厳しい時代だからこそ生まれた大会『奥信濃100』〜山田琢也が想い描く故郷の未来



昨年以来、多くのトレイルランレースが新型コロナウイルスの影響で中止や変更を余儀なくされている。いずれの判断も、それぞれの地域がその時々の状況下で導き出した最善策だ。いまの時代には「たったひとつの正解」などないといえるだろう。

そんななか、8月末に新しい大会が誕生した。長野県木島平スキー場を舞台とする『奥信濃100』だ。

木島平村出身の主催者・山田琢也(トレイルランナー)は、この地で家族とともに「スポーツハイム・アルプ」を経営している。大会の開催を発表したのは5月のことで、わずか3ヶ月の間に具体的な準備を進めたことになる。

大会をつくり上げた理由はただひとつ。木島平スキー場と奥信濃エリアの窮地を救うためだ。

ランナーもスタッフも
大会を成功させたいと願った

開催一週間前にコースが短縮され、100kmが75kmに、35kmが25kmに変更されたものの、当日は603名のランナーが真夏のトレイルを駆け抜けた。会場を訪れて印象的だったのは、参加者とスタッフのモチベーションの高さだ。コロナが感染拡大傾向にある中での開催とあって、取材する側も緊張感を持って臨んだが、集った人たちからは「この大会を成功させたい」という温かな想いを感じた。

久しぶりに仲間と再会できる喜びや、開催にこぎ着けた主催者への「ありがとう」の気持ちで会場は満たされている。その穏やかな空気は、昨年12月に無事開催を終えた『伊豆トレイルジャーニー』(静岡県)の会場で感じたものとも重なった。

今回、参加者の多くは木島平村や近隣の飯山市、野沢温泉村、山ノ内町などに宿泊したという。感染防止のためシングルユースを基本とし、木島平村にある35施設のうち、コロナで営業を休止している施設以外はすべての宿が満室となった。

それにしてもなぜこの時期に『奥信濃100』は開催できたのだろう。山田琢也さんに聞いた。


騒然となった会議
「スキー場はこの冬が最後かもしれません……」

ーーーこの春、地元の木島平が深刻な状況に陥っていること、そして「自分ができることをスピード感もってやっていこうと決めた」とSNSで発信しておられました。その後まもなく『奥信濃100』の発表があり、決意はこのことだったのかと思ったのです。

山田:そうなんです。村のシンボルともいえる木島平スキー場と隣接するホテル・パノラマランドは、木島平観光会社という第三セクターが経営しているんですね。春に会議が開かれ、「スキー場もパノラマランドも倒産するかもしれない。この冬が最後になるかもしれない」と言われたんです。

役場から出向してホテルで働いている方が「この村の観光にとってスキー場は重要です。みなさん力を貸してください」と切実に訴えました。「手を貸せる人は手を、知恵を貸せる人は知恵を、お金を貸せる人はお金を貸して欲しい」と、まるでドラマかと思ってしまうような台詞を本気で言っていたんです。

ところが、そこに集まっていた観光に携わる人たちはコロナですっかり余裕がなくなっていましたから、会議は揉めに揉めてしまって。

ーーそこからどういった経緯でトレイルランレース設立に至ったのでしょうか。

山田:僕自身はいつか地元の独立峰・高社山(1351m)の周囲35kmをぐるっと一周するレースをつくりたいと思っていました。ただ年間を通して、KTF(北信濃トレイルフリークス)でレース運営に携わっていますので、無理に開催する必要はないとも考えていたんです。

一方で、木島平を中心とした100kmのルートも以前から漠然と想い描いていました。かつてこの地で100kmのマウンテンバイクレースを開催したことがあり、そのコースがアルプが実施しているトレイルランツアーでも使えるのではないかと思っていたんですね。

そして4月初旬、地元の仲間やアルプスキーチームの木村大志君と現地に行ってみたのですが、トレイルランをするにはあまりよいルートではありませんでした。それで新たに木村君と二人で道探しを始め、あと少しで100km繋がるという頃に、あの会議が開かれました。

木村大志さんと二人でとにかく草刈りに励んだ


ーーツアーの下見だった道探しが、地元のピンチを救うためのレース構想に結びついていったと。

山田:そうです。大会発案はあの会議がきっかけだったことは間違いありません。コロナの影響は大きくて、アルプも業績がいいとは言えません。ただここ数年、トレイルランやクロスカントリースキー、自転車などさまざまなアクティビティの活動拠点になるよう工夫してきたので、なんとかカバーできている状況です。

でも地元全体は大ピンチなんですよ。僕が村を助けるとか、そんな大それた話ではないんだけれど、大会をつくるなら今年やらなければ意味がない。今年やらなかったら、もう大会はできないというほど緊迫した空気でした。実はいままで、地元でのレース開催は少し気が引けていたんです。

ーーなぜですか?

