイルランニングを始めてからは、心の奥深くに「自分の力で、世界の最高峰に立ってやるぞ」という強い想いがありました。それまで全くやったことがないスポーツをゼロから始めても、世界最高峰のスタートラインに立てるということ。それを表現したいという気持ちがありました。

いざスタートに立ったら、ものすごい人がいるわけです。雨のスタートにも関わらず、大勢の人がいる。自分はツールドフランスでも、こんな風景を夢見ていました。だから、ああ、本当に来たんだなと思いました。スタートラインに立ち、UTMBのテーマ曲が流れたときには涙が出ました。

ーーー自転車競技の時代から、ここまでは長い道のりでした。

久保:スタートする瞬間に思ったのは、ここに到達するまでにいろいろなことがあったなということ。大瀬和文さんに出会ったことも、そのひとつです。いまの会社に転職してすぐ、まだツアーの企画も生まれていない頃にUTMBをひとりで視察して、会場で大瀬さんを見かけて話しかけたんです。ちょうど大瀬さんが初めてUTMBに出場して注目を集めた翌年です。それをきっかけにして、UTMBツアーが立ち上がっていきました。UTMBという世界を知って、自分もいつか出たいなと思い始めて、たくさんのトップ選手にも知り合うことができました。

ーーー世界が広がっていったわけですね。

久保;そうです。UTMBを走ることが目標だったけれど、いざスタートラインに立ってみたら、そこまでのプロセス、そこに辿り着くまでの時間が、本当に素晴らしいものだったことに気づきました。もしかしたら、もっとこの時間が長く続いてもよかったんじゃないかと。UTMBがスタートしてしまったら、自分の最後の目標に到達してしまう、そんな気持ちにもなりました。

夢に辿り着いたという嬉しさと、それを必死に追いかけていた時間の記憶が交差して、ゴールしてしまったらこの喜びが終わってしまうんじゃないかという不安とのせめぎ合いがありました。

ーーー過去の自分と向き合う時間でもあったと。

久保:スタートエリアに入ると目の前がすごい人垣で、スマホの森なんですよ。みんなが腕を出して撮っていて、すごい景色です。これまでもUTMBのスタートには来ていましたけれど、選手から見た景色は知らなかった。こういうふうに見えるんだと、ツールドフランスの風景とリンクしました。

本当に憧れていたものとは……

ーーーゴールはどんな時間でしたか?

久保:僕のイメージでは、力を出し切って満身創痍でやっと辿り着いて嬉しくて泣いてしまう、というイメージだったんです。ところが、あまりに元気で、ものすごく気持ちよくゴールしちゃったなという印象です。正直、あと10kmは全力で走れるくらいの余力がありました。あと15kmくらいあれば絶対に200位以内に入れたのにとも思いました。ゼッケンをつけると、つい競技者としての欲が出てきてしまうんです。

家族は少し手前で待っていてくれました。先の方から子どもたちが「来た来た!」という声が聞こえて。これまで実現していなかった家族4人でのゴールがやっと叶うなと嬉しかったですね。時間は夜中の2時40分くらい。息子は寝起きでぼーっとしていたらしくて、競走と勘違いして全力で走り始めたんです。違うよ、競走じゃないからとなんとか説得して、ゴール前30mでようやくつかまえて、みんなで手を繋いでゴールしました。
 子どもたちと手を繋ぐ瞬間は本当に嬉しかったですね。あの最後の30mのために169.7kmを走ってきたと言えます。 

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ーーーお嬢さんと手を繋ぐのはこれが最後かも、と完走記に書いておられました。

久保:もう高校生ですし、しばらく手を繋いでいませんでしたから。思い出すと最後に手を繋いだのは小学校の頃ですかね。自転車の仕事をしていた頃は、長く留守にすることが多くて、その頃はまだ娘は4〜5歳で「次はいつ帰ってくるの?」と言って手を握ってきたり、寂しそうだったりしました。その頃のことを思い出しましたね。

ーーーーこうした瞬間はきっとお嬢さんにも息子さんにも深い記憶となって残るんじゃないかなと思います。高校生になると父親と手を繋ぐ機会はなかなかないと思うですが、トレイルランのゴールでは自然にそういう気持ちがわき起こりますよね。トレイルランていいなと、あらためて感じました。