山田:周りの人たちはみんな小さい頃から僕を知っているので、いろいろ言われるんじゃないかという心配がありました。たとえば近隣の市町村なら、一事業者として対応してもらえますが、地元だとそこまでビジネスライクになりにくい。昔から知っているからこそ、お互いに甘えてしまう部分があって。

2007年から木島平で『たかやしろトレイルランニングレース』を仲間と開催していますけれど、これは小規模だからできているともいえます。

でも、いまはそんなことを言っている場合じゃない。自分でできることがあるならやろうと思いました。ある意味、ピンチはチャンスかもしれないとも思ったんです。いまのような厳しい状況なら、地元の先輩たちにも応援してもらえるんじゃないかと。

高社山

今回は理想のコースより
リスク軽減を選んだ

ーー大会設立について地元の反応はいかがでしたか。

山田:「いつやるん?」とか「こんなところに道があるのか?」といった驚きの反応が多かったですね。でも冷静に受け止めてもらえて「手伝えることは手伝うよ」と応援してもらいました。スキー場の人たちからは「すごいことやるね」と言われました。

ーー何から着手したのでしょうか。

山田:まずは100kmきちんと繋がるか、あらためて確認しました。かなりの時間を費やし、ようやくこれで行けるというところまで詰めることができました。

開催直前の変更で「本沢川」という沢沿いのトレイルを外したんですね。ここは僕らが各所に許可申請を行い、手間暇かけて古道を整備したトレイルで、本当に美しく素晴らしいところなんです。ただ徒渉もあり、無線が入りにくい場所でした。

ーー安全管理は盟友の奧宮俊祐さん率いるファントレイルズ合同会社にお願いしたそうですね。

山田:そうなんです。最初、彼に大会設立の話をしたらとてもびっくりされて。「8月って、今年の8月に開催するの!嘘でしょ?」と(苦笑)。

本沢川についても、最終的にファントレイルズから「本年度の通行はやはり止めて欲しい」と言われて外しました。何か事故が起きたときに救護が遅れてしまう可能性があり、「リスクは少しでも減らすべきだ」と説得されて。まったくそのとおりで、事故が起きたら次の大会開催はないわけですからね。

ただ僕らにとってここは要で、参加者の皆さんにいちばん見てもらいたい場所でもあったんです。

奧宮俊祐さん率いるファントレイルズ合同会社に安全管理を依頼


ーーそれほど魅力的なトレイルなんですね。

山田:この古道が復活したら、木島平でいちばん標高の高い「高標山(1747m)」の登山道としても活用できるんですよ。釣りの穴場で、トレイルを整備していたら「道を整備してくれてありがとう」と釣りの人たちに感謝されました。これまでみんな川の中を歩いていたらしくて。

「絶対にやる」という覚悟
「やっていいのか」という不安

ーー各地で緊急事態宣言などが出ている難しい時期でした。

山田:大会が近づくにつれて感染者が増え、僕自身も本当に開催できるのか不安になっていました。参加を控えるボランティアさんも出てきていました。

ーー直前に中止ではなくコース変更のアナウンスがあり、相当な覚悟をされているのだなと感じました。つまり、コロナウイルス以上に切迫したものを抱えておられるのだなと。いまどの大会もさまざまな葛藤のなか判断を行っていると思います。何を諦めて何を守るべきなのかという。

山田:本当にそう思います。僕も最後の一週間は肉体的にも精神的にも極限状態でした。関係各所に最後の打ち合わせに行った際も、「中止にしてくれ」とはどこからも言われなかったんです。ただ心の中では「ダメならダメとハッキリ言ってくれ」と思っていました。

なぜなら、地元の人たちがウェルカムじゃない大会は絶対にやるべきではないと考えていたからです。



ーー反対の声はありましたか。

山田:僕らには直接ありませんでしたが、役所には問合せが3件あったと聞いています。あとルート上の市町村から、居住区を避けたコースに変更して欲しいという依頼があり、一部変更しました。

やるべきことはやりながらも、当日が近づくにつれて悩みはどんどん膨らんでいきます。「絶対にやってやるぞ」という執念のようなものがありましたが、膨大な準備に追われるなか、みんな本心はどう思っているのだろうかと眠れない日が続きました。                

だから、会場で仲間や知り合いの人たちの顔を見たときは本当に嬉しくて。みんなに「開催してくれてありがとう」と笑顔で声をかけてもらって、泣けてきました。

ーーレース後半にスズメバチが発生し、急遽コース変更するというアクシデントがありましたが、大きな事故もなく無事に終えられて何よりでした。大会のタイム計測を行っている計測工房社長の藤井拓也さんが、この大会について「天の時、地の利、人の和の3要素すべてが満たされて開催されたトレイルランニングレースだった」と表現されていたのが印象的でした。

山田:その言葉は嬉しかったですね。藤井さんとは長年のお付き合いで、ずっと一緒に大会をつくってきましたから。

左から大瀬和文選手、小原将寿選手、井原和一選手


ーー運営で留意したことは?

山田:感染対策についてはファントレイルズといろいろ話し合いました。事前にボランティアスタッフからも意見をもらってフォーマットをつくりましたが、それ以上に現場での皆さんのプラスアルファが大きかったと思っています。

今回のエイド運営は、日頃アルプを利用してくださっているランニングチームの皆さんが力を貸してくれたんですね。奥信濃がピンチであることを知り、駆けつけてくれたのだと思います。とても感謝しています。

ーーアルプでは近年トレイルランナーとクロスカントリースキーを結びつける活動に力を入れておられ、それにより年間を通してこの地を訪れるランナーが増えたように感じます。

山田:そのとおりです。今回もランナーの皆さんは奥信濃に親しみを感じて応援してくださったのだと思います。

カヤノ平エイドを担当したチームちゃんぷ。練


100年でスキー文化が根付いた地に
100年先の未来を描く

ーー率直に伺いますが、琢也さんご自身はなぜ『奥信濃100』は開催できたのだと思いますか?

山田:そうですね、ひとつは僕がここで暮らし、このエリアの事業者であることが大きいかなと思います。

いままで地元での大会づくりを躊躇していたのは、先輩たちから何か言われるんじゃないかという思いがあったからですが、こんな厳しい時期だからこそみんなが「琢也がんばれ」と後押ししてくれました。それはやはり長年の関係性があったからなのかなと、あらためて感じています。

ーー大会名を『奥信濃100』にした理由は?

山田:地元の木島平村だけを捉えるのではなく、僕は奥信濃(中野市、飯山市、山ノ内町、木島平村、野沢温泉村、栄村の6市町村)全体を盛り上げたいんですね。それで「奥信濃エリアとトレイルランニングが100年続くように」という想いを込めてこの名前をつけました。ほかにも実は100には隠れた意味があって……ガンダムなんですよ。

ーーガンダムですか?

山田:大会ロゴの制作を地元のアイコ美術工藝社にお願いしたんです。コンセプトを伝えたら、社長の相子さんが「それは奥信濃百式ですね」と言うんですね。簡単に説明しますと、ガンダムの話の中に、100年先も戦闘できる「百式」というモビルスーツが出てくるんです。それを連想すると言われて(笑)。

ーー予想外のエピソードです(笑)。個人的にはクロスカントリースキーの歴史に重なっているのかなと想像していました。1911年(明治44年)にオーストリアのレルヒ少佐によって新潟県にスキーが伝来し、翌年飯山に伝えられたと聞いています。そこから110年が経ち、スキーは奥信濃に文化として根付いています。このエリアにとって100年という単位はリアルであり、トレイルランの未来をスキーの歴史に重ねているかなと想像していました。

山田:あっ、そのアイデアいいですね(笑)。たしかにそのとおりです。飯山にスキーが伝わって、スキー場や宿泊施設がつくられ、地元では子どもの頃からクロカンスキーに親しむようになった。110年後の僕らはこれほどまでにスキーを楽しんでいるわけですからね。

スキーはもはやこの地のいちばんの産業なんです。僕らはみんなスキーのことを「このエリアのスポーツだ」と自覚しているし、生業にしている人たちもたくさんいる。トレイルランもそんなふうになったらいいですね、100年後に。