久保:そうなんです。それは僕にとっても、トレイルランニングがすごく好きなところのひとつです。UTMBは世界最高峰のトレイルランレースといえるわけですけれど、じゃあ、他のスポーツの世界最高峰の大会はどうだろうと思うわけです。マラソンならオリンピックや世界選手権があるわけですが、絶対に家族と手を繋いでゴールできないですよね。サッカーのワールドカップだって優勝したときに家族はピッチに入れないし、野球だってそうです。優勝した瞬間のグラウンドに家族がいることはできないわけです。でもトレイルランは、100マイルのゴールをするとき、家族や恋人などサポートしてくれた人と一緒にゴールできる。それって、ものすごく貴重というか、あまり他にないと思うんです。それが本当に素晴らしいなと僕は思っています。

自分はUTMBにも憧れていましたけれど、世界最高峰のレースで家族と一緒にフィニッシュすることに、本当はいちばん憧れていたのかもしれません。

ーーーーご家族もスタートからずっと同じ時間を過ごしているわけですからね。

久保:ものすごい長い時間かかりますしね。自分の父親が自分の足でフランスをスタートしてイタリアに入って、スイスに入って、またフランスに帰ってくるという姿を見せる。父親としてそれを一回でも見せることができたら、素晴らしいことだろうなと思っていました。だから絶対に失敗できないとも。あと3時間遅かったらダメだったわけですから。

ーーー後日談もあるとか。

久保:僕はオフィシャルツアーの責任者として、UTMBを自分で走るのはこれが最初で最後かなと思っていたんです。でも長い出張から久しぶりに帰ってきたら、思いがけないことを言われて。家族みんなでスーパー銭湯に行く車の中で、娘が言ったんです。「UTMBまた走りなよ」と。はじめはどういう意味かわからなかったんですね。そうしたら、「またサポートしたい」というんです。「なんで?」と聞いたら、上位の選手の家族がサポートする様子を見ていたら、工具箱のようなケースに綺麗にジェルやフラスコを並べていて、選手が入ってくるとF1ピットのようにパパッと手早くサポートしていた。それがすごく格好よかったから、自分たちもサポート道を極めたいと。まさかそんなことに憧れているとは思っていなかったので、驚いてしまって。嬉しい誤算でした(笑)。

息子からは、いつかCCCに出たいと言われました。今年もキッズレースに出場したんです。UTMBがあることで、家族に一体感が生まれる。レースでボロボロになっているお父さんをみんながサポートしたりして、同じ時間を共有できる。そして一緒にゴールできる。もうこれは、ウルトラトレイルならではだと思います。100マイルという距離があるからこそ、生まれる世界観。小さい子どもにとって100マイルという距離はわからなくても、明らかにすごいことをやっているなというのは感覚でわかりますから。車での移動距離がすごいので、それをお父さんが走っていると理解できる。しかも2回も夜がくる。

いつか息子と一緒にUTMBを走れればいいなと思いますね。早くていまから20年後、息子が26歳で出場したとすると僕は60歳。まだまだ行けますね(笑)。 

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UTMB2018完走記
久保信人

■■UTMBとの出合い

初めてランニングしたあの日、3㎞で筋肉痛になった。大きな挫折を味わい、すべての目標を失っていた時、希望をくれたのは偶然ヒットしたUTMBの動画だった。

「なんてすごい世界なんだろう!出てみたい」

漠然とそう思った。初めて行った山は神奈川県最高峰の蛭ヶ岳。往復だけで足がガクガクになった。それでも楽しかった。もっとやってみたいと思った。5年前あそこから始まった。

■■5年目でついにUTMBへ

5年が経ち、ついにそのスタートに立つ時が来た。シャモニーのスタートに、UTMBのテーマが流れたとき、涙があふれた。

「ついに来たんだ」

すさまじい大観衆の中を走り出した。夢のようだ。でも現実だ。自分は世界最高峰の舞台を走っている。見えないけれど、自分の前にはあのキリアン・ジョルネ、グザビエ・デヴナール、ジム・ワムスレーが走っている。全く同じ道、同じ景色を走っている。 

■■体調悪化

前半8時間が経過したころ、体調が悪化した。50km Les Chapieuxのエイドでは手がしびれはじめ、吐き気がひどかった。30分は止まらざる負えなかった。どんどん抜かれ、大きく順位も落とした。やっとの思いでLes Chapieuxを出発するが、体は動かない。

そのあとは睡魔が来た。眠くてまっすぐ進めない。自分が蛇行しているのがわかる。でも進まなきゃ。もっとも順位が落ちた時は60㎞地点Col de Seigneの595位。

夜が明け始めると、見たこともないとがった岩山と巨大な氷河が現れた。すごすぎる。なんという景色!