ーー8月に開催した理由は何かあるのでしょうか。

山田: 当初は9月もいいなと思ったのですが、KTFの大会や『信越五岳トレイルランニングレース』がありますから、そうした先輩大会と日程が重ならないように留意しました。

ただ8月から9月にかけてはどうしても蜂が発生してしまうんです。そこで来年度2022年は時期をずらして、6月第2週の開催を予定しています。

ーー運営で個人的に印象的だったのが「置きっぱなしデポエリア」です。スタートゴールゲートのすぐ近く、選手が何度か通過するゲレンデの芝生にデポバッグを置くエリアが設定され、雨対策をした上で各自管理するスタイルでした。おもてなしに磨きをかけてきた近年のトレイルランレースの傾向と、ある意味、真逆のアイデアです。苦肉の策だったのだと思いますが、コロナ禍らしい手法だとも感じました。

山田:バスストップみたいで、デポエリアを囲うだけの簡単なものだったんですけれど、ボランティアの人数も多くなかったのでこれしかないなと。エイドについても、本来なら手作りの地元の味を食べていただきたかったのですが、今回はすべて個包装の食品にしました。

中央ゴールゲートの右上芝生上に四角く囲まれたデポバッグエリアが見える


よいか悪いかは別として、コロナ禍の大会運営はミニマルにならざるを得えない。ただそれによって思わぬ発見もありました。参加者の皆さんと運営側が一体となってレースをつくっている感覚が生まれた気がしています。

デポバッグもそうですが、エイドで手指消毒やマスク着用をお願いするなど、参加者の方々にはいろいろな部分で協力していただきました。コロナ禍がいつまで続くかわかりませんけれど、これからの大会運営はこういう相互関係がひとつのポイントになるような気もしています。

ーーなるほど。お互い協力し合う意識が高まるのではないかということですね。

山田:はい。参加者の皆さんはコロナ対策について本当に高い意識で臨んでくださいましたし、トレーニングも含めてすごく準備してきてくれたな感じたんです。

そうした影響もあって、完走率は約80%と高い数字になりました。40名ほどリタイアしたのですが、それぞれご自身の体力と相談して、早めに判断してくださったように思います。「もうちょっと行きたいけれど、無理しないで止めておこう」という感じで。

ーーほかに力を入れた点はありますか。

山田:コースレイアウトです。同じコースを何周もループするレースにはしたくなかったのですが、スタッフ数が限られていましたから、同じエイドを複数回、通過するレイアウトを考えました。

蜂の発生によるコース変更で、1箇所だけ林道往復になってしまいましたが、本来なら同じトレイルを2度走るところはないんです。カヤノ平のエイドは2回、糠塚エイドは3回通ることになり、それだけで5回エイドに寄ることができるものの、同じトレイルは走りません。ここは非常に工夫したところですね。

移住は少しハードルが高い
エリアのファンを一人でも多く増やせたら

ーー少し話しは変わりますが、あらためて奥信濃全体の現状について教えてください。

山田:総務省の推計では、奥信濃エリアはこの5年で人口が10%減少し、10年で高齢者比率が45%以上になるといわれています。

住んでいる僕らも常に人手不足を感じるんですよ。お祭りや消防団活動など何をするにしても人が足りません。さらにコロナの影響は深刻です。主な地域産業であるアウトドアはイベント関係がほとんどなくなり、当然、宿泊施設のお客さんも激減しています。

これまで海外スキーヤーに人気だった野沢温泉村には同級生や後輩がいて、代替わりで社長に就任していたりするのですが、みんな大変だと言っています。銀行の融資も一時しのぎに過ぎませんから。

ーー野沢温泉村も斑尾高原も本来ならパウダースノーで国内外のスキーヤーに人気ですね。

山田:これから奥信濃の立て直しをどうしたらいいのか。いま世の中では「地方移住」が注目されていますが、移住というのは正直ハードルが高いと僕は思っているんです。

もちろん移住してくれたらいちばん嬉しいのですが、それ以上に、このエリアにちょくちょく足を運んでもらい、気にかけてくれる人を増やしたい。そういうファンのような人たちが、年々一人でも二人でも増えていったら、エリア全体の活動が持続可能になっていくはずだと考えています。

ボランティアスタッフの
“現場力”に助けられた

ーー大会終了後、地元の方たちの反応はいかがでしたか。

山田:各方面に挨拶に行ったところ、宿泊施設の皆さんがものすごく喜んでくれていました。今回、宿の皆さんにはおもてなしに集中していただいたんですけれど、「来年は草刈りとか、何かあれば手伝うから」と言ってくださって、ありがたかったです。

ーートレイルラン仲間からは何か反響がありましたか。

山田:パワースポーツ社長の滝川次郎さんから事前に励ましのメッセージをいただきました。さらにエイドで提供するジェルやバーをたくさん送ってくださったんです。驚いてしまって、大会ウェブサイトにロゴを掲載したいと伝えたら「そんなことは気にしなくていいよ」と言ってくださって。


ーーボランティアの皆さんからのフィードバックも含め、次回に向けた課題は?

山田:今回は直前にコース短縮があり、スタッフへの連絡がギリギリになってしまいました。それは僕自身すごく反省しています。さらに当日には蜂騒ぎによるコース変更も重なり、どんどん状況が変わって制限時間もずれていきましたから、現場は本当に大変だったと思います。次回はしっかり準備して、運営を強化しなければと思っています。

ほかにもカヤノ平は電波が悪くて、無線を中継しないと伝達できない場所なので、緊急事態に備えてよりスピーディーに対応できるよう人員配置など改善していきます。また8箇所の徒渉のうちのいくつかには橋を架ける予定です。

とにかく今回はボランティアの皆さんの臨機応変な動きに助けらましたが、それに頼っていてはいけない。安全や運営のクオリティを安定的に保つためには、しっかりと細部までマニュアル化して、ボランティアに慣れていない方にも安心して参加してもらえるようにしていきます。なにより、スタッフにも充実した気持ちで帰ってもらいたいですから。


ーー次回は6月開催だと蜂の心配はなさそうですね。

山田:ほんとに。奥信濃がいちばん気持ちのいい季節でもあるんですよ。そしてぜひ本沢川をコースに入れたいですね。地元の人たちもこのトレイルの復活を喜んでくれているので、たくさんの方に使ってもらえる方法を考えていきたいと思います。

常設の登山道として活用するためには継続的な整備も必要ですから、クラウドファンディングの立ち上げや公共事業として継続していく方法なども検討しています。

「スタッフに無理をさせてしまったのではないか」
大会終了後も手放しで喜べずにいた

ーー猛スピードで駆け抜けた日々を振り返って、いまどんなお気持ちですか。

山田:ようやく、やってよかったと思えるようになりました。大会終了後もずっと不安だったんです、本当にやってよかったのかなと。「やり遂げた!」と手放しで喜べる状態ではまったくなかったですが、たくさん睡眠をとったらだいぶ復活してきました。

ーーそこまで気持ちがマイナスになってしまった要因はなんだったのでしょうか。

山田:スタッフのことを考えたんです。コロナでこんな厳しい状況のときに無理やり会場に来てもらって、長時間の誘導やエイドなど大変な思いをさせてしまったのではないか。本当に悪かったなと、大会終了後に落ち込んでしまって……。

終了後に来年に向けた反省点や課題を洗い出すミーティングを行ったんですね。厳しい言葉もたくさんもらいましたが、「来年大会がもっとよくなってほしいから」という前向きな意見ばかりあがってきて。

これまでいくつも大会運営に携わってきましたが、今回は短期間にやらなければいけないことが膨大で、ボランティアリーダーとのコミュニケーションが不足してしまいました。

それなのに皆さん「ポテンシャルの高い大会だから頑張ってやっていこうよ」と言ってくれて、そのエネルギーに僕の方が圧倒されました。協賛企業の中には「すごくいい大会だから継続的に支援していきたい」と申し出てくださるところもあって。

そういう声を聞いていたら、自分が勝手に申し訳ないと思い込んでいたことに気づいたんです。



ーー皆さんから来年の話までしてもらえるのは嬉しいことですね。

山田:ほんとに。そういえばこんなことも考えていました。僕らはある意味、いい時期を知らないんだと。企画したのがこの春で、そのときからすでにコロナ禍だったわけですから、僕らはいい時期を振り返ることはないわけです。いってみれば最悪のタイミングで大会を立ち上げたわけで、何が来てもやっていけるはずだと木村君と励まし合っていました。