79㎞Courmayeurまでの下りで急に体は軽くなった。家族が迎えてくれたエイド。カレーメシが身に染みわたる。エイドアウト、息子が一緒に走って送り出してくれる。どんなに苦しくてもゴールしたい。そう思った。そして、もう二度とないかもしれないから、世界最高峰のUTMBを走る、父の姿をしっかり見ていてほしかった。 

■■リタイヤの危機

Grand col Ferret、コース中の最高峰。しかし再度、体調悪化。強烈な睡魔と吐き気、気温マイナス5度、突風、命の危険を感じ始める。食べることができない。エネルギーがない。体温が下がっていく。眠い。

「なぜこんな大会に出てしまったのか」

自問自答を繰り返す。

「もうやめよう。二度と出ない」
「いや駄目だ。進め、進むんだ」 

自分の中で2人の自分が葛藤し続ける。

「この峠で動けなくなったら死ぬ。とにかく超えろ。少しでも早く超えろ」

ぶつぶつと唱えながら進む。
コルフェレは地獄だった。超えても恐ろしく長い下りが待っている。補給できていないから踏ん張れない。ヨレヨレで何度も転びそうになる。走ったり歩いたり。ストックにしがみつくように下った。走れないから、下りが終わらない。ラフーリーのエイドはまだか。

110㎞La Foulyには完全にゾンビになって倒れこんだ。

「もうだめだ、家族の帰国に間に合わない、一緒にゴールできない」

そう思った。  

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■■そして、復活

その時、聞き覚えのある声が聞こえてくる。頭を上げるとラフーリーエイドの大きなモニターにビデオメッセージが!

シャモニーの原っぱで側転やでんぐり返しをしながらカメラに向かってきて、

「パパ、頑張れ~~」

あまりのおもしろ動画に、吹き出してしまった。ゾンビのような顔だったけど、笑うことができた。このラフーリーのビデオメッセージは効いた。絶妙な場所で配信される。このエイドは多くの選手が満身創痍だった。

「行くんだ、あきらめるな」

よろよろ立ち上がり、無理やりパンケーキを押し込んだ。気持ち悪くて今にも吐きそうだけど、押し込んだ。

「食え、食うんだ!」

全てがまずかった。気持ち悪くて食べたくなかった。でも押し込んだ。
足も完全に崩壊していた。痛すぎて訳が分からない。110㎞ラフーリーから125㎞シャンペまではほとんどが下り基調の林道と舗装路。頭の回線をぶった切った。

■■リミッターカット

「走れ、走れ!」

林道、ロードは全部走った。どんどんペースを上げて。何としても家族がいる時間にゴールしたい。コルフェレで相当な時間を失っていたことはわかっていた。走れる場所はひたすら走り少しでも挽回しなくてはならなかった。

激痛の足で走り続けていると、痛みがマヒしてきた。もはや痛くない。
じゃあペースを上げよう。Champexへの登り口までは一度も歩かなかった。

120㎞のシャンペには予想到着時間より1時間早く着いた。サポートがついたばかりで子供たちが、「もう来たよ!」とびっくりしている。

娘がバーナーでお粥をあっためてくれた。「もっとあっためる? ぬるくない?」とすごく気を遣ってくれた。

■■父として

娘が4歳の時、私は彼女の父親になった。いろんな葛藤があった。
ずっと、私はいい父親になれているのだろうか、娘は私をどう思っているのだろう。その見えない悩みが消えたことはない。だけど、娘は一生懸命サポートしてくれた。表情にどこか誇らしさを感じていた。