でも準備中は相当思い詰めているように見えたらしく、友人たちから「これができなかったら生きていけないというくらいの気迫を感じるわ」と言われました。

ーー参加者の方からの声は何かありましたか。

山田:大会サイトのアドレスに驚くほどたくさんメールをいただきました。「信じられないくらい素晴らしい体験だった」と書いてくださった方がいて、なんとも嬉しい言葉でした。

『奥信濃100』はもはや
人生をかけてきた競技と同じ

ーーこれからのご自身の競技と大会運営のバランスについてはどうお考えですか。

山田:まさにそこですよね。僕自身もちょっと意外だったのは、自分のトレーニングを差し置いてでも『奥信濃100』の運営に時間を割きたいと思えたことなんです。

これまでアスリートとして自分を高めるトレーニングは絶対外せないものとして大切にしてきました。ところが、この3ヶ月間はこれまでトレーニングと向き合ってきたのと同じように大会運営に向き合ってきた気がします。

学生時代のクロスカントリースキーからずっと競技者として生きてきて、これまでは練習時間が削られると、悔しかったりモヤモヤした気持ちになったりしたんです。でもこの準備期間は練習時間がなくなってもまったく惜しくなかった。そういう気持ちにさせてくれる月日でした。

ーーそれはなぜだと思いますか。

山田:大会づくりのプロセスが、トレイルランのメンタリティに近いからかなと思うんですよ。準備を重ねて本番を迎え、フィニッシュラインに着いたとき達成感で満たされるわけですけれど、それに近いものがあったのかなと。

もちろん、これからもアスリートである時間は大切にしたいとは思っています。ただ一年のうちのある時期は、『奥信濃100』の大会実行委員長であることが優先してもいいのかなと。これは自分自身でも大きな発見でしたね。

最後の一ヶ月は全然練習ができなかったんですけど、そんなことはこれまで一度もなかったことなんです。トレーニングは自分の人生の中でずっと積み上げてきたものですから。それなのに、なんなのでしょうね。うまく答えになっていないんですけど。

ーーきっと競技と同じくらい情熱を賭けてもいいものということなんでしょうね。

山田:まさにそう。賭けてもいいものなんだろうと感じています。そして生涯を通じて情熱を注げるものなのだろうとも。


おそらくエリア最古の
バックカントリーコースを滑る

ーー『奥信濃100』をどんな大会にしていきたいですか。

山田:まずはしっかり育てていくこと。ときには形を変えなければいけないこともあるかもしれませんが、「毎年この時期になったら必ず開催される大会」と認知してもらえるように育てていきたいです。

ーー100年続く大会となるとあと99回あります。

山田:計測工房さんとも「100回のうちの1回が終わりましたね」と話しました。「100回目のときには僕らいないですけどね」と(笑)。

そういえば年明け、まだ大会の構想の芽もない頃に、いま思い返すとすごい偶然だなと思えるようなことがあったんですよ。110年前、レルヒ少佐から一本杖スキーを習った飯山・妙専寺住職の市川達譲さんは、そのとき新潟県高田から飯山まで習ったばかりのスキーで戻ってきたらしいんですね。

ーースキーでですか?

山田:妙専寺の銅像にそう書かれていて。それで今年の冬、僕は仲間と一緒に達譲さんが滑ったと思われるルートを飯山駅から逆走しようと計画を立てました。おそらく、このエリア最古のバックカントリースキールートですよ。

先ほど、クロカンスキーがこのエリアで100年の歴史を持つという話が出ましたけれど、その話とシンクロすることを僕らこの冬に体験していたんです。

ーー面白いですね、それは。

山田:達譲さんは連隊を連れて帰ってきたらしいんですね。ここだろうなと思う場所があって滑ってみたら、ちゃんと歩きやすいところを通っているんです。飯山市街から斑尾高原に登って、袴岳を越えて妙高に向かっていくルートなんですけれど。

ーー結構アップダウンがあるじゃないですか。

山田:そうでしょ。僕ら最新のスキーで悪銭苦闘しているのに、達譲さんたちは長靴に木のスキー板をしばりつけたみたいな道具でよくここを通ったなと。面白い体験でした。たぶん100年前のルートを遡って滑ったのは俺らだけなんじゃないかとか言いながら(笑)。

『奥信濃100』のルートもこんなふうに後世に語り嗣がれて、未来の人たちが楽しんでくれたらいいなと思いますよ。

Photo:Sho Fujimaki(Photo courtesy of Okushinano100 Executive Committee)
Interview&Text:Yumiko Chiba