絶対にゴールしよう。娘が少しでも誇りに思ってくれるように、少しでも上位でゴールしよう。

娘はまだ一度も私と一緒にゴールしたことがなかった。初めての海外レースのモンブランマラソンは、学校の行事で一緒に来られず、一緒にゴールできなかった。

もう高校生、これが最初で最後のチャンスかもしれなかった。

「絶対に35時間以内にゴールする」

これがタイムリミットだった。これを過ぎると飛行機に間に合わず、彼女たちはシャモニーを出発しなくてはならなかった。

■■286人抜き

シャンペのサポートで完全にスイッチが入る。シャンペからしばらく林道になる。足は完全にマヒし、1キロ5分ぐらいのペースでどんどん抜かし始める。
135㎞トリオンを越えるフォークラズ峠でも20人ぐらい抜かす。

CCCの時はトリオンへの下りで調子に乗りすぎて、そのあと崩れたので、この下りはセーブする。トリオンの後の2個目の登りが鬼きつかった記憶がある。 

トリオンも予測時間の1時間早く到着。息子がエイド前で、「パパー!」と待っていてくれる。

140㎞Trientエイドには309位で到着。60㎞地点の595位から286人抜いた。どんどん力が湧いてくる。

また娘がおかゆを用意してくれて、たっぷり食べる。大会には申し訳ないが、大会エイドのものはもう一切食べられない。STCのOxyshotをとり、すぐにエイドアウト。

記憶どおりの鬼登りが始まる。大瀬さん、元気なら走れるくらいの傾斜って言ってたなあ。絶対無理だなあ。ここ走れる人はトップ10の選手ぐらいだろ、、なんてぶつぶつ思いながら、丹羽さんがレクチャーしてくれたダブルポールでガシガシ上る。

ここでもどんどん抜かす。不思議なくらい体が動いた。遥か彼方にヘッドライトの光が見えると、その選手には必ず追いつけるという理由の無い自信があった。でもそれは思い通りにできた。

視界にとらえるすべてのランナーを抜かしていった。ここまで来ると、下りの激痛に耐えながら、必死に下るランナーばかりだった。私の足は痛みを超越して、完全にマヒしていた。

「行けるところまで行こう!」

激坂のTsueppeを284位で通過。ヴァロルシンへのきつい林道もガンガンに走った。ヴァロルシン迄の下りは一度も歩かなかった。
153㎞ヴァロルシンに263位で到着。

最後のおかゆを食べる。
最後のエイドには妻だけがいた。子供たちは眠ってしまったそうだ。おかゆを用意して待っていてくれた。またおかゆをしっかり食べ、うどんも食べて、STC OxyshotとOver Blast、Last Kmを飲んで、素早くエイドアウトする。

「大丈夫、行ける。ゴールで待ってて。ありがとう。サポート嬉しかった」

そう告げてエイドを出る。
2016年のCCC。ヴァロルシンで落ちた。何も食べれなくなり、そのあとペースダウン。最後のTete aux Vent で吐き、最後の最後で崩れた記憶がよみがえる。

■■爆走

今回は別人だった。ヴァロルシンからの電車沿いをだらだらと上る林道は爆走した。もう、もはや自分だけの力とは思えなかった。みんな歩いている結構な登りも駆け上り、一瞬で抜き去っていった。力がみなぎり、無限に走れそうな感覚だった。

遥か祖先のDNAが覚醒して、山の中で獣を追いかける猟師か、獣自身になったような不思議な感覚だった。まるで山の精霊が自分に宿ったような、未知の力だった。ヴァロルシンからの緩いのぼりは、かなりきつい一部を除いて90%以上は走り続けた。

フレジェールへの上り口Tres le Champまでの約6㎞で、ヴァロルシンの263位から236位まで上げ、「6㎞で27人」を抜かした。そしてついにフレジェールへ向けた最後の2山を迎える。

遥か上方にちらつくヘッドライトの明かりを追いかけ、一人また一人と捉えていった。シャンペからの50㎞、誰一人として抜かされることはなかった。

フレジェールからの2山の下りはエゲツなかった。体はガンガン走りたがっているのに、到底走れない、コース中最大のテクニカルダウンヒルだった。ほとんど走れなかったが、前を行くランナーにとってはさらなる困難のようで、この下りでも数人パスした。

■■家族の待つゴールへ

ついに丹羽薫さんとの試走会で見た、フレジェール最後のエイドが見えてきた。最終エイドのフレジュール163㎞地点を223位で通過。ヴァロルシンから丁度40人抜かした。

「間に合う!家族の待っているゴールに間に合う!」

嬉しさがこみあげて、苦しさなんかみじんも感じなかった。

「ここから下りで10人は抜かす」

そう勝手に決めつけ、フレジェールはコップ半分コーラを飲みほし20秒でエイドアウトした。

シャモニーへの下りを爆走した。途中ガスっており、慎重に行かざる負えない場所もあったけれど、スカイランニングかのように、駆け下りる。
下に見えてきた明かりのランナーは全員パスした。フロリアを抜けさらに走りやすくなった所ではさらに加速した。

そしてついにシャモニーの町へ降り立つ!

「あれ??コースが変わってる!!」

今まではずっとツアーの宿の目の前を選手は通ったけど、今回から初めてのルートになっていた。一瞬戸惑うが、マーキング通りに進む。

シャモニーの町中に入り、川沿いの道に出る、今年から設置された歩道橋。きっとあの階段が地獄だろうと思っていたけれど、足の痛みが完全にマヒしていて、いくらでも走れるので、歩道橋も一段飛ばし、全力ダッシュで一瞬で乗り越えた。

スタッフの「ウォー!不可能だろ!」の声が聞こえる。でも何故か出来てしまった。自分の体が自分ではないような感覚、一瞬で歩道橋を超えて、いよいよ町の中心地へ。

シャモニーの中心街、石畳の直線の先に、娘と息子、そしてママが手を振っている。

「いた!!」

着いた、ついにゴールにやってきた!UTMB170㎞、獲得標高10,000m。自らの足でフランスからイタリア、スイスを抜けてまたフランスへ帰ってきた!

本当は泣くはずだった。ボロボロになって、最後は必死の思いでゴールにたどり着くと思っていた。でも、不思議な未知の力があふれて、バリバリに元気だった。あと10㎞全力で走れるくらいの力がみなぎっていた。だから、笑顔だった。

息子は半分寝ぼけていて、追いついたら全力で走りだした。

「おいおい、待ってくれよ、いつものヨーイドンじゃないんだよ!みんなで一緒にゴールしよう」

最初から最後まで頑張ってサポートしてくれた子供たちとママ。息子と娘に挟まれるように手をつないだ。

娘と手をつないだのは何年ぶりだろう。いつも遠征遠征で全然家にいない父親だった。2か月も離れるとき、小さい頃は出発前ぎゅっと手を握ってきたことを思い出す。もしかしたら、これが最後かもしれないな。そう思いながら娘と手をつないだ。4人が一列に手をつないで、最後の30mをゆっくり走った。

32時間前にスタートした、Place de Triangleは人もまばらだった。時間は深夜2時40分。でもそんなことは全然気にならなかった。32時間一緒に戦ってきた家族がそこにいるから、家族と一緒に応援してくれたJordanと、丹羽さんのサポートを終えたKevinもゴールに駆けつけてくれた。

「ありがとう!本当にありがとう!」

感謝しかなかった。100マイルを走ると普段なかなか言えない、心の底にある素直な気持ちが出てくる。

「ありがとう」

ゴールラインの直前でみんなで止まり

「いちにーの、さんっ!」

でジャンプしてゴールをまたいだ。ずっとずっと夢見てきた家族みんなで世界最高峰のUTMBのゴールアーチをくぐった。

「夢がかなった」

中盤までは決して予定通りにはいかなかった。でも終盤未知の体験が起きた。終盤は過去最高の走りだった。本当に気持ちよく100マイルを走り切った。

32時間40分31秒、171㎞、獲得標高10,000m。総合211位/2300名、年代別 V1Hカテゴリー78位。アジア8位。
最低順位596位ーCol de Seigne 60㎞
最高順位211位ーChamonix 171㎞(385人抜き)

ゴールアーチでみんなで写真を撮り、フィニッシャーズベストを受け取り、一緒にホテルへ帰る。ママはすぐに荷造りをし、3時間後、子供たちと一緒にジュネーブ空港へ出発した。

今までで一番苦しくて、過酷で、世界最大で、一番幸せな32時間40分31秒だった。

「ありがとう。今までのすべての出来事に、感謝します」 

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写真:最勝寺進 

Race report:Nobuhito Kubo
Interview&edit:Yumiko Chiba